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2月17日放送「『叫』~黒沢清監督を迎えて」Part5(外伝2)


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参考資料↓

黒沢清監督の著作↓

黒沢監督、文章も面白いっす。

■放送後のスタジオの様子をご覧いただけます。
動画を見る 放送後の様子(動画:3MB)
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『叫』を「Life」的視点にこじつけるための個人的な妄想
今回、黒沢清監督をゲストにお招きしたことについてやや唐突な印象を受けた方もいたようですが、黒幕はせがわは『叫』の試写を観たときに「これはLifeで取り上げねば!」と勝手に思い込んでしまったわけです。どうしてそう思ったのか説明させていただくとですね、まず、この映画では15年前のある出来事が重要なカギになっています。15年前といえば、バブルの絶頂から崩壊に至る時期ですね。17年前のバブル絶頂期にタイムスリップするというホイチョイの映画『バブルへGO!』が同じ時期に公開されている(内容は対照的ですが)のが、また何とも興味深いです。→2006/10/07 「バブル」ってなんだ?http://www.tbsradio.jp/life/20061007_bubble/

『叫』の主な舞台は湾岸地域。バブル期に「ウォーターフロント」として急激に再開発が進み、さらに現在の再・再開発ブームの舞台にもなっている場所ですね。また殺人の被害者の一人は八王子出身ということになっています。まあ別に八王子という場所が大きな意味を持っているわけじゃないと思いますが、わざわざ八王子の実家のシーンがあったりして、東京の西の方の出身の僕には印象的でした。八王子はバブル期には都心の地価上昇でベッドタウンとして注目され、都心から大学が次々に移転してきましたが、バブル崩壊後は人口増も鈍化、百貨店も次々撤退し、再・再開発で急成長する立川に差をつけられているという印象があります。→2007/02/03 「東京」
http://www.tbsradio.jp/life/20070203/

この八王子出身の被害者を演じているのが葉月里緒奈さんなんですが(って言っちゃうとちょっと違うんですが、詳しくは言えません)、葉月さんのデビュー作は山田太一さん脚本のドラマ『丘の上の向日葵』('93、名作!)。このドラマの舞台が八王子市南大沢のニュータウンだったことを思い出します。山田太一といえば、山田太一原作の映画『異人たちとの夏』('88、大林宣彦監督)も、『叫』を観て連想した映画のひとつです。『異人たちとの夏』は地下鉄旧新橋駅(汐留のあたり。再開発の現場ですね)のシーンから始まる映画ですが、この映画の主人公と女の幽霊の関係が、『叫』の主人公と女の幽霊の関係と似ています。バブルの絶頂に向かう時期に公開された『異人たちとの夏』と、「バブル・アゲイン」なんて言われ始めている時期の『叫』。
それから、もうひとつ。ネタバレになっちゃうとアレなんで詳しくは言えませんが、僕には『叫』が一種の「Lost Generation」(→2007/01/13「失われた10年~Lost Generation?」http://www.tbsradio.jp/life/200701210lost_generation/)映画のようにも思えたんです。幽霊を演じる葉月さんが'75年生まれで僕とほぼ同い年、思いっきりこの世代だってこともありますが、前述の八王子の実家で母親が、殺された娘について「定職にもつかずアルバイトをしながら気儘に暮らしておりました。~でもそのように育てたのは私たちなんです。誰にも頼らず自由にやっていけ、って。そんなことをいまさら後悔してもどうしようもありませんが」とか言うわけです。で、この母親はなぜか娘の婚約者だった男に金をせびられ続けている、と。なんかねえ、フリーター、ニート問題を連想してしまいました。バブル期に新しいポジティブな生き方みたいな煽てられ方をしていたフリーターが今じゃ「再チャレンジしなきゃいけない人」って何だよ、とか。

さらに、この映画では一種の「ひきこもり」が重要なポイントになっています。これも詳しくは言えませんが、誰からも忘れ去られて死んだとき、肉体は滅びても強烈な孤独感と不満と憎悪だけが残ったら...?思い出したのが萩原朔太郎の『死なない蛸』という有名な詩。存在を忘れられた水族館の蛸が、空腹のあまり自分の足を食べ、内蔵を食べ、脳を食べ全身を食べ尽くして消滅してしまうという内容。その詩を引用して無駄に長いこの文章を締めることにいたします。(青空文庫より引用)


 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
~                 
                            (黒幕はせがわ)

上山和樹さんがブログで言及してくれています↓
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070222#p3


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