宇多丸『EO イーオー』を語る!【映画評書き起こし 2023.5.12放送】

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。
宇多丸:宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では5月5日から劇場公開されているこの作品、『EO イーオー』。
(曲が流れる)
ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督最新作。主人公は一匹のロバ、イーオー。サーカス団で暮らしていたイーオーは、ある日突然そこから連れ出され、放浪の旅に出ることになる。人間のキャストとして、『エル ELLE』の名優イザベル・ユペールなどが出演している、ということで……まあでもあくまで人間は、今回は本当にもう、脇というか背景というか、という感じじゃないでしょうかね。ただ、さすがにイザベル・ユペール力はね、強い!という感じがありましたが(笑)。
ということで、この『EO イーオー』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。まあ、回数とかあれが多くないし、まあなんというか、アート映画ですからね……っていうのがあるのかな。賛否の比率は、褒める意見がおよそ7割。主なご意見は、「ロバのイーオーの視点から、人間社会の矛盾や不条理が描かれている」「静かだが力強い映像。映画でしかありえない見事な作品だった」などがございました。一方、否定的な意見は、「何を言おうとしてるのか、わからない」「話に乗れず、特に後半退屈した」などがございました。
■「未体験な文法と作劇にクラクラ。劇中は心の中で『んなわけ!』と叫び続けた」
代表的なところを一部、抜粋しながらご紹介します。ラジオネーム「タヌフォリア」さん。
「『EO イーオー』、ウォッチしてきました。感想としては、あまりに未体験な文法、作劇にクラクラさせられ劇中は心の中で『んなわけ!』と叫び続ける尖りまくった作品で、まだ咀嚼しきれていないというのが正直なところ。スコリモフスキ監督の作品は初めて観たのですが、非常に前衛的なカメラアングルと奇妙な音楽の使い方は時に苛烈な暴力性を感じさせられました。御年84歳(今は85歳。5月5日誕生日)と知ってさらに衝撃。
序盤は『これはいった何を見せられてるのか?』とちょっと頭がぼんやりしてきましたが、森を彷徨いサッカーの試合に迷い込んだあたりから事態は地獄巡りの様相に。動物の処分場や屠殺場の場面はモロにホロコーストを思い起こさせられます。『エル ELLE』のイザベル・ユペールさんが強烈な存在感を見せるシーンも印象的ですが、あの場面の意味が全くわからなかったので解説いただきたいです」という……これ、他の方も、「あれ、なんなんだ?」っておっしゃっていて。いや俺も、「あれ、なんなんだ?」って思ってますけど(笑)。ちょっと後ほど、「まあ一応、この程度の解釈はできるかもしんないけど……」ぐらいは付け加えようと思いますね。ただ、それがいいかどうかっていうかね、そういう解釈の仕方をするのがそんなにいいかどうかはちょっと置いといて……っていう感じもあります。後ほど、言いますね。
あとですね、「レインウォッチャー」さんもね、例によってものすごい……これ、ちょっと長いんで、要約もできないんで。ちょっと読み切れないですけど。他の方も書いてるけど、そのイーオーの、感情というのかな。感情移入して、イーオーの旅に物語性を見出そうとする行為もまた、バイアスありきの思い込みなのかも……なんていうようなことを書いていただいたりとか。あと、このレインウォッチャーさんが面白いなと思ったのは、「映画は最後にとある『結果』に到達し、突如として終わるように見えます。しかし冒頭を思い出すと、今作は大きく円環構造を描いているようにも考えられないでしょうか」と。
サーカスのステージで、倒れている演技のイーオーを呼び起こすカサンドラ、から始まるわけですけど……と考えると、これは面白くてね。まさにその通りで。実はこの、「倒れているロバが起き上がる」という芸をしてるんですけど、後ほども言いますけどそれは「復活」を表す芸なんですけども、それが劇中、途中でもう一回、繰り返されるんですよね。違う形で。そしてラスト、ある結末を迎えるんですが、円環構造とおっしゃっている通り、まずこの『EO イーオー』というタイトルが、どういう形で出るか、思い出してくださいよ。円環構造……もうこれ、完全にたぶん、スコリモフスキの狙いだと思います。なので、ちょっと輪廻的なものも思い浮かべる、というレインウォッチャーさんの読み、なかなか面白いんじゃないでしょうか。
あとですね、ダメだったという方もご紹介しますね。ラジオネーム「空港」さん。「正直な感想として、あまり楽しめなかった。分からなかったです。今作『EO イーオー』は画面上で起こってることやストーリーで迷子になることはないのですが、作品が提示しようとしてるテーマやメッセージをうまくキャッチできない感覚でした」。もちろん、それもわかる気がします。
「……動物目線から見えてくる、人間や人間社会が孕む矛盾やおかしさは、特に新鮮味を感じませんでした。そもそも動物に過度にキャラ付けをしてしまうと嘘くさく白けるし、逆に何も感じていないようであれば作品の推進力が停滞してしまいますし、難しいところだと思いますが、本作は後者になってしまったように思います」といったあたりでございます。まあ、このような感想が出てくるのもわかるな、という感じがいたします。
■伯爵夫人と聖職者の息子とのただならぬ関係。あのシーンをどう読むか?
ちなみにですね、ちょっと先に言っておきます。物語終盤に、イザベル・ユペール演じる伯爵夫人……すごい金持ちの女の人で、義理の息子にあたるような男性というのが、イーオーを連れてきて。で、実はその義理の息子は、聖職者なんだけど、ちょっとドロップアウト気味。で、そのお金持ちの伯爵夫人がいて、関係上は要するに義理のお母さんなわけですけど、この二人、どうやらちょっとただならぬ関係だ、ということが暗示されるわけですよね。
っていうところから思うにですね、後ほど言いますけど、『バルタザールどこへ行く』というロベール・ブレッソンの作品がインスパイア元になってますけど、ブレッソンはより露骨にキリスト教的メタファーっていうのを作品の中に込めてるわけですね。なので、それに倣っていると考えるならば、たとえば劇中で起こるいろんなことが……僕、ちょっとそこまできっちり当てはめてはいませんが。たとえばキリスト教におけるいわゆる「七つの大罪」っていうようなものに、一個一個、当てはまったりするとしたら……たとえばこれは「色欲」にあたるとか、みたいな。最後にそういうのが出てくる。だから、一個一個……たとえばあのサッカー場のあの連中は、「嫉妬」なのかな、とか。まあ「憤怒」なのか、わかりませんけども。そんな感じで、(いわゆる七つの大罪に)当てはめてみることも可能なのかもしれません。
ただ僕、単純に、ちょっとその読みをしても、そんなに面白いかな?とは思っていて……なので、そういう読みも可能だとは思うんで、気になる方はそこに意味づけみたいなのをしてみるのもいいのかもしれないけど。もちろん、オープンな作りなんでね。そういう読み方も、できるようになってると思います。まあ、あの義理の息子が聖職者なんだから、そういう読みをもちろん誘発するところは当然ありますよね。
ということで皆さん、ありがとうございます。私もヒューマントラストシネマ有楽町で2回、見てまいりました。平日午前の回にも関わらず、結構入っていて。それもなぜか、60代以上と思われる年配めの方が、めちゃくちゃ多かった。これ、なぜだかよくわかりません。
■コーナー初登場のイエジー・スコリモフスキ監督作。そのキャリアと『EO イーオー』の繋がりは
ということで、ついにイエジー・スコリモフスキ監督作。このコーナーで取り上げるのは初めてになりますが。とにかく1960年代初頭から……それこそロマン・ポランスキーの監督デビューでもある『水の中のナイフ』、1962年、その脚本とかを書いてる人ですから。もうほとんどレジェンドですよ。まさにね。
そこから、1964年に『身分証明書』という作品で自ら監督デビューを果たして以来、一時は母国ポーランドでの政治的弾圧を逃れ、主にイギリスで活動したりとかしてて。あと、すごく多才な人なので、一時は画家活動と俳優業がメインで。自分で映画はあんまり作ってない、という時期もあったりしたと。一番有名なところ、わかりやすいところで言えば、『アベンジャーズ』の中で、スカーレット・ヨハンソン演じるブラック・ウィドウを最初拷問しようとしてる、あの人ですね。あれがイエジー・スコリモフスキです。
で、しばらく映画を作ってない時期もあったんだけど、2008年に再びポーランドに戻って、17年ぶりの監督作『アンナと過ごした4日間』というのを撮って以降は、ちょいちょい間は空くものの、こうしてまだまだ新作を発表し続けている、という。現在85歳にして、なんならますますキレキレ度を増している!という、恐るべき巨匠でございます。イエジー・スコリモフスキさん。
そのキャリアと作風が今回の最新作『EO イーオー』にどう繋がっていくか、に関してはですね、これまでもイエジー・スコリモフスキについて多くの文章、編著などを残されている、映画評論家の遠山純生さんという方による劇場パンフの解説が、さすが、これ以上ないほど端的に本質を突く、素晴らしい内容なので。ちょっと長めにこの後、引用させてもらいます。とにかく、ぶっちゃけそっちを読んでいただくのが一番かも、というぐらいだと思います。
たとえば、イエジー・スコリモフスキ映画の主人公たちについて、いろいろ過去の例を挙げつつ、遠山さんはこういうことを書いている。「言葉よりも孤独な行動を通して、意思や思考ではなく、むしろ己の本能をあらわにする一種の動物だった」……元々、そのイエジー・スコリモフスキ作品の主人公たちは。「彼らの振る舞いをひたすら追い続ける映画にはもはや、人間たちの物語を綴ることを放棄した佇まいがあった」と言っているわけです。「とりわけ2000年代以降に自作の中で人間を動物に近づけていき、ついには本作で動物そのものを主役に据えたのである」というようなことを言っている……この『EO イーオー』の立ち位置を、ものすごくクリアにしてくれる文だと思いますし。
あるいは、「人間たちに束縛されることを嫌うようにして彼らから逃げ続けるイーオーは、服従を強要されることを拒絶し自由を求めるスコリモフスキ映画の主人公の系譜にも属している」という。この一文なども、まさに!という感じで。とにかく遠山純生さんの評論、これに限らずですが、非常にいつも私、勉強させていただいています。劇場パンフの解説、おすすめでございます。
■「ロバ目線」に「ロバ内面」、なんなら「ロバ回想」「ロバ夢想」まで。まずは独特の文法に慣れよ
ということで近年、ますます研ぎ澄まされて……たとえばセリフも基本、どんどん少なくなって、キレキレ度を増しつつあった流れの先に登場した、このある意味究極のスコリモフスキ映画とも言える最新作、『EO イーオー』。イーオーというのは、ロバの鳴き声の擬音語ですね。まあ、ロバの鳴き声ってでも、結構エグいよね。毎回聞くたびに「こいつ、なんちゅう鳴き声なんだ?」って思うんですけどね(笑)。
ロバ……日本にはちょっと定着しなかった動物なんですが、特にヨーロッパでは、人々の暮らしに最も近い家畜のひとつ、と言えますよね。で、馬のように、一種崇拝の対象となることもなく。あと、犬や猫のように、愛玩の割合っていうのもそんなに大きくはなく。どっちかと言えば明らかに、もっぱら労役のための道具として酷使されがちな……要するに、丈夫であるという一点なんですよね。扱いづらいんだけど丈夫だ、っていうことらしいんですね。
それでいて、瞳はつぶらだったりしてですね。特に映画などのエンターテイメントというか、フィクションなどにおいては、私の表現で言う、「不憫かわいい」という感情移入を誘う動物でもありますよね。その不憫かわいいの代表格(くまの)プーさんと、(ロバの)イーヨーというのが組まされるのはこれ、当然といったところでございます(笑)。ちなみに今年のアカデミー賞、ロバづいていました。『イニシェリン島の精霊』。そして『逆転のトライアングル』。それぞれにロバがね、印象的でございました。そして、こちらの『EO イーオー』、というわけですね。
ロバが主人公の映画といえば、先ほども言いました、ロベール・ブレッソンの1966年『バルタザールどこへ行く』というのが何しろ、映画史的には光り輝いてるわけですが。実際スコリモフスキさんは、あちこちのインタビューで、「映画を観て唯一泣いたのは、『バルタザール』だ」っていう風に言っているぐらいで。「俺は映画なんか観て泣かないんだけど、あれだけは泣いたね!」っていう風に公言してらっしゃってですね。明らかに、一番のインスパイア元なわけですね。
で、その『バルタザール』同様、今回の『EO イーオー』もですね、ざっくり言ってしまえば、最初はとある女性に愛された、たぶん幸せだったロバが、ふとしたことから流浪の存在となり……バルタザールもセリフ、ないですから。イーオーと同じくね。ロバはセリフをしゃべったりしませんから。「たぶん」幸せだったロバが、ふとしたことから流浪の存在となり、行く先々で次々と、出会う人々の愚かさ、滑稽さ、罪深さを浮き彫りにしてゆく。そして、そうした人間たちの業を一身に背負わされてゆく、という……そういう、明らかにキリスト教的な意味合いも強く読み取りうる寓話、と言えるわけですね。
ただ、今回の『EO イーオー』の場合ですね、より「ロバ目線」が徹底されているといいましょうか。まあ『バルタザール』は、つっても「ロバを介して人間を描く」という感じだったんだけど。今回は、なんなら人間は、とにかく背景なんです、どっちかっていうと。「ロバ主観」……ロバ主観のみならず、「ロバ内面」、なんなら「ロバ回想」「ロバ夢想」(笑)みたいなものと推測されるような視点が、比較的わかりやすく物語が伝わってくる客観視点と、もちろん特に説明もなく、同等に混ざってくる。客観的な描写と、そういうロバ回想、ロバ夢想みたいなものが、同等に混ざってくる、という。その、本作特有のある種のルールというか、文法のようなものがわかってくるまで、ちょっとアバンギャルドな、難解な印象を受けるかもしれない。
逆に言えば一旦、何となくでもその本作の徹底した「ロバ目線文法」に慣れてくれば、少なくとも表面的なストーリーは、決して小難しい、わかりづらいわけではない、ということは言えると思います。もちろん、そこから何を読み解いていくか?っていうのはまた、別の次元の難解さというのが出てくるかと思いますが。
■冒頭の「復活」芸のシーン。そのときの「ポーズ」をよく覚えておいて
何しろ冒頭からいきなりですね、主観とも客観ともつかない、おそらく「ロバの内面から見た世界」のようなものから始まるので。それは面食らうのは当たり前ですね。これね。
全体に赤く染まった画面……これ、イエジー・スコリモフスキの過去作で言えば、1972年、町山智浩さんの『トラウマ映画館』にも載っていたことで知られる、『早春』という作品のオープニングの、やはり鮮烈の赤を思い出す方も多いと思いますが。とにかく赤、そして黒……これのコントラストも非常に毒々しい画面がですね、ストロボのようにチカチカチカチカと、非常に目障りに点滅を続けてですね。で、主人公のロバ、イーオーはですね、やっぱり真っ赤な衣装を着た、サンドラ・ジマルスカさんという方が演じるカサンドラという女性に導かれて、どうやらサーカスの出し物、仰向けに倒れたロボが「復活」する、という芸をしているらしい。
ちなみに本作のイーオー役、ボディダブル的な役割を含めて、6匹のロバによって撮りわけられているんですが。メインは監督が惚れ込んだというタコさん。タコというロバ。あとクローズアップはオラというロバで。そのタコとオラで、だいたい7割、8割ぐらい撮ったっていうんだけども。このオープニングのサーカスの場面は、実際にこの「復活」芸、ロバが仰向けに倒れてるのが「復活」する、っていう芸でヨーロッパを回っているという、マリエッタというロバが演じてるそうなんですね。
でもとにかく、この冒頭の「復活」劇……言うまでもなくこの「復活」っていうのは、非常にキリスト教的なモチーフなわけですが。「復活」芸のシーン。イーオーが仰向けになって、足を立てて、蹄を揃えて上に向けている、というポーズをとっているわけです。まだ冒頭で、さっき言った通り非常にアバンギャルドな演出の中で見せられるので、はっきり言ってそれどころじゃないかと思いますが(笑)、できればよく、この「ロバが仰向けになって、蹄を揃えて上に向けている」というポーズ、覚えておいていただきたい。
■人間と違う感覚を持ったロバ視点。その徹底がどこかSF的な感じを醸し出す
というのは、実は本作中盤、イーオーはですね、人間のとんでもなく野蛮で醜い暴力によって、ちょっと瀕死の状態みたいになってしまう。そんな生死の境をさまよう中で、おそらくはイーオーが幻視しているビジョンとして、この「蹄を揃える」ポーズが、再現されますね。それは……これは、予告などの映像で使われているところなんで言っちゃっていいと思いますが。私も以前、ちょいちょいこの番組の中とかで話題にしてきた、あの、運搬用の四つ脚ドローン。ヨロヨロ歩く、四つ脚のドローン。で、あれもやっぱり、どこか不憫で。ちょっと同時に不気味なという、あの機械動物ですね。
あの機械動物の形で……この、「仰向けになって、蹄が揃えられた機械動物が、ガッと起き上がる」というのが、その「復活」の仕草が、再現されるんです。明らかに同じような感じで再現されるわけです。つまり、人間が労役を肩代わりさせ、酷使する家畜としてのロバ……その未来の姿を、まるでイーオーが予言的に夢見てるような、そんな描写が出てきたるするわけです。この『EO イーオー』は。今のところの話だけでも、なんていうか、キレキレすぎませんか、巨匠?(笑) なんすか、この映画は? ロバがロボットロバの夢を見ている、みたいなことですよね。
事程左様に、たしかに『バルタザールどこへ行く』よろしく、流転の旅を続ける中で、人間の業や罪深さを浮き彫りにしていく、というイーオー。これがストーリーラインではあるんですが。本作はあくまで、さっきから言っているように、ロバの目から見た、ロバが感じた世界、という視座……たとえば、人間の客観的なそれとは、時間の捉え方、認識の仕方からして、根本的に違うものとしてのロバ視点。たとえば、終盤で出てくるあのダムのところで、なぜか……「あれ? なんで逆回しなんだ?」っていう感じとか。いろんなところの時間感覚とかが、そもそも人間とは違うのかしれない。人間と違う感覚を持ったロバ視点。これが徹底されているため、さっき言った未来的なビジョンを含め、どこかSF的文明論、みたいな感じすらするわけです。そう考えると、「EO」っていう、わざわざアルファベット2文字っていう表記にしてるのも、ちょっとSF感っていうか、ちょっとハードな感じ、っていうのを出す効果があると思うんですよね。
■「人工物、エグッ!」からのラスボス登場
たとえば前半、夜の森に迷い込んだイーオー……ロバというのはね、とはいえ基本家畜化された動物ですから、この野生動物たちとか、ガチの自然の中だと、それはそれでストレンジャーなわけですよ。それはそれで心細そうなわけですね。で、イーオーが「うわっ、野生の連中、怖っ! ガチ自然……っつっても俺、家畜ですから! ちょっと怖いんですけど! こいつら、怖っ!」みたいな感じで(笑)、怖怖と森をさまよってる中、不気味に盛り上がる電子的音楽とともに、緑の光線がシャーッと……要するにハンターたちのレーザーサイトと思われますが、その明らかに人工的な色といい、その直線っぷりといい、森の中をカーッと交錯しだす、その瞬間のスリリングさ。
同時に、同じようにですね、不気味に盛り上がる音楽とともに、明らかに自然には存在しない人工のものがドーン!と出てきて、怖いけどなんかアガる!っていうくだりとして、あの、風車が出てくるところもそうですよね。川をずっとドローン撮影でガーッと行って、その先にガーッとカメラが上がると、風車! ドーン!っていう……なんかこう、エグッ! 人工物、エグッ!みたいな感じがする、という。その場面ね、しかも、たぶん風車の羽根に当たって、鳥ちゃんがビシャーッと落っこちてくる、という画が入ってくることからも、本作における、なんていうか人類文明の捉え方っていうか、これは一貫してるわけですよね。
で、最終的に、だからそういう意味では人類文明、最後の代表、大トリ(笑)と言わんばかりに、イザベル・ユペールが、ものすごい顔圧……これまで出てきた人間とは格が違う、とにかく人類のボス(笑)感で出てきているわけですね。ラスボス登場!感みたいなのがあるという。
まあ、先ほどメールにもありましたし、私も感じましたが、ぶっちゃけこの一連のシーン、あんまりイーオー、関係なくない?っていう感じもしなくはないんですけど(笑)。ただ、さっき言ったように、「七つの大罪」的な読み取りとかはできるかもしれないし……とにかく人類文明の、ある意味行き着いた果ての、なんていうのかな、歪んだ、ただれた完成版、というか。そういう感じなんじゃない? やっぱりイザベル・ユペールは。
■見ていると自然にロバのセリフが浮かんでくる。「あいつら、放し飼いかよ!」
まあ、ただその、イーオーもやられっぱなしじゃない。僕が観た回ではですね、この一瞬、場内一同がですね、「はっ!」ってこう、息をのむ音が聞こえたんですけど。イーオーが、突発的な暴力で逆襲する場面があるんですね。これ、どこで来るか? お楽しみにしてください。
逆襲と言えばですね、あの、種付けに引っ張り出される馬のところでも、こちらはややコミカルなニュアンスで、やり返しっていうかなんていうか……やり返しっていうか、やらかしっていうか(笑)、という感じでやるところ。あそこもすごいおかしい場面でしたね。
要はやはりですね、同胞、すなわち動物たち……特に人間に飼われ、捕らえられた動物たちですね。野生の自然動物たちは、正直イーオーは、「うわっ、怖っ!」っつって……で、撃たれて死んじゃったのも、「うわっ、怖っ! どっちも怖っ!」みたいな。事態がわかってないですから、人間がどうこうとかは。「怖っ! とにかくこっち、真っ暗だけど……」みたいな感じ。そういう感じでトンネルに入っていったりするわけですけども。でも、そういう人間に飼われ、捕らえられている動物たちの苦境には、何かひとつ動かざるを得ない、というのはらイーオーさん、ちょっと筋が通ったところかもしれません。
特に前半の、ロバとして、ロバという動物として、馬を見つめる視線……言っちゃえばさ、これは言い方は悪いけど、ロバって、馬の劣化版的な扱いをされがちじゃないですか? そこの視線が、すごく味わい深くて。ちょっとこれ、すいません。あんまり擬人化したセリフを当てたりするのは感心しないんだけど、僕は自然に、観ながらこんなセリフが頭に浮かんできたんですね。「あいつら、放し飼いかよ! いいな……と、思ったけど、お前らも結構、大変なんだな」「お前、なにやらされてるんだよ? あの誇り高き獣はどこに行った? お前!」みたいなセリフがですね、勝手に僕の頭の中に浮かんでくる(笑)。
つまりこのように、よくできた動物作品、動物映画では、凡百の動物ドキュメンタリーなど。特に日本のテレビとかがやりがちな、人のセリフを当てて擬人化してくみたいな、そういうあれは不要だ、ってことなんですね。わかるから!っていう。なんならそれはでも、動物を描く……要するに、「いやでもそうじゃないのかもしれない」っていう余地を残さないと、不誠実だよ、っていうことも、この映画を観たりするとわかるわけですね。
■「人は嫌いだがロバは好き」なスコリモフスキ監督。御年85歳にてキレキレなキャリア到達点
とにかく、コロナ禍もあって、様々な悪条件が重なり……たとえば撮影監督が何度か途中交代するとかあってですね、スコリモフスキも本作を、「最終的に編集室で出来上がった作品だ」みたいな言い方をしてるんですけど。ただですね、私は、そのモザイク状の作りになっていることが、さっき言った時間感覚がちょっと我々と違うなとか、ちょっと「あれ?」っていうのような、ちょっと超現実的な感じがするそれは、我々の感覚からすればそうだ、ということであって。我々が感じる自然認識とは違う時間感覚、視覚のあり方の表現に、きっちりそれが昇華されていて。本作に関してはプラスになっている、と思います。これの、なんか全然「自然」じゃない感じが……だと思います。
まああとは、スコリモフスキ、基本的に人嫌い……あんまり人嫌いだから、今はなんか、人里離れた湖のほとりかなんかで暮らしてるらしいんですけど。その突き放した、なんていうか離人的な感覚というのが……これは今までの作品でも、どんどんどんどん人が嫌いになっていく。もう『エッセンシャル・キリング』とかも、セリフもないし。もう、なんかどんどんどんどん人間を突き放すような感じが(増していたのだが)、この『EO イーオー』に関して言えば、ロバが主人公であるが故に……「人は嫌いだけどロバは好き」っていう。ストーリーテリングに、ちょっとスコリモフスキ作品にあるまじきエモーションまでももたらしている、ということで。それがストーリーテリングのエモーションに繋がっている、ってことで、ちょっとある種、スコリモフスキ作品としても、二度とはない奇跡的な一致を見せてるかな、という風に思ったりもします。
動物映画の最先端にして新たな傑作、という言い方ができると思いますし、スコリモフスキイズムのまさに結晶……逆にイエジー・スコリモフスキ、これを撮ったら次、どうすんのかね?っていうか。次はもう、だからそれこそドローンが主役とかね(笑)。あるかもしんないけどね。なんにせよ、当時84ですか。現在85歳にして、一番キレキレの、キャリアの到達点みたいなものを撮ってしまう。これはすごいことですよね。
まあ、なんというかキレッキレ。「なんや、それ!」みたいなところも含めてですね(笑)、非常に多種多様な読み取り方、楽しみ方もできる。私はそういう意味も含めて、めちゃくちゃ尖った、面白い作品だと思いました。とにかく、音響とかも含めてね、集中して観るのが何よりなので。ぜひぜひ劇場で、ウォッチしてください!
(中略)
ちなみに『EO イーオー』なんですが、ラストで、とある、ちょっとエグいというかね、悲しい結末になってくるんですが。あそこの解釈。僕はあれは、「家畜」という存在そのものが、結局逃れえないシステムの中っていうのかな、結局人間のために、元々その種として、存在として作られちゃっている、というか。家畜というシステム全体の逃れえなさというか、それを表してるのかなと思って。だから、無理やりあそこに連れてかれるんじゃなくて、「いつの間にかあそこに入っちゃっている」っていうのは、そういうことかなという風に私は解釈しました。『EO イーオー』、皆さん、どのように解釈するでしょうか? ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!
(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは、『MEMORY メモリー』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』。よって次回の課題映画は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』に決定! 支払った1万円はウクライナ難民支援に寄付します)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
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