蘇生脳【玉置後記 2023.3.12】

鬼と呼ばれた四谷大塚の先生がいたように、私には電球と呼ばれた高校の先生がいた。
老齢で頭髪が無かったので未熟な生徒から陰でそう呼ばれたが、代わりに立派な顎髭を蓄え、常に穏やかな微笑みを湛えた仙人のような御仁。しかし低学年には授業を受ける機会がなく、何者なのかを知らぬまま私は高校3年の春を迎えた。
そして私が所属する進学クラスにとって初めての現代文の授業、その緊張感漂う教室に大量のプリントを抱えて入ってきたのが、この先生である。
指定教科書を使わず自前の文庫本のコピーを全員に配り、戸惑う生徒たちを前にして「ごめんね、こんなお爺さんが来て」と微笑む。
授業の内容も悉く刺激的だった。なぜ人は虚構に惹かれるのか、リアリティとは何か、権利とは何か、生きるとはどういうことか。65歳を迎え、私たちと一緒に卒業する先生は、常に答えではなく問いを投げかけ続けた。
そんな先生が一度だけ答えを投げてきたのが、卒業式直前の最終授業であった。
「これから何をして生きるのか」と生徒から尋ねられた先生は、「コーヒー屋を5年、そのあと盆栽を5年、そのあとは3年ずつ趣味を変えます」と答え、自らの半生を語り始めた。
曰く、小説家を目指して進学したが自分の文体を見つけられずに筆を折り、失意のまま定職にも就かず、コーヒーの焙煎をやってみたり、盆栽をやってみたり、あらゆる新たな夢に手を出しては諦めた。そして三十路になってやっと教員を志し、どうにかここまで生きてきたが、諦めた夢の多いおかげでこれからも退屈しないだろうと云うのである。
一点集中の受験勉強を切り抜けてきた生徒たちの中には、唖然とする者もいれば、未知の感動に涙を滲ませる私のような者もいた。
もはやこれは、人生の欠落を敢えて作ったと言えるのではないか。その先生は謂わば夢敗れた青年であり、言ってしまえば私たちのような夢見がちの若者からすれば忌避したい未来である。しかし、その夢敗れた先生が、他の職種で生き延びた果てで「あのときプー太郎をしていてよかった」と、微笑むのである。
それ以来、その先生が未来を照らしてくれているように思えてならない。60ワット相当で。
文:玉置周啓

【パーソナリティ】

TaiTan
ラッパー。DosMonosのメンバーとして3枚のアルバムをリリース。台湾のIT大臣オードリータンや、作家の筒井康隆とのコラボ曲、テレビ東京との共同で『蓋』を企画するなど、領域を横断した作品づくりが特徴。また、Spotify独占配信中のPodcast『奇奇怪怪明事典』やTBSラジオの『脳盗』のパーソナリティもつとめる。

玉置周啓
4人組バンドMONO NO AWARE、アコースティックユニットMIZのギターボーカル。作詞作曲をつとめながら、エッセイ等の執筆活動や漫画やイラスト等も手がける。 Spotify独占配信中のPodcast『奇奇怪怪明事典』やTBSラジオの『脳盗』のパーソナリティもつとめる。
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