宇多丸『ベネデッタ』を語る!【映画評書き起こし 2023.3.3放送】

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。
宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では2月17日から劇場公開されているこの作品、『ベネデッタ』。
(曲が流れる)
『ロボコップ』『氷の微笑』『エル ELLE』などのポール・ヴァーホーベン監督最新作。17世紀のイタリアに実在し、「聖女」と民衆から崇められた一方、同性愛の罪で裁判にかけられた修道女、ベネデッタ・カルリーニの数奇な人生を描く。主人公ベネデッタを演じるのは『エル ELLE』や『おとなの恋の測り方』などのヴィルジニー・エフィラ。その他の出演者はシャーロット・ランプリング、ランベール・ウィルソンなどなど、といったところでございます。
ということで、この『ベネデッタ』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「ちょっと少なめ」。そうか……(ポール・ヴァーホーベン監督の)前作『エル ELLE』の時は、すごい来たんですけどね。あの時はすごくいっぱい賞とかに引っかかったりとかして、それもあったのかな? (今回メールが少ないのは)ちょっと残念ですけどね。賛否の比率は、褒める意見が9割5分。大変高評価です。みんな大好きポール・ヴァーホーベン、といったところでしょうか。
主な褒める意見は、「一筋縄ではいかない主人公ベネデッタに圧倒された」「最後まで目が離せない」「宗教や信仰の本質を考えさせられた」「ヴァーホーベン監督、80歳を超えてこんな映画を撮るなんてすごすぎる」などございました。御年84歳! 84歳が撮る映画には、ちょっと思えない(笑)。一方、否定的な意見は、「ストーリーがやや平坦」「登場人物たちの葛藤や動機が弱い」などがございました。
■「主人公ベネデッタの八面六臂の立ち回りにただただ圧倒」
代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「サディーク」さん。ご紹介しますね。「『ベネデッタ』、観てきました。聖女と崇められた修道女が異端の疑いをかけられる、というあらすじだったので、もっと陰湿な映画になるのかなと思っていましたが、主人公ベネデッタの八面六臂の立ち回りにただただ圧倒されました。
本作は『奇跡』により『キリストの声』を得たベネデッタと、神の代弁者を主張する教会の『声』を巡る話であるとも思いますが、俗物である教皇大使をベネデッタは痛快なまでに圧倒します。ベネデッタはもちろん、修道院長であるシスター・フェリシタも魅力的でした。現体制のシステムを全てわかっていて、リスクを取らず身を任せた彼女が、ある事件をきっかけに動き、最後の最後に取った行動は映画館で、『マジかよ』と思わず言ってしまいそうでした。
一応、作中で起こったことには合理的な説明を付けることはできますが、最後までベネデッタが自身の奇跡を否定することはなく、どちらでも取れるのも面白かったです。そもそも合理的に説明がつかないことを信じることが宗教であることから、『奇跡』の真偽を検証すること自体に一抹のおかしさがあるのかもしれません。また、史実のベネデッタの年表や年中の制度、道具に関する解説、ヴァーホーベン監督のフィルモグラフィー、高橋ヨシキさんのコラム等、パンフレットの内容が充実していて感動しました」。素晴らしいパンフでしたね。「同じ時代劇である『最後の決闘裁判』のパンフレットがなかった時はとても悔しかったので、改めて映画におけるパンフレットの重要さを再認識しました」。はい、そうですね、本当にね。『最後の決闘裁判』とも近くて……これもね、17世紀のイタリアの話を、フランス語で撮ってるわけですからね。で、いろんなその背景なんかがあるから、こういう解説があった方が本当に嬉しい、っていうのは全くおっしゃる通り。デザインも高橋ヨシキさんが手がけられていて、見事なパンフだと思います。
一方、ダメだったという方をご紹介しましょう。「ちゅうた」さん。「良くできた映画ですが、ストーリーがやや平坦なため、傑作とまでは思いませんでした。神秘体験か虚言・妄想か、どちらともつかないようなお話を期待していたのですが、はっきりと後者寄りの人物造形ですよね。謎の修道女の伝記というよりは、むしろピカレスク小説に近い」。これは全くおっしゃる通り。
「ベネデッタの神秘体験もあえて安っぽい陳腐な描写としたことで、ベネデッタの何とも言えない不可思議さは失われたと思います。が、そもそも監督が描きたかったのはそこではなく、教会の欺瞞性だったのでしょう。(修道院長 シスター・フェリシタ役の)シャーロット・ランプリングの演技は素晴らしいのですが、前院長がわりと普通の人物として描かれているので、教皇大使への密告に至るまでの葛藤が弱かったように思います。
最後に、テロップのみで説明されるベネデッタの後半生こそ、映画で描けば面白かったのではないでしょうか」ということです。はい。(この後の部分は)ネタバレになるかなって心配もありますが、まあいいでしょう、実在の人物の、過去の話なんで。「……70年の人生の後半を修道院内の牢獄で過ごしたのは驚きです。ほとんど記録が残っていないようですが、思い切った想像で描いてもよかったのでは? 老人となったベネデッタの回想からストーリーが始まって良かったかもしれません。それもベタな演出もしれませんが」。なるほどね……ただ、たぶん、そこまで主人公の心情の内側に寄り添うことは、ヴァーホーベンは絶対にしないでしょうね、やっぱりね。やっぱりヴァーホーベン映画(らしくあくまで仕上がっている)、ってこともありますからね。ということで皆さん、メールありがとうございます。メール、本当にね、皆さんのを読んで、面白かったです。
■2018に撮り終わっていた本作。コロナを思わせる内容は偶然のシンクロニシティだった
ということで『ベネデッタ』、私もヒューマントラスト渋谷で2回、観てまいりました。中年男性8割、といったところで、正直もうちょっと……確かに入りを見てもね、もうちょっと入っていてもいいんじゃないかな、という感じはしましたけど。
なんせ、当コーナーでは2017年の9月9日に扱った前作、キャリア中でも最も劇薬度高し!というね、「触るな危険!」といった感じの『エル ELLE』、2016年の作品に続くポール・ヴァーホーベン最新作、ということで。本当は2018年に撮り終わって、2019年に公開するはずだったんだけど、仕上げの時期に、ヴァーホーベンが実はかなりちょっと、大病をされまして。本当、生きるか死ぬか級の。それで延び延びになってるうちに、今度はコロナが来てしまい……ということで、このタイミング。
だから、ご覧になった方はおわかりの通り、劇中、国中に蔓延する疫病……ペストですけど、ペストの侵入を防ぐため、街をまさしくロックダウンする、というくだり。主人公ベネデッタが命じるくだりがありますけど、そんなのも全部、コロナ前に偶然、撮られていたものだってことで。シンクロニシティなんですね。面白いですね。
■「映画というメディアの身もフタもない即物性」でふたつの「現実」の衝突を描くヴァーホーベン
ともあれポール・ヴァーホーベン。70年代から母国オランダで本当に大活躍!した後ですね、ハリウッドに呼ばれて、やはりいろいろ大暴れして(笑)。2006年に再びオランダで大傑作『ブラックブック』を作って以降はですね、ヨーロッパ、特に、本作もそうですがフランスをベースに、新作を作り続けている、御年なんと84歳にして、一向にテンションが下がる気配のない鬼才、でございます。84歳とそのキャリアの初期とで、全く変わってないですよね。すごいよね。この人ね。いつも言ってますけども、僕は大ファンでございまして。今回の『ベネデッタ』に繋がるような形での、その作家性のようなものを、ざっくりと説明しておきたいんですけど。
先ほども言っていた、すごく大絶賛いただいた劇場パンフ、デザインを手がけてらっしゃる、当番組でもおなじみ高橋ヨシキさんのコラムにも、まさにそういうことが書かれておりますが……その人にとってはこの上なく「リアル」で切実な、「“その人にとっての現実”としての幻想」と、客観的に証明できる「本当の現実」。その「二つの現実の衝突」というのを、ヴァーホーベンの映画は常に描いている。
この場合の「幻想」というのは、本作『ベネデッタ』や『4番目の男』という作品などにおける幻視、とかですね、『トータル・リコール』で、あのリコール社が見せる人工の夢とか、あとは『ロボコップ』で蘇ってくる過去の記憶、みたいなですね、具体的なビジョンとしての幻想のみならず、たとえば女性というのに男性社会が投影する幻想とか、イデオロギーという共同幻想とか、そういう「概念的な幻想」というのも含んでいてですね。
とにかくそうした、「“その人にとっての現実”としての幻想」と「客観的な現実」というのが衝突する場としての、特に「性」と「政治」と「宗教」……特にキリスト教ですね、性と政治とキリスト教、というのを、本人は徹底したリアリストでもあるので、「映画というメディアの本当に身もフタもない即物性」というのを全開にして、つまりその即物的な暴力や性描写というのを全開にして、ジャンル映画的な俗っぽさ、面白さみたいなものもしっかりキープしながら、描いてみせる。これがまずは、そのポール・ヴァーホーベンという人が作ってきた映画たちである、という風に言えると思いますね。
加えてですね、その「二つの現実の衝突」の狭間で、男性たちはその幻想にどっぷりと溺れて、耽溺して、なんならそれが原因で破滅していったりする一方、ヴァーホーベン作品の女性主人公たちはですね、その幻想を時には逆手にとってでも、自らの現実を、あくまで自分の意思で、コントロールしていく。なんなら観客にもそう簡単に見切らせない、わかった気にさせない、確固たる「他者」として……前作『エル ELLE』の主人公など、まさにその他者性の頂点たるところだと思いますが、とにかく自分以外の何者にも自分をコントロールさせない!女性主人公というのを、ヴァーホーベンは一貫して描いてきたと言えます。
作り手とか観客にさえコントロールをさせない、付けいらせない……「私の身体のこと、私の人生、私の現実は、私が決める!」、これがヴァーホーベンの女性主人公。だからそれが、ちょっと我々からは理解不能な行動とかも含む、とかね。「いったいあの人、何だったんだ?」みたいな感じも含む、という。
そして、以上述べてきたようなヴァーホーベンのイズムは、今回の『ベネデッタ』に、ある意味最もわかりやすい形で凝縮されている、とも言えるんじゃないかと思います。
■ヴァーホーベン流の「ナンスプロイテーション」。原作は1986年に出版された本
今回はジャンルでいうと、いわゆる「ナンスプロイテーション」というジャンルですね。要するに「尼さんが結局欲望に溺れてしまう話」っていうのは、昔からポルノ的なジャンルとしてあるわけですけど。
ただ、今回のその尼さんの欲望というのが、どう扱われてくるのか?を考えれば、かつてのナンスプロイテーションとは、実は全くの逆……その要するに、男が「どうせエロいんでしょう?」みたいな、そういう幻想を投影するのがかつてのナンスプロイテーションだとしたら、その逆ですね。こっちの幻想をことごとく拒絶し、裏切るような、そんな新しいヴァーホーベン流のナンスプロイテーションが、今回の『ベネデッタ』。
元々は、『ブラックブック』までですね、オランダ製作の全作品の脚本を手がけていた、ジェラルド・ソエトマンさんという方に、この原作となった本、ジュディス・C・ブラウンという方の、これ元は1986年に出た『Immodest Acts : The Life of a Lesbian Nun in Renaissance Italy』という本……「ふしだらな振る舞い ルネッサンス期イタリアのレズビアン修道女の人生」みたいな感じですかね、という本。これ、日本語訳はミネルヴァ書房から『ルネサンス修道女物語 ―聖と性のミクロストリア』という(邦題で)1988年に出されていて。この本を(ヴァーホーベン監督は)、ジェラルド・ソエトマンさんから教わって。で、脚本を進めようとしたけど意見が合わず……っていうことみたいですね。
これ、ちなみにインターネット・ムービーデータベースに載っているジェラルド・ソエトマンさん側の言い分としては、元はもっと、男性社会の中で女性がのし上がっていくことに焦点を当てた、よりフェミニズム的意識が前面に出た内容になるはずだったのに……みたいなことをおっしゃっていて。で、ともあれポール・ヴァーホーベンは、『エル ELLE』でも組んだデヴィッド・バークさんという脚本家を呼んできて、よりジャンル映画的な「盛り」を加えた脚本を仕上げた、と。
■原作本から分かる17世紀イタリアの同性愛観や男尊女卑思想
で、私は、本作にガチャが当たった場合に備えてですね、事前にその『ルネサンス修道女物語』の古書をゲットしておりまして。現在さらに値段が上がっていたので、安くはなかったけど、早めに買っといて本当に良かった!という感じなんですけども(笑)。映画の脚色の塩梅と比較しながら読んだんですけども、まずこの元の本がですね、一応その学術書の部類なんだと思いますが、めちゃくちゃ読みやすく、面白い!んですね。
ジュディス・C・ブラウンさんがフィレンツェの国立文書館で他の調べものをしてる途中に、たまたまこのベネデッタ・カルリーニなる、ちょっと変わった人、その数奇な歩みというのを「発見」するところから、話が始まって。
まずその17世紀の、当時のイタリアで、女性同士の同性愛、いわゆるレズビアンが、いかに「ないこと」「ありえないこと」とされてきたか……男性同士の同性愛以上に、「いや、そんなはずはないでしょう」「そんなのない、ない」と、ないことにされていた。なので、ほとんどこの頃までは記録が残ってないんです。なのでこれ、裁判記録という形で同性愛、女性同士のレズビアンの記録が残ってるっていうのは、めちゃくちゃ当時のアレとして、貴重なわけですね。
で、なぜ「ないこと」「ありえないこと」にされてるかといえば、これはやはりベースにはですね、男尊女卑思想っていうのがあるわけですね。つまりね、女の人は男に惹かれる……で、男が男に惹かれるのもまだわかる、と。でも、女は(男のように魅力的な性ではないと当時のキリスト教社会では見なされてきた)女に惹かれたりはしないでしょう?みたいな、そういう極端な、本当にひどい男尊女卑思想っていうのがあったりするんですけど。まあその解説っていうのも、すごく興味深いし。
その中で、ベネデッタという人がどう生きたのか? そしてどう扱われたのか? それがすごく、くっきり浮かび上がってくるわけです……これ、ちなみに、実際出来上がった映画の『ベネデッタ』以上に、この本だと、よりベネデッタも確信的に詐欺的な(行為を働いているな)というか、確信的に演じてるな、という風に、この本を読む限りは……よりそっちに取れる内容ではあります。はい。
■原作から「ウソとも言えない程度」に盛ったり切り貼りした脚色
で、デヴィッド・バークさんの脚色。(原作本は)ベネデッタ・カルリーニさんの裁判記録と評伝というのに分かれているんですけども、この評伝部分の様々な要素をですね、概ね事実をベースにしながら……ただ、まるっきりのウソともいえない程度には(笑)盛ったり、切り貼りしたりして。基本的にはとても巧みに、長編映画用の物語にまとめていると思います。
たとえばオープニング。先ほどですね、金曜パートナー山本匠晃さんが言っていたオープニングシーン。幼いベネデッタが修道院に向かう途中、盗賊たちに襲われる……も、ベネデッタの予言通り、小鳥ちゃんがマリア様の使いのごとく、駆けつけてくれる!というくだり。
これ、もちろんエピソードそのものは創作なんですけども。少女期のベネデッタが、ナイチンゲール……(日本名は)「サヨナキドリ」っていうんですかね? ナイチンゲールと、その守護天使のごとく交信をして、その「神と繋がっている」っていう確信を幼いながら深めていた、っていう、これは事実なんですよね! だからそれを、物語的に組み込んでいる。あるいは修道院に入った直後、お祈りをしてたら聖母像が崩れてきて下敷きになりかけた、これも事実。でももちろん、そこでこっそり像の乳房を吸い始める!という、あんな描写はもちろん創作、みたいな。でも、していなかったとも言えないかも……みたいなね。はい。
あとその、修道院が金次第の世界だとか……先ほどね、金曜パートナーの山本さんも呆れてましたね。盗賊は(結局)金を取らないのに、修道院は金を取る。これ、本当に見事な対比でした。あと、舞台となるペシアのテアティノ会という修道院が、中央の権力にすごく認められたがっていた、みたいなことであるとか……そういう権力構造というかな、その部分であるとか。あとはこの教会の話じゃないんだけど、娘をえこひいき的にプッシュするベテラン修道女、とか。あと、改宗したユダヤ人の修道女がいて。その中でやっぱりちょっと立場が弱い話、とか。他にも、細かく劇中に組み込まれている要素、ちゃんと元の本にも、あるはあるんですね。
そんな中、一番はっきり「盛って」いるのは、主にクライマックス関連、クライマックス周辺なんですけど、これについては後ほど、また話しますね。
■どこまで自分の言動を信じていたか分からないベネデッタ。演じるヴィルジニー・エフィラさんは前作『エル ELLE』で……
とにかく、劇中の誰よりも本気で、神を、キリスト教のもろもろを信じている主人公ベネデッタ。彼女が見るその宗教的ビジョン、宗教的幻視も、彼女がガチで敬虔であるがゆえに、自らの中に不意に、思わず生じた欲望などに、いわば「折り合いをつける」ために、彼女の中で生み出したものであるようにも見える、と。
なぜかというと、ここだけあえて安っぽく、ご都合主義的に、いかにも作り物っぽい、安っぽいドラマみたいに演出されていたりもするし。また、その欲望が実際にある程度満たされだすと、幻想自体、少なくとも作中では描かれなくなったりする。ちゃっかりしているわけですよ(笑)。こんなバランスなので、「ああ、これは彼女がやっぱり、自分の欲望と信仰に折り合いつけるために見てるものなんだな」っていうのがなんとなく匂わされる。
またですね、この時代の女性としては、異例の出世を遂げるわけですね。異例の権力を、本当にこのベネデッタさんは、史実として握るわけです。それの直接のきっかけとなる、「聖痕」ですね。要するにキリストが十字架にかけられた時の釘の跡とか、いばらの跡みたいなのが出てくる、という聖痕。
これ、現実にそういうものが出てくるというのはやっぱり考えづらい中ですね、作中でも、限りなくグレーに見える……要は「自作自演に見えるが、決定的な描写もない」くらいのバランスが、貫かれていてですね。要はベネデッタが、どれだけ本気で自分の言動を信じていたか、あるいはいなかったのか? 最後まで、そこはよくわからない、というまま……その一線が守られるわけです。まさにこれはヴァーホーベン的、さっき言った「他者」としての女性主人公、ということですよね。
これ、演じているですね、ヴィルジニー・エフィラさん。前作『エル ELLE』の、レイプ犯の妻ですよね、この人ね。だから前作『エル ELLE』においても、非常に敬虔なクリスチャンでありつつ、同時に、特にラストのあるセリフで、敬虔なキリスト教徒、いい人はいい人、だけど……「ひょっとしたらあんた、全部知ってたのか? だとしたらお前が一番ヤバいぞ?」っていう人として描かれる。だから、まさに今回のベネデッタの、ちょっと前哨戦的キャラクターなんですよね、『エル ELLE』で演じていたあの役は。もしお忘れだったら、ぜひ『エル ELLE』を観直してください。
■薄暗く痛快、ダークでユーモラス。まさにピカレスクロマン! 俳優陣も素晴らしい
ともあれ、このベネデッタ。彼女の奇妙な出世物語が、陰湿極まりない……まさにピカレスクロマンって、その通りだと思います。ピカレスクロマン的な権力闘争、一種薄暗い痛快さを持つ権力闘争として、スリリングに、時にダークなユーモアとともに、描かれていく。まあ、あちこち結構笑っちゃうんですけど。
特に、シャーロット・ランプリングさんとルイーズ・シュヴィヨットさん演じる、お母さんと娘の関係でもある、その修道女の二人。ある意味最も「本当の現実」に忠実であったがゆえに、苦境に陥っていくこの二人が、とても繊細で胸を打つ演技で、本当に素晴らしい。シャーロット・ランプリングが素晴らしいのはわかりますけど、娘役のルイーズ・シュヴィヨットさんですか、彼女のすごく生真面目すぎて破滅していく感じ、みたいなのが、見事でした。途中で、お母さんに裏切られた!っていうことに絶望する、あの表情とか。ちょっと耐え難いほどの、すごく胸を打つ演技でしたね。素晴らしかったですね。
あとやっぱりね、オリヴィエ・ラブルダン演じる、このペシアという地方の主席司祭……これ、『96時間』でね、リーアム・ニーソンに奥さんの太ももを撃たれる「ジャン=クロード」というね、パリのあいつですよね。とか、あとやっぱランベール・ウィルソンが嫌ったらしく演じる、教皇大使も含めてですね。権力者の男性たちの小狡さ感、みたいなのもすごく、笑いを誘いつつ、本当に嫌ったらしい(笑)って感じだし。
■この作品で一番「盛って」いるのはクライマックス周辺。そのために必要だった、あの「道具」
でですね、ちょっと時間も迫ってきたんで、史実ベース……たとえばあの、彗星が出てきますよね。彗星が出てきて、「不吉な兆しだ!」ってなりますけど、彗星もちょうどあの時期に(事実として)出て。で、まさにその彗星が出たことも、ベネデッタの幻視というか、その神の言葉として語る言葉に、そのまま入ってたりする。「今まさに、彗星が来てるだろうが! これでおわかりのように……」みたいなことを言ってたりするんですけど。
でですね、先ほど言ったように、この作品で一番「盛って」いるのは、クライマックス周辺なんですね。要するに審問の結果、非常に厳しい……しかも審問の結果、彼女は「嘘をついてる」ってことになるんですけど、それも要するに、やってることが教義的に反しているからということよりも、本当の動機は、権力闘争なんですね。彼女が権力を持ちすぎているから、危機感を持った教皇大使がそれを潰そうとする、という話なんですけど。そこでベネデッタは教皇大使に火あぶりにされかけて、民衆が激怒!からの……みたいな。ここがクライマックスで。で、ここがまさにこの作品が一番「盛って」いるところなんですね。こんな史実はないです。
まずクライマックス。ジャンヌ・ダルク的な盛り上がりを、ということで、この火あぶり展開を、ヴァーホーベンとデヴィッド・バークさんが脚本に加えたわけです。しかしですね、原作にもこれ、書かれているんですけど。女性同士の同性愛っていうのは、さっき言ったように「ないこと」にされてる分、裁きも比較的甘いっていうか、そういうものが多かったんですね。
だから、その女性同士の同性愛が発覚しただけでは、死罪にはならないこと方が多い、特に17世紀ともなると……ということみたいなんですけど。ただ、死罪になるには、ひとつ、条件があればなるんですね。「道具」を使えば話は別。これ、なんで道具を使うと死罪になるか?っていうと、「いよいよ男、いらないじゃん」っていう……男のプライドを傷つける行為だから、っていうことみたいなんです。これも、ふざけてますね。バカみたいなんだけど。
で、そこで出てきたのが劇中の、あの道具描写なんですね。で、たしかにあそこ、ちょっと過剰にポルノ的と感じられる方……しかもここが創作だとなると、いよいよこれはけしからん!って感じる方もいるかもしれませんが。ただ、これもですね、原作本を読み込むと、(他の修道女が)あのように道具を隠し持っていたという例は、記述があるんです。原作だとね、「木靴の中に隠してる」っていう描写があるんですけど。なので、さっき言ったように、「まるっきりウソとも言いがたい」バランス……ベネデッタだってそういうのを持ってたかもよ?っていう。みたいなね。
■民衆によるベネデッタ信仰の背景を物語化したものが本作と考えれば……このアレンジはアリ!
で、なによりこのクライマックス……原作評伝部分のラスト、要はですね、ベネデッタは独房で35年間、閉じ込められた後に死ぬことになるわけですね。なんだけど、彼女が死んだら、民衆が押し寄せたんですよ。「ベネデッタ様が死んだ!」っつって。要するに、民衆の間ではずっと支持され続けてた、という事実があるわけです。
これはなんでかっていうと、ひとつ重要なファクターとしてあるのは、彼女が投獄されたのは1626年なんですが、その後1631年に、ずっとペストが大丈夫だったこのペシアという街に、1631年についに疫病が入り込んできて、ものすごい壊滅状態になってしまうんですね。だから、「これはベネデッタ様の予言通りじゃないか!」っていう風に民衆は思っていた、ってことなんですよ。そうした民衆のベネデッタ支持、ベネデッタ信仰の背景、それを劇的に物語化したものがこれだ、と考えれば、僕はアリじゃないですかねと(考える)。
で、やっぱりその、一生投獄されたっていうのは、さっきも言ったように罪としては結構重めなんで。なんでそこまでされたのか?っていうことを考えると、もちろん権力を握って危険視されたからなんですけど、なんかしらの理由付けがあったに違いない、という時に……みたいなね。だからこのアレンジはアレンジで、僕は筋が通ったものだと思います、原作を読破した結果。
■いつまでもいると思うなヴァーホーベン。84歳でこのテンション。ぜひ劇場でかかっているうちに!
とにかくポール・ヴァーホーベンなんで、もちろん面白さはきっちり担保されてます。その上で、さっき言ったように、ちょっとこっちの価値観もいろいろ揺さぶってくようなスリリングさもあるし。そして、なんというか史実への盛り方みたいなのも、ちゃんと勉強すればするほどに、「ああ、これはなるほど、こういう解釈か」とか、面白みもある。と同時に、きっちり俗悪味もあってですね。
という感じで、さすがヴァーホーベン印、全くテンションもクオリティーも落とさない、今回も間違いなく面白い傑作でした! いつまでもいると思うなヴァーホーベン、ということでもあります。84歳ですからね。このテンションで撮り続けてるいるのはもう、感謝しかありません。ぜひぜひ劇場でかかっているうちに、ウォッチしてください!
(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは、『別れる決心』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは、『逆転のトライアングル』。よって次回の課題映画は『逆転のトライアングル』に決定! 支払った1万円は今週はウクライナ難民支援に寄付します)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
◆過去の宇多丸映画評書き起こしは