宇多丸『イニシェリン島の精霊』を語る!【映画評書き起こし 2023.2.10放送】

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。
宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では1月27日から劇場公開されているこの作品、『イニシェリン島の精霊』。
(曲が流れる)
映画作品では『スリー・ビルボード』などで知られる、マーティン・マクドナー監督最新作。舞台は1923年、アイルランドの小さな孤島、イニシェリン島。そこで暮らすパードリックは、突如、親友のコルムから絶縁を言い渡されてしまう。親友と仲直りしようとするパードリックだが、事態は二転三転していく……『ヒットマンズ・レクイエム』でも監督と組んだコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンが、パードリックとコルムをそれぞれ演じています。その他、バリー・キオガン、そしてケリー・コンドンが出演。第95回アカデミー賞では、作品賞を含む8部門にノミネートされております……どこまで行くかが見もの、という感じでございます。
ということで、この『イニシェリン島の精霊』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「かなり多い」ということです。賛否の比率は、褒める意見が9割近く。かなりの高評価ということです。
主な褒める意見は、「おじさん同士の喧嘩を描きながら、アイルランドの内戦を感じさせる脚本が見事」「困惑しながら見終わった後、何度も思い返してしまうスルメ名画」などがございました。一方、否定的な意見は、「これはどういう気持ちで見ればいいのか? 困惑」「自分にはわかりづらかった」……困惑はもう、間違いなくしますね(笑)。それは間違っていないです。「どういう気持ちになれと?」っていう。全然間違ってないと思います。
■「始めは小さな存在だったこの映画が、いまや忘れられないものとなっていることに気付き……」
ということで、代表的なところをご紹介しましょう。「メルル・ポピンズ」さんです。「争いは、たいてい小さな火種から始まって、やがては全てを焼き尽くすような大事、ときに戦争にもなっていく。小さな島のふたりが何やらケンカしているかと思えば、映画の中で時々聞こえる砲弾の音は、かすかに、でもはっきりとアイルランド内戦を感じさせる。鑑賞後、何日も何日もこの映画のことが頭から離れず、ようやく、そんな風に考えるに至りました。
ふたりのオジサンの諍いの地味な映画、と思って観に行ったのに、観た後数週間にわたって、あれは一体何だったのだろう、と考えてしまう、わたしのなかで、始めは小さな存在だったこの映画が、いまや忘れられないものとなっていることに気付き、マーティン・マクドナー脚本、監督の力量の凄さを感じる映画でした。
今後おまえとは付き合わない、絶交だ、と言われたことがあるならば、パードリックの気持ちは当然わかるし、自分に残された時間が少なくなっていると感じれば、コルムの気持ちもわかる。誰が悪い、とか、何が悪い、とはっきり言えるものはなく、勿論うまい解決法など見つからない。
友好関係も、恋愛も、そして戦争も、始まりは小さな火種から、だんだん火の手が大きくなって、そうなったらもう手がつけられないよ、と映画は、見せてくれているような気がします。それらにプラスして、登場人物を演じる俳優さん達もみな素晴らしく、私は特にドミニク役のバリー・キオガンの才能にあらためて目をひかれました」というメルル・ポピンズさんです。
ねえ。あとあの、「絶交だ」って言われるところまでは行かなくてもさ、「友達が機嫌を損ねてるんじゃないか?」と思って、ちょっとビクビクしながら次に会いに行く感じってこれ、誰にでもない? 学校の頃とか、結構あった気がしますけどね。「あれ? なんか機嫌、損ねたのかな?」みたいな。で、ちょっとビクビクしながら、いつもの様子を装って話しかける、みたいな。これ、誰でもあると思うんですよね。はい。そんなこともありますね。
あとですね、これも面白い。ラジオネーム「三鷹の森のキーノ」さん。初メールの方。「僕は今、アイルランドはダブリンの大学院でアイルランド史に関する博士論文を執筆しており、コロナ前から4年ほど住んでおります。『イニシェリン島の精霊』もダブリンの映画館で観てきました。行った劇場はかなり小さめの30人ほどのところで、おじいさんおばあさんが多かった印象です。とにかく面白かったです」。これはすごいよね。アイルランドで『イニシェリン島』は観たいよね。
「アイルランドで観た際の感想を二つだけ述べさせてください。まず、主人公二人の名前についてですが、どちらもアイルランド語の名前で、フィドラーのColm(コルム)は元々の意味が『鳩』、つまり『平和』を意味していて、『自分の生活にピースが欲しい』という彼の主張が実は名前にも表れています。もう一人の主人公のPádraic(パードリッグ)は元々の意味が「愛郷の念」(パトリオットと同じ語源)で、イニシェリン島のあの小さな村以外の世界を知らない彼のキャラクターがこちらの名前にも表れていると言えます。
二つ目に、バリー・キオガン演ずるドミニクがパードリッグ兄妹の家で夕食を皆でとっている際に、『フランス語知らないの?』というようなセリフがありました。あれはフランス語的にはtouché(トゥーシェ/感動した)という嫌味ですが、劇場のアイルランド人の観客はあの場面が映画で1番の笑いが出ていました。アイルランド語で同じ音のTa se(ターセ)と言う言葉があり、英語ではyes it isの意味になります。つまり、フランス語とアイルランド語のダジャレで、全く逆の意味になると言う高度なギャグ演出でしたが、あれはアイルランドの劇場で観賞したからこそ体験できた得難い映画体験だったと思います。日本からは遠いアイルランドですが、この映画を通してアイルランドの魅力を知る人が増えれば非常に嬉しいです」という。面白い! 三鷹の森のキーノさんです。
一方、「ツーラン」さん。「賛否で言うと、困惑。でした。マーティン・マクドナー監督作品は『スリー・ビルボード』と『セブン・サイコパス』を見ましたが、今作が一番ヘンで困惑する一本でした。小さくて狭くて閉鎖的な島での暮らしで、人間関係を断ち切りたいのに、こんなに面倒で大変なんだと、勉強にはなります。映像も綺麗で、それだけで料金分は楽しめましたが、『スリー・ビルボード』がいかにわかりやすい映画だったのかということがわかる内容で、わかりやすい映画が好きな自分にとっては結構ボーっとしてしまう時間が多い一本でした」というようなご意見でございます。それもわかる気がします。
ということで、皆さんメールありがとうございます。『イニシェリン島の精霊』、私もTOHOシネマズシャンテで2回、見てまいりました。アカデミー賞有力候補ということもあって、年配のお客さん中心にね、平日にしてはまあまあ入ってた方かと思います。
■『イニシェリン島の精霊』に関して勉強になるオススメ文献は
ということで、世界的に非常に高く評価された2017年『スリー・ビルボード』に続く、マーティン・マクドナーさん脚本・監督・製作の長編映画4作目。今回も既に、ゴールデングローブ賞作品賞・主演男優賞・脚本賞をはじめ、多くの賞レースを席巻中。アメリカ・アカデミー賞もどこまで行くか、注目されている。
その前作『スリー・ビルボード』、私のこの映画時評のコーナーではですね。2018年2月17日、まだ『ウィークエンド・シャッフル』時代にガチャが当たって扱っております。これ、例によって公式書き起こしがアーカイブされてますので参考にしていただきたいたいですが、とにかくその時にも言ったようにですね、脚本・監督・プロデュースのマーティン・マクドナーさん。映画監督である以前にですね、劇作家として、主にアイルランドを舞台にした数々の戯曲で、既に圧倒的な評価を確立している方でございます。
ご自身はロンドン育ち、ご両親がアイルランド出身ということで、その「本来の故郷」というのに対する複雑な距離感、というのが、彼の作品におけるちょっと突き放したアイルランド観、というのを作り上げてもいるらしく……「らしく」と言っているのは、例によって引き続きの不勉強で申し訳ありませんが、僕自身は、マーティン・マクドナーさんのその舞台たち、翻訳版を含めて、いまだにひとつも観られていない、ということがございまして。すいませんね。本当にね。
その劇作家としてのマーティン・マクドナーということに関しては、今回の劇場パンフ……これ、さすが安定のサーチライト・ピクチャーズパンフ・クオリティーと言うべきか、まずアイルランドを舞台にした作品たちの解説というのが、割と詳しく載っています。あと、前作『スリー・ビルボード』の時のパンフ。これ、マーティン・マクドナー戯曲を日本で複数演出されている、長塚圭史さんによるコラム。これも非常に勉強になる。
あとはですね、『キネマ旬報』で、これは当番組でもおなじみ、北村紗衣さんですね、さえぼうさん。さえぼうさんの解説、さすがでしたね。特にあの、妹さんのシボーンが、アイルランド本国の方に、図書館司書というか、そっちの仕事を見つける……その図書館というのが、当時のアイルランドでどういう意味を持っていたのか?というのを含めた解説、非常に勉強になりました、さえぼうさん。まあこんなあたりが、少なくとも今回の『イニシェリン島の精霊』に関しては、とても勉強になりましたので。ぜひ興味ある方はね、見てみてください。
■これまでの監督作品から見えてくるマーティン・マクドナー監督のテーマとは?
とにかく、元々は「アラン諸島三部作」と言われる(戯曲群の)、その完結編となる戯曲として構想された、最初は「イニシィア島のバンシィ(精霊)」……から、タイトルだけ一部スライドして映画用に書かれたのが、今回の『イニシェリン島の精霊』だ、ということで。内容は関係ないってことらしいですけど。その意味では、これまでの長編映画三作と比べても、アイルランド系劇作家としてのキャリアに回帰したというか、より本来のご本人の世界観に近い一本になっているのかな、とは思われるんですけども。
それと同時にですね、本作『イニシェリン島の精霊』は、前作『スリー・ビルボード』の時評の際に僕が言ったようなこと……要はですね、舞台は観れていないけども、短編『シックス・シューター』を入れて、今は五本の映画作品のみしか観られていなかったとしても、それでもはっきり浮かび上がる、おそらくは一貫したマーティン・マクドナーさんの作風(テーマ)というのが、やはり明確に現れた、なんならそれをさらに一歩進めた、進化させたような一作、と言えるかと思います。
たとえばですね、ざっくり言ってしまえば、「人は変われるのか?」というのが、マーティン・マクドナー作品に常に共通するメインテーマであった、と私は前にも言いました。それこそ今回の『イニシェリン島の精霊』でコリン・ファレルが演じているパードリックのような、ちょいバカで、はっきり間違った、正しくない言動も多々するんだけど、そのぶん一途で、どこか健気、かわいげも間違いなくめちゃくちゃある男、みたいなキャラクター……『スリー・ビルボード』で言えばサム・ロックウェルが演じていたあの警官とか、みたいなのも、マーティン・マクドナーさんの過去作には繰り返し出てきますし。
もっと言えば、今回の『イニシェリン島の精霊』での、コリン・ファレルとブレンダン・グリーソンが演じているこの二人の男のキャラクターと関係性は、マーティン・マクドナーさんの長編映画デビュー作、2008年、日本ではビデオスルーになった、ソフトのタイトル『ヒットマンズ・レクイエム』、元のタイトルは『In Bruges(ブルージュにて)』っていう、これにおける主人公の殺し屋二人と、ほぼ完全に重なる感じですね。あの二人がまだ仲が良かった頃、みたいな雰囲気です。そっちの『ヒットマンズ・レクイエム』の方は。
一方、本作ではブレンダン・グリーソン演じるそのコルムとか、『スリー・ビルボード』で言えばフランシス・マクドーマンド演じるあの主人公のミルドレッドのようにですね、鉄の意志で我が道を突き進む、ブレない人物、というのも配されていて。あまつさえ、その堂々たるその佇まいを、明らかに西部劇を意識したタッチで捉えてみせる、というのも、特にこの『イニシェリン島の精霊』と『スリー・ビルボード』は、はっきり共通してますよね。これね。「ああ、またこういうことをやってる」みたいな感じ。
とにかくその、周囲の人間からはほとんど常軌を逸した(ように見える)レベルで、意志を貫く……それこそ自己犠牲的な行為まで伴ってまで意志を貫く、ブレなさすぎる人物と、さっき言ったちょいバカで全く正しくないけどかわいげもある人物、彼らがとあることからこじれ始めて、そのこじれがどんどん大きくなって、ついには破滅的な事態を招くことになる。しかも、その先にこそ実は、「人は変われるのか?」という可能性、まあ罪が贖われる余地とか、かすかな希望、みたいなものが見えてこなくもない……くらいの感じ。みたいな。もちろんその根底には、アイルランド内戦という、まさにこじれにこじれた歴史であるとか、キリスト教的な贖罪意識というかな、そういうものみたいなものがある、という風にも言えると思いますが。
とにかくこういう構造で、マーティン・マクドナーさんの、少なくとも僕が観た短編を含む映画作品たちは共通してきたし、おそらく舞台作品も、それとシンクロしてないわけはないだろう、という。あらすじとかを読む限りでは、やっぱりそうじゃないかな、という感じが……観れてないんで、あれですけどね。あらすじとかを読む限りは、やっぱり共通している、という風に思えます。そしてもちろん、ご覧になった方はおわかりの通り、『イニシェリン島の精霊』、この作品も、まさしく今、僕が言ったような作品なわけですね、とりあえずは。
■印象的なイニシェリン島の雄大な風景。挟みこまれる動物たちのショットや色の配置が意味するもの
本作で印象的なのは、まずはやはり何より、アイルランド、イニシュモア島とアキル島というところで撮影された、架空のそのアラン諸島の島・イニシェリン島。その景色の、まず雄大さ、美しさ。これがね、まずすごく印象的ですよね。
前作『スリー・ビルボード』で確立した、起こっている出来事そのものは、すごく卑近ですらあるようなこと……すごく、なんというか身近というか、しょうもないことだったりするんですけど、視点はどっしり神話的・寓話的、という。このバランスが『スリー・ビルボード』ですごく確立されて、それでマーティン・マクドナーさんは作家として一個、格が上がった、ということを言いましたけど、そのバランスが、さらに押し進められたような感じ。
ちなみにこれ、『VIDEO SALON』というところに載せられている撮影監督ベン・デイヴィスさん、これ、MCU作品とかもいっぱいやっている名手ベン・デイヴィスさんのインタビューによればですね、人間の愚かな営みを客観視してるかのような、動物たちのショットがちょいちょい入りますね。要所に入りますけど、必ずその動物たちは、「ペア」で映し出されてるって言ってるんですね。まあ、その主人公二人のかつては仲睦まじかった頃も連想させるし、あとはやっぱりこのガランとした、他には何もないようなその島の中で、誰かにはそばで寄り添っていてほしい、という思いのメタファーにもなっている、というようなことをベン・デイヴィスさんはおっしゃっています。
とにかく、そのアイルランドの島と、その「緑」が非常にね、鮮烈な絶景ぶりですね。非常に緑が鮮烈。それに対して、人々の暮らしの中にある、「緑以外の色」の置き方も、非常に印象的で。特にマーティン・マクドナー作品の、主に舞台の方の常連であるケリー・コンドンさんが、まあ大変に情感深く見事に演じているパードリックの妹・シボーンさんというのがいて。彼女だけが、赤とか黄色、そしてかわいい柄物の服を着ていてですね。保守的なその島の風土に収まらない知性とか情熱っていうのを、ずっと彼女は実は持ってる、ということが、一目でわかるようになってるわけですね。
だからこそ、理由は言われませんけども、6年前に両親が亡くなって以降は、もっぱら要はあのどうしようもない兄貴の世話のためだけに、ここでの生活に縛られている、甘んじてきたのだろう彼女の人生の苦悩、悲しみというのが、やっぱりセリフで言う以上に伝わってくるわけですよね。また、彼女のまとうその赤とか黄色っていうのが、島の風土に収まらない知性とか情熱の象徴とするならば、ブレンダン・グリーソン演じるコルムの家もまた、実は赤とか黄色がちりばめられている。あの、窓枠が赤だったり、壁が黄色だったり。これは何をか言わんや、という感じですよね。
■コリン・ファレルの眉毛、バリー・キオガンの佇まい、そして……ミニチュアロバのジェニーがまぁかわいい!
一方、コリン・ファレル演じるパードリック……彼のあの、太い八の字眉毛、非常に印象的なんだけど(笑)。ここまで情けなく不憫に見えたのは初めて、っていう感じで、そこらへんもすごくはまってるんですが、彼が着ているシャツとか襟付きのセーターみたいなものですね、くすんだ赤でとてもかわいいんだけど、あれはたぶんだから、妹に編んでもらったり、作ってもらったりしたものなんですよね、きっとね。妹側の名残なんですよね、だからね。みたいなあたり。
とにかく、このイマー・ニー・バルドウニグさんという方の衣装が、素朴なのに、ちゃんと今言ったような寓意も込められてて、非常に、すごいいいですね。コルムがまとう、ちょっと西部劇風のコートとかハットなども含めて、この衣装が本当に見事、ということが言えると思います。
キャストで言えばもちろんですね、誰もがこれは本当に言うでしょう、バリー・キオガンが演じるドミニク。いわゆる道化役というかな、物事をちょっと違った位置で、みんなからはちょっとバカにされてるけども、違った位置から見ることもできている道化役なんだけども。
特に私が印象的だったのは、やっぱり彼が、あの不吉な湖のほとりで、ほとんど三途の川のように見える湖のほとりで、そのシボーンさんにモジモジと告白するところ。あの愛らしさ、そして痛々しさ。先ほどね、金曜パートナーの山本匠晃さんも言ってた通り、常に落ち着きのない佇まい……こうやって体を揺らしてたりとか、っていうその佇まいだけでまず示す、彼のあり方。でも同時に実は、なんというか、それを表に出す術とか言葉とかを知らないだけで、すごく繊細で、なんなら知的ですらある内面までちょっと感じさせる、っていう。要するに「バカの子」役なのに、「いやでもそれは、単に見え方の問題なのでは?」っていう風に、そこの深みまでやっぱり演技のニュアンスで出す、という。本当にやっぱり、若き名優と言っていいかなと思います。バリー・キオガンね。
彼のお父さん、ゲイリー・ライドンさん演じる、非常にマッチョで差別的で暴力的な警官……まずその、「非常にマッチョで差別的で暴力的な警官」というもの自体が、マーティン・マクドナー的だ、と言えると思いますが。同時に彼が、途中ね、素っ裸で、制帽だけかぶって、椅子に座って。死んでるのかな?っていうぐらい身じろぎもせずに、寝てしまっている、というこの絵面の、なんていうか、間抜けなシュールさ。これ、ちょっとデヴィッド・リンチ的と言っていいような、『ブルーベルベット』とかを思い出すような、このダークな笑いのセンス。ここはちゃんと、さすがマーティン・マクドナーかな、と思いますね。
あと、キャストで言うと僕、本当に印象に残ったのは、ミニチュアロバの「ジェニー」がね、まあかわいい!っていうかね。かわいいな、なのに……(泣)っていうことですよね。はい。
■今回の映画は「お前と話してると時間のムダだから、絶交していい?」
無論、マーティン・マクドナー作品の「こじれ」……最初は本当にしょうもない話ですよ。「お前と話してると時間のムダだから、絶交していい?」っていう(笑)。理屈としては正しいんだが(笑)。こじれにこじれが重なり、本当にさっき言ったような、破滅的な事態になっていく……という中で起こる、あっと驚く暴力性が随所に配されてたりする。
たとえばですね、さっき言ったバリー・キオガンのお父さんの警官が、パードリックを殴るところ。ここ、うまいんですね。後のほうで、ちょっとピントが合ってない状態で、彼が一旦、フレームアウトするんですね。外に出てきて、右側にフレームアウトしてからの、斜め前からバンッ!て殴ってくる……つまり、思わぬ方向から、観客的には見えない、死角になってるところから暴力が来る、という。これはすごく、映画ならではのショック描写として、本当にマーティン・マクドナーさん、映画作家としてもやっぱり腕があるな、っていうあたりですし(※宇多丸補足:この非常に映画的と言える「思わぬ方向からの暴力」、マーティン・マクドナーがリスペクトを公言し他の作品内でも引用している北野武の特に初期監督作に顕著なものでもあるので、ある種の影響、と見ることもできるかもしれません)。
そうしてどんどんどんどんエスカレートしていく、そういうちょっと血生臭い事態……予告などから想像されるよりはずっとエグいことになってきますので、そこはご覚悟、もしくは安心を(笑)、といったあたりでございます。
■パードリックがいる崖の奥に佇む「黒い影」、その正体は?
ちなみにですね、最後の方に、ちょっと一ヶ所、あえて文字通り画面上でも「ぼかされて」いて、それゆえに引っかかりと謎を残す、とあるディテールについて、お話をしておきたいんですけど。
後半というか、結構終わりの方ですね。ついに妹さんが、島を出る。島を出て、アイルランド本国で図書館の仕事に就くことを決意した、妹・シボーン。そういう意味ではある意味、お兄さんを置いていく、「私は私の人生を生きるから」っていう感じで置いていく、というそのシボーン。船に乗ってですね、船の上から、崖の上にちょこんと……かなり小さいです。下から見るとかなり小さく見えるお兄さんのパードリックに、手を振っています。
一方、カメラがパッと、崖の上のところにカットが変わって、コリン・ファレル演じるパードリック側を捉えたショットになるんですけど。こうやって手を振ってます。シネマスコープ、横長の画面です。1対2.39。横長の画面なんですけど。ちょうど手を振っているパードリックの前あたりにですね、画面で言うともっと奥の、一個の奥の崖に、黒い、人物なのか何なのかっていう影が、ボケて見えてるんですよね。なんだかわからない。人かどうかもわかんないくらいボケてるんです。
船の上で手を振る妹もですね、お兄さんにずっと手を振ってるけど、目線が一瞬、そっちの、画面でいうとこっちから見て右側に、ちょっとだけ目線が行って。「あれ?」っていうような、ちょっとだけそういう雰囲気なんです。それは明示はされない。一瞬だけ目線が右側に行って、観客から見ればその黒い何ものかの方に妹が向いた、と思われる……そのぐらいです。で、またお兄さんの方に(視点は)戻るんだけど、最後まで、この奥の崖の方にいる黒い影が何かは、ピントが合わないので、わかんないんですよね。明らかに意図的に、ぼかし続けてる。
撮影監督のベン・デイヴィスさん、さっき言ったその『VIDEO SALON』のインタビューで、ARRI シグネチャーレンズっていうのを使う理由として、「幅広い画を撮ったとしても、端から端までしっかりと焦点を合わすことができる」、そのためにそのシグニチャーレンズを使っている、って言っているぐらいなんで。わざとそんなボケたままで、奥にいる……しかも結構、目立つ影なんですよ、(パードリックの)顔の前にあるから。それが見えないっていうのは、明らかに意図的で。
この影、解釈はいろいろ可能でしょうが……たとえば、あれこそまさに死を告げる、イニシェリン島というかアラン諸島に伝わる精霊、泣き叫んで死を告げるという精霊、という解釈も可能だろうし。あとは、やはり僕は、その後に非業の死を遂げる、「あの人」がそこにいたんだ、という風に思ったりしてますけどね。
■『スリー・ビルボード』より一歩進んだエンディング。その解釈を語りあうことで完結していく
こんな風にもちろん、たとえばパードリックとコルムの仲違いの件、それぞれをどう思うか?みたいなね。人によってもちろん、立場、あるいはその人生の時期によって、それぞれ解釈や意見は、観た後にこれ、強烈に盛り上がると思うんですよね。僕は正直、コルムさんの気持ち、すごいわかるな、とも思いますし。
で、ちょっと僕がさっき言った「人は変われるのか?」というテーマ、これはマーティン・マクドナー作品に共通するもの、と言いましたけど、本作はそれをさらに一歩進めて、その「変わろうとしても変えようがないしがらみ」みたいなものがあるとして……僕はすごく印象的でした。「それって必ずしも悪いことか?」っていう。その、「こじれにこじれて、しがらみが濃くなっちゃうことって、それ自体、本当に悪いことって言えるのか?」みたいな問いとか。
なので最後、どういう風に解釈するかはそれぞれですけども、僕は実は最後は、暗澹たるエンディングと取ることもできますけども、要するに『スリー・ビルボード』よりもちょっと一歩進んだエンディングと思えるのは、「他者」同士が相互理解の可能性みたいなものを見せて終わるのが『スリー・ビルボード』だったとしたら、そうじゃなくて、他者は他者のままかもしれないけど、むしろ他者性が明快になった今の方が、よりお互いを理解してると言えるんじゃないか?っていうか。だから二人が違う方向に歩んでいくってあれ(ラストシーン)は……とかね。
まあこんな感じでですね、エンディングの解釈、さっきの影の解釈、それぞれどっちがどんぐらい悪いとか、どんぐらい正しいと思うかとか、みたいなことも含めて、観終わった後に、その解釈とか意見・感想みたいなものを語り合うことで、ある意味すごく完結するというか……非常に(解釈を固定しない)オープンエンディングとなってますのでね。開けたエンディングとなってるので、絶対盛り上がる一作ではないかと思います。
ということで、非常にミニマルな作りであり、そして基本クスクス笑えるダークコメディでありながら、やはり神話的・寓話的、政治的でもありながら、非常に我々の日々の暮らし・人生とも通じる普遍的な話にもちゃんとなっている、という。あの着地のグレーさに対して、ずっと面白みがキープできてるっていうか、そこも含めて、まあ見事な作劇だし。(元々)映画作品として書かれたのも納得の映画技法の数々も凝らされていて、やっぱりマーティン・マクドナー、さすが!と言わざるを得ない一本だったと思います。ぜひ、この雄大な自然というのが、起こっている事態のしょうもなさと対比される、というのが大事でもありますので。ぜひぜひ劇場の大きなスクリーンで、ウォッチしてください!
(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは、『バビロン』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは『FALL/フォール』。よって次回の課題映画は『FALL/フォール』に決定! 支払った1万円は今週はトルコ・シリア地震の救援金に寄付します)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
◆過去の宇多丸映画評書き起こしは