宇多丸『エンドロールのつづき』を語る!【映画評書き起こし 2023.2.3放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では1月20日から劇場公開されているこの作品、『エンドロールのつづき』

(曲が流れる)

監督・脚本を手がけたパン・ナリンさんの、実体験を基にしたヒューマンドラマ。インドで学校に通いながらチャイ売りをしていた少年が、映画と出会い、監督になる夢に向かって走り出す姿を描く。主人公の少年サマイ役には、約3000人の中から選ばれた新人バビン・ラバリさん、ということでございます。

ということで、この『エンドロールのつづき』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「普通」。まあでも、公開館数はそんなに多いとか、そういうことじゃないですから。大体的に宣伝とか、そういうことじゃないんで。健闘している方じゃないでしょうか。

そして賛否の比率は、褒める意見がおよそ8割ということで、非常に好評です。主な褒める意見は、「歴代の『映画を扱った映画』の中でもトップクラスの良さ」「ジュブナイル的なストーリーだが、現実社会のシビアな変遷もきちんと描かれている。それでいてラストは優しい」「お母さんの料理が美味しそう」などございました。

一方、否定的な意見は、「いい作品だとは思うが、主人公サマイくんの悪行や……」。たしかに、かなり悪行します(笑)。「その償いの形にモヤモヤが残る」「できれば父親も映画で救われてほしかった」。お父さんはね、あんまり映画好きじゃない、っていうね。非常に敬虔なヒンドゥー教徒であるため……というようなことが描かれていましたけども。

■「この作品を観ながらずっと大林宣彦監督のことを思い出していました」

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。「真夜中のゴアさん」、ご紹介します。メールによっては一部、抜粋してご紹介しますね。

「『エンドロールのつづき』、すでに二回も観てしまいました。結局映画って何なのさ? という問いかけに真摯に向き合ってみせた、“映画が題材の映画”の中では、トップクラスに位置する作品ではないでしょうか。“映画が題材の映画”では、映画とはどういう芸術なのかを映画内で提示してみせる必要があると思っています。その点で、本作とプロットが似ている『ニュー・シネマ・パラダイス』は、私はそれほど好きな作品ではありません。『ニュー・シネマ~』は、映画じゃなくても成立する物語に思えてならないからです」。要するに、「過去に思い入れが強かった何か」であれば成り立つじゃないか、みたいなね。そういうところはあるかもしれません。

「……本作が素晴らしいのは、“映画の本質とはなにか”という問いかけに、“テクノロジーが進歩しても変わらないものはなにか”“社会/コミュニティーにおける映画/映画館の意義とはなにか”まで踏み込んで考え、それを少年の成長ドラマにしっかりと落し込んでいるところです。本作、そして主人公であるサマイ君にとって、映画は“虚と実が入り交じる作り物”というスタンスが一貫されています。サマイ君が最初に魅了されるのは映画や映画館ではなく、暗闇を照らす“光”である、というのがその象徴でしょう。そして映画こそがサマイ君の人生を照らす“光”になる、という展開は巧い作りだと言わざるを得ません。

そして、感動的なのはなんといってもラストでしょう。時代とともにフィルムはデジタルになり、諸行無常に感傷的になって終わり──、ではなく、“化身”として生き長らえるもの、映画の歴史は未来にたしかに続いていくものとして示してみせたラストシーンには、胸を奪われました。映画たちが工業製品に生まれ変わるシーン、ネガティブに捉えることもできますが私には非常にポジディブなラストだと思いました。さて、すごく見当違いかもしれませんが、私はこの作品を観ながらずっと大林宣彦監督のことを思い出していました。この映画に流れるフィロソフィは大林イズムに通じている気がするのです。“映画は作り物”ということを意識させつつ、観る人の想像力を信じた映画作りは、まさに大林イズムではないでしょうか。サマイ君がDIY精神で映写機を完成させてしまう展開は、大林少年が、“映画を見るよりも先に映画を作っていた”という誰もがビビったエピソードとも重なる気がしています」。

いや、でも大林さんはね、それでも有りもののカメラを使って撮っていたわけですから。俺、だから大林監督、ご存命だったら、「監督! ちょっとひょっとしたら上を行くやつ、いるかもしれませんよ! こんなのを作ってるやつ、います!」みたいなね(笑)。いや、でも大林さん、絶対この作品を喜んだと思いますね。後ほど、やっぱりどうしても「映画についての映画」……特に映画「館」についての映画、という意味ではね、大林監督の『海辺の映画館』なんていうものもありますからね。後ほど、ちょっと話が出てくるかもしれません。ありがとうございます。

あとね、おなじみ「レインウォッチャー」さん。いろいろ書いていただいてですね、面白いんですけど、最後のところで、「……少年サマイがピュアな良い子じゃなく、きっちり手癖も足癖も悪いクソガキなのも信頼できるポイントで、クソガキ愛好家の皆様にも是非オススメしたいです」というね(笑)。「悪ガキだからいいんだ」というレインウォッチャーさん。

一方で、そこの部分が引っかかってる方もいた。「伊住院ピロリ」さん。この方、ちょっと省略して読ませていただきますが。「今まで“映写”という、“縦方向”の視覚体験で追っていた少年の変化を、ラストでは、“列車の移動”という“横方向”の変化で示すことにより、少年がこれから未来に向けて進んでいくことも同時に表現されているようで、思わず涙腺が緩みました」、なるほど。「と、そのまま綺麗なストーリーとして受け取ることも可能なのですが、少年の非行については……」。まあ途中でちょっとね、本当に文字通り非行っていうか、逮捕されちゃいますけどね。

「『家族の愛』という謎の包容力で許されたかのようになっており、結局のところ少年が冒頭から持っていた凶暴性については未解決のままなのではないか……」。凶暴性? ああ、弓矢で遊んでるから? それを凶暴性とまで言うかは、ちょっとそこは意見がわかれるところかと思うが。「……それに対する贖罪は無視して良いのかな? という違和感が鑑賞後も残ってしまいました」。たしかにね、結構な重大なことはやってますからね、はい。

「環境ゆえの愚行、というのは理解できるのですが、とは言え『やっちゃってんじゃん!』という事実が拭えない以上、単に綺麗な名作と評することは自分にはできませんでした」というようなご意見でございました。ということで、ありがとうございます。私も『エンドロールのつづき』、ヒューマントラストシネマ有楽町で二回、見てまいりました。

■日本で初めて公開されたグジャラート語映画が本作

ということでね、「インド映画」と一口に言っても、言語も違えば作ってる場所も違ったりして、だからたとえば、全部が全部「ボリウッド」じゃないですよ、とか、いろいろあるんですよ、というのはですね、当番組でもたとえば昨年10月18日、バフィー吉川さんをお招きしての「インド映画最前線特集」などで、教えていただいてきたあたりですが。たとえば昨年11月4日にこのコーナーで扱った、ご存知『RRR』がテルグ語映画、いわゆる「トリウッド作品」だった、みたいなのに対してですね、今回の『エンドロールのつづき』は、なんと日本で初めて一般公開された「グジャラート語」映画ということらしいですね。グジャラート語。で、製作も、主にヨーロッパから資金を集めてきた独自体制、合作体制で。要はインドのメジャー会社作品じゃない、ってことですよね。

クイック・ジャパン ウェブというところのね、先ほど言ったバフィー吉川さんによる監督パン・ナリンさんのインタビューを読むと、インド映画業界は、血縁などのコネが非常に物を言う……なので、業界の内部では、近年になるまで、なかなかパン・ナリンさんが活躍する余地がなかった、という風にご本人もおっしゃっている。「現場にも近づくことができませんでした」とまで言ってるんですよね。

なので、僕はこのタイミングではね、パン・ナリンさんの過去作、ちょっと二つしか観れてなくて、不勉強で申し訳ないですけども、その二作、2001年の長編デビュー作、日本タイトルが『性の曼荼羅』っていうね、あと2005年の『花の谷-時空のエロス-』っていう……このタイトルを見るとちょっと「あれ?」ってね、「そういう(エロス描写が売りの)作家なの?」っていう感じがちゃいますけども(笑)。ちなみにこの『花の谷-時空のエロス-』は、今回の『エンドロールのつづき』の中でも、非常に印象的なところでセルフ引用されてます。要は(映像に主人公たちが擬似的に)音をつけるところ、ありますね。あそこで流れてるのが、『花の谷』ですね。で、どちらもですね、これもやっぱりヨーロッパからの資金で作られた合作形式の作品だし。舞台もですね、インド本国じゃなくて、チベットとかね、ヒマラヤの奥地とか、果ては東京だったりして、出てくる人種、文化的バックボーンもわりといろいろ混ざった感じだったりしてですね。要は、「いわゆるインド映画っぽさ」とは違うテイスト、方向性の二作だったんですよね。

■独特の「我流感」がキム・ギドク監督とも通じるパン・ナリン監督

個人的にはこの二作から特に感じたのは、キム・ギドクとちょっと通じるような、「我流感」というかな。我流感がちょっとキム・ギドクに通じるな、という風に思ってたんですけど。劇場パンフのプロデューサー、ディール・モーマーヤーさんという方のインタビューでも、「インドの脚本家兼映画監督のほとんどは文化的にも経済的にも恵まれた家庭出身で、幼い頃から基本的な教育を受けて、映画に接する機会に恵まれた人が多いのですが、パン・ナリンの場合はその逆でした」っていう。要するに、劇中で描かれる通りの環境だったという。これ、すごくキム・ギドクっぽいですね。キム・ギドクも結構大人になるまで、映画を観たことなかった人なんで。

つまりですね、自伝的作品でもあるという今回の『エンドロールのつづき』の主人公同様、物心がつくまでちゃんと映画というものを観たことがなかったという……パン・ナリンさんご自身はまさに、劇中の主人公同様にその後、ちゃんと学校で、でもアートとデザインをね、勉強されている。だから、やっぱりそのまま映画業界にドーンって学校から行く感じじゃなかった。とにかく、本国の主流的映画界とは違う独自ルートでキャリアを積んできたようであるパン・ナリンさん。

ちなみに、さっき言った『性の曼荼羅』『花の谷』のどちらもですね、辺境の地で生まれ育った主人公が「外の世界」っていうのを知り、若干の無謀さ込みで飛び出していこうとする……その周り、昔通りの暮らしをしてる周囲との軋轢とかもあるんだけど、そこから飛び出していこうとする話であること。あとはですね、ストーリーそのものは全然わかりやすい、ちょっと下世話ですらあるようなストーリーでもあるわりに、セリフは少なめで、詩的な描写が連なっていったりとか、あと幻想的なちょっと飛躍があったりとか、まあいわゆるアート映画的な作りを基本的にはしていたり……というバランスからも、僕はキム・ギドクを連想したんですけど。

あとはですね、その後パン・ナリンさんは、テレビドキュメンタリーの世界でも実績を残していくんですけども、その二作の後にね。現地の、おそらくは演技経験はないような、特に子供と老人というのを、とても生き生きと、自然な表情などを引き出して……で、フィクションの中にそれを組み入れていく、ということをやっていたり。

要はですね、『性の曼荼羅』も『花の谷』も、パッケージングだけ見ると、「えっ、なにこのエロい監督?」みたいな感じだったんだけど(笑)、中身を見ると、今回の『エンドロールのつづき』と、はっきり連なる要素がたくさんある二作でした。実はすごく一貫してるな、という感じがしましたね。

で、とにかくそんな感じでですね、ずっとインド映画界のメインストリームとは異なる、インディペンデントなルート、スタンスでキャリアを重ねてきたパン・ナリンさんの作品でもある今回の『エンドロールのつづき』が、しかし今年のアメリカ・アカデミー賞、国際長編映画賞のインド代表作品に選ばれた、というのは……まあ惜しくもノミネートからは漏れてしまいましたけども。まあでもインド代表の一本として選ばれたっていうのは、たぶんだけど、インド映画シーンの近年の劇的な変化、多様化の表れでもあるのかな、って気がするんですけどね。はい。

■一見『ニュー・シネマ・パラダイス』型の「映画館愛映画」に見えるが、実は……

ということで、本作『エンドロールのつづき』でございます。「かつてあった古き良き映画館」を巡る物語を、ノスタルジックに、いわゆる「映画愛」とともに描き出していく、というような、いわば「映画館愛映画」というのはですね、たぶん、始まりはわかりませんけども、ピーター・ボグダノヴィッチの1971年『ラスト・ショー』あたりをきっかけに、今となってはひとつのジャンルと言っていいぐらい、いくつも、ほとんど定期的に作られている、っていうものなんですね。要はその『ラスト・ショー』が大きなきっかけって言ってるのは、たぶん、要するに映画館産業そのものが本格的に斜陽になんないと、こういう映画は作られないんで(70年代以降、逆に盛んになったと考えられる)、ということですよね。中でも特に有名だし、人気も高いのは、ご存知、やはり先ほどから名前が出ています、1988年の『ニュー・シネマ・パラダイス』でしょう。そして今回の『エンドロールのつづき』は、ご指摘されてる方も多い通り、『ニュー・シネマ・パラダイス』のインド版、という言い方もしたくなるのも当然なほど、類似点もなるほど多い。

ただですね、そうした「映画館愛映画」というのはですね、実際に今も映画館で映画を観まくってるような映画ファンにとっては……まあ私もその末席と言っていいと思いますが、若干こう、おケツがモゾモゾする、といいますかですね(笑)。要は、事実上自己愛の投影でもある「ノスタルジーとしての映画愛」的なものはですね、逆にあまり手放しで陶酔できないというか、どっか冷めてしまうところがあるのも事実でして。少なくとも私はそうなんですね。なので、さっきのメールと同じく、私も正直、『ニュー・シネマ・パラダイス』はそんなに好きじゃないです。ダメな映画とも思いませんけど、そんな好きじゃない。だからその、大林宣彦さんの『海辺の映画館』ぐらい……あれこそ「映画曼荼羅」ですから(笑)。『性の曼荼羅』ならぬ映画の曼荼羅。あそこまで行ききっちゃっていればいいんだけど、みたいな。

で、その意味で、本作『エンドロールのつづき』はですね、一見『ニュー・シネマ・パラダイス』型の、その映画館愛映画、ノスタルジックな、ハートウォーミングな……みたいなものに見えますが、見据えてる射程が全然違う、ってことですね。ノスタルジー感もゼロとは言いませんが、それよりも、「映画」というメディア、表現形態の根源、そしてその行く末、という本質論みたいなとこに、一気に行く。それがすごくユニークだし、めちゃくちゃ面白い作品だ、ということだと思います。まあ皆さんのメールに書かれている通りですね。

■映画という表現媒体に魅せられた主人公サマイくん。彼が映画を作ろうとするプロセスは映画の進化そのもの

で、さっき言ったように、監督の自伝的作品、それも結構驚くような部分まで実際にあったことに基づく、というこの映画。主人公のサマイくん……まず、この「サマイ」っていう名前が、「時間」っていう意味だ、というのがまた、寓意に富んでいたりするわけですけども。で、彼が、本当に何もないというか、もう本当に鉄道のレール以外は自然にあふれた田舎町というか、田舎村というか。集落だって、どのぐらいの密度なのか……ちょっと(いまどきは)あんまりないような感じの、本当に素朴な素朴な少年期を過ごしていて。たから、冒頭のあのね、列車(のレール上)で弓矢を作って……みたいなのも、別に周りに人がいるわけじゃないから。乱暴っつったって、別に周りに何もないし……みたいな。で、自分なりの創意工夫で遊んでるわけですよね。多少、現代の感覚からすれば乱暴だけど。

でですね、彼が……ここに注目してほしい。冒頭、弓の矢の先っぽを作るので、釘をですね、その線路で(列車に)踏ませて平べったくする、というね。まあ、たしかに乱暴ですけども、そういうことをしている。で、列車を待つ間、草っぱら、草むらに寝転がるわけです。で、彼が空を見上げる。

この、空を見上げる、で、その上に飛んでるものを見る、というこの視線はですね、さっき言った『性の曼荼羅』という長編デビュー作でも、冒頭と結末で、非常に印象的に使ってたりするんで。パン・ナリンさん、お好きなんだな、と思いますが。とにかく、彼が見上げる空に、飛行機が一機、飛んでるわけですね。これ、監督のインタビューでは、「その飛行機だけが外の世界との繋がりだった」という風におっしゃってるわけです。この、冒頭の飛行機……ラストのラストの、さりげない伏線にもなってるので。ちゃんと覚えておいてください、ということですね。

で、そのサマイくん、少なくともちゃんとですね、物心がついてからは初めて……子供の時には行ったことがあるみたいですけど、物心がついてから初めて、映画館に連れて行ってもらう。当然のように映画の世界というのに魅了されていくわけですけど、ここで彼が興味を持つのが、スクリーン上に映し出されたものだけではなく、その元、映写機から放たれる……もちろんスクリーン上に映し出されるものにも興味を持って、楽しく、ワクワクして。途中でもね、笑ったりとか、「おおっ!」って驚いたりとか、スクリーン上に映っているものにももちろん、興味を持ってますけど。さらに彼の興味はその元、映写機から放たれる「光」、そこに興味を持つ。これがやっぱり本作『エンドロールのつづき』の、キモとなるところですよね。

で、つい手をかざして、光に触れようとしてしまう……つまり、スクリーンに影を作ってしまってつまみ出される、とかもこれ、監督の実話だそうですけども。で、とにかく彼はですね。映画の中で語られる物語だけではなく、それを語るための仕掛けというか、構造というか、映画という魔法を起こす、表現媒体そのものの仕組みに、どんどん興味を持って、あまつさえ自分でもそれを、実践しようとする!

だからとにかく、さっきの矢じりでも何でもそうですけど、何でも自分で作る、っていう習慣がある子供たちなんですよね。おもちゃとか、ないから。そんな彼の一歩一歩の学びというのはつまり、まさに「映画」というものの成立と進化のプロセス、その追体験そのものでもあるわけですね。我々は、まるで「映画」というものができていくプロセスを、もう一回、追体験しているようでもあるわけです。

■映画作りで試行錯誤をする悪ガキたち。言っちゃえばこれ、「映画制作版『グーニーズ』」!

で、彼はですね、その自分の経験の中から、たとえば「レンズ」を発見し……光を通して、光景を見る、ということを発見し。そして「光源」というものを発見し……強く光を放つもの、最初は、鏡を使ってやればいいんだ!みたいことをやったりとか。あとは、(フィルムの)コマを拡大する……1コマだけ取ってきちゃったその映画のコマを、拡大して映すやり方。どうすれば大きく映るのか? 最初のヒントを得るのがまた、電車の中の(窓の隙間から偶然に映じた)、いわゆる「ピンホールカメラ」ですね。それがヒントになっている、というのもめちゃくちゃ面白いですけども。あるいは、さらにはですね、その静止画を、「動画に見せる」術……要するにただ(フィルムを)動かしただけじゃダメだ、ってことですよね。映画っていうのは、そこにシャッターが必要なんですね。その1個1個の絵を、区切って見せる、それが必要なわけです。つまり、「映写機」の発明もする。で、最終的には、「トーキー」も発見する。で、このトーキーを発見するくだり……要するにフィルム缶を盗んで、少年院にぶち込まれる、というくだり。あれも実話だそうです。なんちゅう少年時代だ!っていうことなんですけどもね(笑)。という感じで、映画の成り立ち、その歴史そのもの、というのを、彼は自ら発見していくわけですね。自分の経験から。

だからこそ要所で、さりげなく……皆さん、もちろんこのコーナーをずっといろいろと追いかけてる方はお気づきでしょう、エドワード・マイブリッジの、『動く馬』! 出ました! 『NOPE/ノープ』ですよ、皆さん! 『NOPE/ノープ』の、あのタイトルが出るところで出た、『動く馬』です! (『NOPE/ノープ』の)中でも非常に重要な役目を果たす、あの『動く馬』……要するに、(歴史上)最初の「動画」ですね。とか、(史上最初に一般上映された映画のひとつである)リュミエールの『列車の到着』など……(映画の歴史にまつわるディテール)が、いろんなところでオマージュされていたりするわけです。

しかしこれら、一歩一歩の試行錯誤・発見がですね、決して小難しい話ではなく……そのグジャラート地方の子供たちをオーディションして集めて、演技レッスンなんかをしてやったという、言っちゃえばこれ、「映画制作版『グーニーズ』」ですよね? あの悪ガキたち……映画制作版『グーニーズ』とでも呼びたい、やんちゃな大冒険を通じて描かれていくわけですよ。はい。もうみんなで一斉に自転車に乗ったりしてね。ということで、我々自身ももう一度、「映画」というものを発見し直していくし……それを、あの愉快な仲間たちと一緒に、ちょっと悪さをしながらね。まあ、いいんじゃない? あれぐらい、(周囲に)なんもなければ(笑)。みたいな感じで、まあ楽しいしスリリング、ってことですよね。

また、そうした実践的学びを可能にした、とある出会いがあるわけです。年齢、立場、そして宗教を超えた、出会いと友情。映写技師・ファザルさんとの友情……いま「宗教」と言いましたけど、要するにファザルさんは、どうやらイスラム教徒なわけですね。

で、当然インドは主流はヒンドゥー教で、それでお父さんが非常にあれだけ厳格な人ですし、いろんな意味でも、イスラム教徒のファザルさんは、社会の中であんまり良い扱いを受けてない人、っていうことですよね。でも、そういう立場とかを超えた友情。で、それを取り持つきっかけが、先ほどから何度もね、金曜パートナーの山本匠晃さんも言っています、お母さんの作る、まあどれもめちゃくちゃ美味そうな、グジャラート地方の料理!という。これ、ちなみにですね、劇場で売られているパンフレットに、レシピが載ってますので。見たら作りたくなるんじゃないかな?っていうね。本当に、映画で最近出てきた食い物の中で、一番美味そうだったね! はい。それもすごく素敵ですよね。

ちなみにですね、劇場でサマイくんが盗み見る映画たち……やっぱり僕、昔のインド映画とかはそんな詳しくないんで。これは当然、劇場パンフに掲載されています、アジア映画研究者の松岡環さん、いつも本当に勉強させていただいておりますが、松岡環さんのコラムがやはり、非常にためになりますので。皆さん、こちらなんかも見ていただきたいと思います。

■かつての映画そのもの、つまり「映写機とフィルム」の行く末を冷徹に捉える。そして、その鮮やかな着地

で、ここまででも十分ユニークな、この『エンドロールのつづき』。映画の成り立ちみたいなのを追体験していく……ですが、さらにこの第三幕、要するにクライマックス以降はですね、先ほど言った通り、「映画」というものの、「行く末」にまで視点を、話の射程を伸ばしていくわけですね。2010年という一応の時代設定……まあちょっと、なんかゴチャッといろいろと混ざっている気もしますけど、2010年代という一応の時代設定は、まさに、このためにあるわけです。つまり、フィルムからデジタルに、映画館の上映システム自体が根本から変わっていく、というタイミングっていうこと。で、実際に、さっき言った映写技師のファザルさんのモデルとなった、モハマドさんという方がいるんですけど、この方はそれで失職した、ということですよね。

でですね、ここがすごいんですよね。じゃあその、デジタルに変わりました……ここまでは、まだわかるよ。映画館からフィルムのあれがなくなった、「ああ、悲しいね」っていう話なのはまだ、他の人もやりかねないけど。この映画がすごいのはですね、じゃあそのお払い箱になった、かつての「映画そのもの」……つまり、映写機とフィルムですね。映写機とフィルム。つまり、「物体としての映画」。あの、たしかにそこにあった「映画」は、どこに行ったの?って……つまりその、「物質・物体としての映画」というのを、冷徹に捉えていく視点、っていうのがここから続くわけですよね。これはまさに、さすがパン・ナリンさん、ドキュメンタリー作家としても実績を残してるだけあって、そこがすごく生きてるところですよね。まあ冷徹、とも言っていいような視点で。

だから、「映画の行く末」っていうのは、比喩じゃないんですよね。本当に、「どこに行くのか?」っていうのを描く。しかしそれが、皆さんも書かれてましたけど、ノスタルジックな悲観主義に終わってない、ということですよね。映画というのは、文字通り「形を変えて」、人々の暮らしの中で生きていくのだ、という……本当になんていうかな、まさに絵面も含めて、鮮やか!と言いたいような着地をするわけですね。驚きですね、これね。「こんな着地、する?」みたいな。

■これは「光を当てて反射させて見るところ=映画館」で観ないとね!

しかもそれが、これも本当に……みなさんご覧になった通りです。主人公サマイくんの旅立ち。友人たちとの別れ……特にあの、「鏡」ですね! 鏡のところ、泣かせるんだよな。本当に王道の、ジュブナイル的結末ですよね。本当に、少年の旅立ち、これ以上の王道はないですよね。超王道な結末。しかもそれは、監督自身のその姿でもあるわけだから。このレールは、今あなたが観ている、「この映画」に繋がっている、っていうことだよね。ということでもあって、まあなんというか、ストレートに感動もするし、深みもあるし、というような着地ですよね。はい。見事なものだと思います。

パン・ナリン監督、さっきも言いましたけど、ちょっと語り口にですね、かなりクセがある人、っていうことは間違いないと思うんですよね。非常にアート映画的、と言えば(聞こえは)いいけど、なんていうかな、僕はちょっと、荒削りなものもすごく感じるんですけど。だから、ちょっと好みはわかれても仕方ないところはあるかもしれませんが。

まあ、エンターテイメント性と、映画を巡るその本質論っていうのを、シレッと両立させている、という意味で、これはやっぱり映画ライター村山章さんにご推薦いただいた時のお言葉通り、やっぱりこれ、『NOPE/ノープ』と並べて語られるべき──全然違いますけどね! 方向は全然違うけど──すごいストレートな、ジャンル映画的ですらあるようなエンターテイメント性を通じて、映画の本質を語る、っていう。そういう異形にして最新の「映画」っていう意味では、めちゃくちゃ面白かったし、単純に本当に胸に来るいい話でもあって。はい。皆さんが大好きになるのも非常にわかる、素晴らしい作品だと思います。

これは映画館で観ないとね! これは映画館で観ないと、なんかダメでしょう!って感じがしますよね。今すぐ劇場で……要するに、「光が投射されている」(映像方式の場所)、(液晶画面などのように)「自ら光る媒体」じゃないやつね(笑)。自ら光る媒体じゃないやつ……光を当てて、反射させて見るやつね。知ってます? 映画館っていうところ(笑)。そこでぜひ、ウォッチしてください!

(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは、『母の聖戦』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは『イニシェリン島の精霊』。よって次回の課題映画は『イニシェリン島の精霊』に決定! 支払った1万円はウクライナ支援に寄付します)


以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

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