基礎から学ぶ「手話」 ~「ろう」であるということは人類の進化のバラエティの1つ

基礎から学ぶ手話~「ろう者」、「手話コミュニケーション」を言語発達と手話研究が専門の研究者と共に考える
南部:コロナ以後の社会をリスナーのみなさんとともに考えていくシリーズ「コロナ以後、社会をどう設計していくか?」この企画は「みんなが、みんなを支える社会」を目指し、企業やNPO、行政、国際機関などとともに、国内外様々な社会課題の解決に取り組む日本財団とのコラボレーションでお送りしています。きょうの特集は「手話」です。
手話は、例えば、総理大臣などの記者会見や政権放送などでは、よく見られると思います。また、現在放送中のドラマ『silent』が話題となっています。川口春奈さん演じる主人公の紬が高校時代の恋人・想(=目黒蓮さん)と再会し、関係を築きあげるラブストーリーで、想は高校卒業後に聴覚を失った中途失聴者。「手話」が大きく取り上げられています。リスナーの方の中には、手話を学ぶ人が増えたともいわれる、豊川悦司さんと常盤貴子さんのドラマ「愛していると言ってくれ」を思い起こす人も多いかもしれません。ただ、聴覚障害の「ろう者」は、見た目にはその障害は見えづらく、手話を理解できる人もそう多くはないと言われ、コミュニケーションが課題となっています。そこで、きょうは、「ろう者」の言語である「手話」の基礎を学び、コミュニケーションの在り方について、手話研究の専門家と考えます。
南部:では本日のゲストをスタジオにお迎えしました。手話研究と言語発達をご専門とする慶應義塾大学経済学部教授の松岡和美さんです。よろしくお願いいたします。
松岡:松岡です。よろしくお願いします。
荻上:お願いします。
南部:松岡さんは著書に『わくわく!納得!手話トーク』『日本手話で学ぶ手話言語学の基礎』などがあり、「ろう者」の母語である日本手話の文法研究をされています。
日本手話は不思議なルールがある面白い言語だった
荻上:松岡さんは普段はどういった研究をされているんですか?
松岡:専門は文法研究が主体なんですけれども、もともと言語の分析が子どもの言語発達にどう関わるかというところに興味があり、言語学と発達心理学の接点となる言語発達の研究もやっています。手話についてはやっぱり語順に独特のものがあるというのも本当に不思議で、さらに日本語とは違う口の使い方で文法の情報が表されることを知って、それにも興味を持っています。最近やっている研究は、例えば手話には、過去とか未来のような「時制」がないという定説があるんですけれども、ある特定のタイプの口の使い方を見ていくと、そうでもないかもしれないということに気づいて、面白がってやっています。いろんな文脈を作って、この口の形できますかできませんかというようなデータを集めてみると、結構驚きのパターンがあったりします。あとは言語の有名な現象にモダリティという表現があるんですね。日本語でしたら「~かもしれない」とか、「~に違いない」という表現を文につけると、自信のあるなし、つまり(自分が)言っていることに自信があるかどうかが伝わるじゃないですか。「明日は雨かもね」っていうのと、「明日は雨に違いない」「明日は絶対雨に決まっている」など、喋っている人の気持ちを表現するモダリティについては、世界の言語に様々な表現があるんですけれども、手話の場合でも独特の表現やルールがあったり、またこれにも語順が絡んでいたりして、そういうものを最近調べています。
発達の関連ですと、以前この番組にいらしていた森田明先生がいらっしゃる明晴学園の先生方のグループと共同で、日本手話を母語としている子どもたちの手の形、手話では音韻要素と捉えるんですが、その発達のプロセスについてたくさんの国で研究成果があるので、それと比較するような形で調べたり、そういう研究をやっています。
萩上:発達と手話当事者、手話を使う当事者の方々の関わりというのは、例えば聴者、発話するような方であれば、何歳ぐらいに何語使いますよねとか、でも発音の仕方が若い頃とかだとちょっと幼く、滑舌が悪くっていうなことありますけど、手話でもそういったようなことがあるんですか?
松岡:生まれてきたとき周りに、日本手話であったり、アメリカ手話であったりって手話環境が整っているところに生まれてきた子供たちの発達パターンと、そのタイミング、1歳より小さかったら「月齢」ですが、月齢や年齢なども聞こえる子どもの場合とほぼ変わらないという研究成果がたくさんあります。
萩上:ほぉー。
松岡:有名な例は喃語ですかね。喃語とは、バブバブとかマママとかいう、単語にはなっていないけど言語音が含まれるものを指すんですが、それが出てくる月齢が7ヶ月から8ヶ月とわかっていて、手話にもそのような喃語があることが、90年代にサイエンス(Science)という非常に有名な雑誌に発表されて大変話題になりました。アメリカ手話を母語とする子どもたちの手の動かし方が、手話単語にはまだなっていないんだけど、確かにアメリカ手話に必要な手の形だったり、繰り返しの動きがあったり、手の場所が大人の「ろう者」が使うスペース(空間)と一緒です。聴の赤ちゃんで同じ月齢の子の(表出を)調べてもそういう性質は見られないということです。
萩上:例えば、両手を胸元に持ってきて、何かをね、頭とか頭から胸元あたりで動かしている。
松岡:サイニングスペース(手話空間)というのがあるんです。頭のちょっと上の辺りから胸元までの高さと肩幅、これが大人の手話話者が使うサイニングスペースと言われるものです。
萩上:サインをする場所っていう意味ですね。
松岡:赤ちゃんも、7ヶ月とか8ヶ月なのに、その(スペースの)範囲で手話を表すんですよね。自分たちの周りで大人たちがアメリカ手話で話しているのを見ているわけですから、それを見て自然に取り込んでいく、つまり聞こえる子供がやってることと全く同じ。
萩上:はいはい。言語学習して、模倣を始めて。
松岡:そもそも一般論として、言語発達は頭の中にスポンジがあって周りの言語を(そのまま)吸収するということではなく、赤ちゃんは世界中のどの言語の音でも区別する能力を持って生まれてきていることを示す研究成果がたくさんあります。つまり、アメリカで生まれてアメリカ英語しか聞いていないのに、ヒンディー語にしかない音の違いを聞き分けることができる。それがだんだんできなくなっていくんです。自分の母語に特化していって、つまり人間の赤ちゃんはたくさんの能力を持っているけど、必要なものだけをキープしてあとはだんだん失っていく。そこからしてすごく面白いことなんですけれども、そういう能力を持っている。聴こえる子どもに手話を見せたときの脳の反応を調べたものにも、ジェスチャーと手話を区別していると示した研究があります。だから耳が聴こえる子供であっても、環境に恵まれれば手話を身につけることができます。
萩上:なるほど。例えば日本語で言うところの、「おいでよ」って言ったときに、手をなんとなくする感じと、いわゆる手話でいうところの、「こっちに来て」っていうふうに伝えるような手話との違いのようなものも分析されていたり、理解されていくことになるんですか?
松岡:そういう研究は、アメリカあたりでなされていると思います。ただ手話にはジェスチャーベースの手話表現もたくさんあるので、そこに気をつけて研究しないと、誤解につながる危険性もあります。私が最近学会で聞いた発表ですが、ジェスチャーのビデオときちんとした手話言語のビデオを見せたときに、赤ちゃんがその2つをはっきり区別したことを示した研究もあります。
萩上:先ほどの話の中では、語順、手話の順番が、相当意味を変化させたり、それが例えば時制とかいろんなものに影響しているというようなことも研究されているということなんですけど、これはどういうことでしょうか?
松岡:語順で一番わかりやすいのは疑問文ですかね。2年前に(出演された)森田先生もおっしゃってましたけれども、例えば「何」「どこ」「誰」とかの疑問詞がある疑問文を作るとき、日本語はそんなに語順を考えなくてもよくて「昨日、渋谷に行きました」という平叙文から「昨日どこ行ったの?」という疑問文を作る時に「渋谷」を「どこ」に変えるだけじゃないですか。だけど、英語を学校で勉強する時「where」のようなwhのつく疑問詞なら文の最初に動かすとか、めちゃくちゃ面倒くさいですよね。日本手話は(英語と)逆で、右側に疑問詞を動かさないといけなくて「昨日 行く どこ」という語順です。
萩上:あぁー。「昨日、渋谷行く」が「昨日行く。どこ」みたいな。
松岡:はい。さらに(疑問詞の)「どこ」の部分に、細かい首振りと目の見開きと眉上げが付く。これは森田先生もおっしゃってたパターンで、まるっきり日本語と違うじゃないですか。うちら言語学者はそういうのを見ると嬉しくなっちゃうんですよね。
萩上:あぁ、違う言語がここにあるぞと
松岡:何これ!みたいな。
萩上:法則性もちょっと研究しがいがあるぞって。
松岡:そうですね。やっぱり、文末に動かすっていう規則的なパターンがあることが素直に面白いですね。英語なんかでも単に左に動かしたら疑問文になるのかってわけじゃなくて、他にいろんな変化をさせないといけないじゃないですか。
萩上:えぇ、ちょっと語尾を上げるとか。
松岡:でも日本語の例を見ればわかるんですけど、そうする必要って全然なくないですか?だってそんなことしなくても私たち全然困ってないし。ということは、絶対必要なことじゃない。なのになぜルールがあるのかは、言語学者の興味を非常にそそるところで、それは手話(言語)も同じです。私は、フランス語、トルコ語、中国語(などの言語)と日本手話を、ほぼ同じように見ています。不思議なルールがある面白い言語、調べれば調べるほど面白いことが出てくるなと常々感じております。
萩上:なるほど。語順の話もそうですけれども、以前、森田さんがこの番組に出ていただいたときに、日本手話と日本語対応手話があるんだと、それぞれ別のものなんだという話を伺って、なるほどそれらの違いっていうのがあるんだなっていうのは、わかったんですけど、それらの違いがどう違うのかというところまでは、まだ番組で聞けてなかったんですよね。
松岡:わかります、わかります。
「日本手話」と「日本語対応手話」の違いとは?
萩上:まず日本手話と日本語対応手話、これはどういうものなんですか。
松岡:聞こえる人に通じやすいなら日本語対応手話の説明からやった方がいいようにも思いますが・・いやでも、順番としては日本手話(の説明)からやらないといけなくて。どうしてかというと、日本語対応手話は日本手話から単語を借りてきて、日本語をちょっとでも見えるようにするための、ツールに近いものだからです。だから、そもそもの話は日本手話からでないといけないです。日本手話は、ろう者が生まれてきたときに、ご両親も(単に)聞こえない人じゃなくて手話を使う「ろう者」で、そういう人が「ろうコミュニティ」に入って、そこでのやり取りで、私達が日本語を覚えたように、自然に身につく言語です。日本手話には「ろう文化」というものが付いてくる、それは日本語に日本文化が付いてくるのと全く同じことです。そのようなろうコミュニティの方々は、自分はろうであり、ろう文化を持っているという自負の気持ちがあり、ろうの赤ちゃんが生まれてきたら嬉しいと感じるというお話をよく伺います。そういうコミュニティがある。私の母語は日本語なんで、日本語の大阪弁です。それと何一つ変わらないのが日本手話です。
かたや、日本語対応手話といいますのは、日本語をいま私が声で喋ってるわけですが、それが聞こえないわけですよね。聴こえない方々で中途失聴者の方であれば、聴力をだんだん失っていかれた、その他にも聞こえにくい方々(難聴者)がいらした時に、日本語をちょっとでも見える化しようということで、ここに手話単語という「いいもの」があるから、ジェスチャーよりも使いやすいから、(その表現を)つけて同時に(日本語を)喋ったらわかりやすいんじゃないですかというような。私は眼鏡をかけているんですが、目が悪くて見えないんで、眼鏡をかけてですね、レンズを使ってものをはっきり見ているわけで、(対応手話は)それに近いものではないかなと考えています。萩上:なるほど。例えば、私達がいろんなドラマとか物語とかあるいは、手話ニュースなどで見聞きするもの、これは多くは日本手話と呼ばれるものが使われているのでしょうか?
松岡:いや、そうでもないですね。NHKのEテレでやっている「手話ニュース」は、全て日本手話に変わったんですね。ある時期に。だから(今は)間違いなく日本手話です。あとは私が2018年、NHKEテレの「みんなの手話」の監修を担当したときに、メインの内容を日本手話に変えてもらえて嬉しかったということがあります。その時に森田先生に講師としていらしていただいて、内容がガラッと変わって。今も(番組では)日本手話を使っているので、日本手話を勉強したい人はぜひ今の「みんなの手話」や「手話ニュース」をチェックしていただきたいです。
それに対して、官邸などの発表やテレビの重要な発表についている手話通訳、多くのドラマで扱われているのは、日本手話とは違う日本語対応手話です。今やっているドラマでは中途失聴者が主人公ですので、それは理解できるといいますか、ドラマ上の必然性ですね。登場人物に「ろう者」の方が出てきて、その方は日本手話にかなり近いものを使われているように見えるのですが、「ろう者」役を聴者がやってしまう問題点も指摘されています。例えば、日本人役で出てきて(日本語が)かなり上手なんだけれども、私達が聞くと「この人は日本語のネイティブじゃないな」とわかるような、それと同じようなことが起こっています。
荻上:ちなみに官邸とかで、日本手話ではなくて日本語対応手話などが割と用いられがちだというのは、あれは先にスピーカー、例えば岸田さんとかが喋って、それも同時通訳で逐語的に当てはめていこうとすると、文法などが変えられにくいからなのか、それともまた別の理由があるのか、そこはどうなんでしょうか?
松岡:そこはちょっと言語学者には、なかなかわからないです。
荻上:永田町の問題って感じですかね。
松岡:通訳者の事情に詳しい方に聞いてもらった方が良いと思います。私は通訳養成関係者でも通訳者でもないですし、どのような事情でああなっているのかは私も聞きたいと思うんぐらいです。ただ私が言語学者として言えることは、あれは日本手話とは違うということです。「どうしてこうなってんのかな」と思うときがあります。
荻上:だけど、一般的に手話が行われていることによって、例えば災害時にもしっかりと手話をつけてください、なおかつカメラで映すときは、通訳者の方が映るように映してくださいっていうのが、結構駆け引きなどで行えたりするわけですけれども、その内容を例えば日本手話にしてください。みたいなコミュニケーションってあんまりされてなかったように思うんですよね。となると、手話を映す映さないだけではなくて、誰に届ける言語なのかっていうのも考えることが必要なんですね。
東日本大震災の時、ろう者には何が起きているのか分からなかった。
松岡:その通りです。いまお話を伺いながら二つのことを思い出していまして、一つは東日本大震災が起こった時にわからないことだらけで、しょっちゅう会見があったんですが、そこについていた手話通訳がわからないという声がいろんなところから上がってきて、一部の心ある人たちが、官邸の発表を日本手話に翻訳して発信する活動をされていました。私もそれをお手伝いしたことがあるんですけれども、そういうものがないと日本手話ユーザーの方には何が発表されているかもわからなかったのです。
もう一つはオリンピックですね。東京オリンピックの開会式に日本手話のろう通訳がついたことが話題になり、それがEテレでしか見られないことへの批判もあったんですが、開会式の現場にも(別の)通訳者がいらしたんですよね。現場でなされた通訳がちゃんと画面に映っていないという問題もあったんですが、何よりも現場の通訳が日本手話ではなかったので、さらにろう通訳が(実質的に同じ内容を)日本手話に訳しているのが同じ画面で見られたのは印象的でしたね。ただ現場にいらっしゃる手話通訳者はイベントの一部しか通訳されていなかったようですので、そうすると「ろう者」としては、その他のところはアナウンサーの人が何言ってんのってなるわけで、やっぱり全体に(手話通訳が)ついてないといけないわけですよね。それにただ通訳者がつけばそれでいいっていう問題ではなく、わかる手話の通訳がついているか(が重要です)。
日本手話の通訳が少ない理由は、ユーザー数の違いなのかなと思います。中途失聴者や難聴者の方々の方が、数のことだけを言うなら圧倒的に多いので、そちらに合わせてという考えもあるかもしれません。でも(対応手話の代わりに)字幕を使うこともできるわけですよね。字幕は日本語ですから。なので、数が少ないから日本手話をつけなくていいっていうのも、私は変な話だなと思います。
荻上:うーん、なるほど。そしてこの手話、手で話すと書いて手話なんですけれども、じゃあ手の動きや形だけでその言葉を伝えているかというと決してそうではなくて、他にもいろんなものを表現手段として使ってるんだということがしばしば指摘されます。それはどういったことでしょうか?
松岡:(日本手話では)手の形というのはあまり情報量としては多くなくて。例えば、手話に「てにをは」がないとよく言われますが、いや、英語にも「てにをは」はないですから。言語が違うとない、それは大したことではないわけで。そうするとその文法表現みたいな、さっき出てきた「~かもしれない」とか「昨日雨だっただろう」のように過去とモダリティの表現が同時に出てくるとか「~じゃなかった」のように否定+過去とか、そういう文法的な要素は、日本語では声の抑揚や追加の表現をつけるんですけれども、手話では単語のようなものではなく、頭の動き、眉の動き、目の動き、口の動き、などを同時に付けることによって文を完成させます。
萩上:手話の中では指や手を使って行うハンドサインだけで成り立つものではなくて、日本手話も顔の形、眉とか目の動かし方とか首を振るとか、そうしたものなども含めて言語になってるんだというお話伺いました。この点、より詳しく伺ってもいいですか。
日本手話は手だけではなく、顔の動きも言語になっている
松岡:私も言語学者として興味を持っている点です。先ほど、眉上げ、止め、目の見開きなどが出てきたんですが、例えば頭を振るといっても、うなずきの例なんかを見ますと、手話のうなずきには様々なタイプがあり、伝達する意味も違っているんです。『わくわく!納得!手話トーク』という本にも書かせていただいたんですが、文と文を接続するときのうなずき。日本語ですと「明日友達が来るので」とか「友達が来るから」とか、「もし友達が来たら」など、「ので/から、~たら」などで文を接続することができます。
日本手話ではそのような接続詞を使う必要はなく、うなずきを使い分けることで表すことができます。例えば「明日友達が来るので(から)」というときには、割と大きなシンプルなうなずき、はっきりしたうなずきが出るんですが「もし友達が来るなら部屋を掃除しないと」のような文脈でしたら、「もし友達が来るなら」という仮定の話ですよね。その時には、顔全体が一瞬ちょっとだけ、心持ち前に出て一瞬固まります。そして、うなずきながら元の場所に戻す頭の動きが見られます。これは私が発見したことではなく、市田泰弘さんという言語学者や、木村晴美さんというろう者の方が指摘されています。「友達が来るから」と「もし友達が来たら」って全然違う話じゃないですか。そういうところが見分けられないとコミュニケーションの問題が起こってきます。手だけを見ていたら全然わからないっていうことになってしまいますよね。うなずき一つとっても、私は二種類の話しかしていませんが、他にもちょっと頭を後ろに引くとか、また森田さんもおっしゃっていたと思いますが、疑問のときに細かく小刻みに首を振ると、疑問詞のある疑問文になる。「どこ」「誰」などの疑問詞がある疑問文にはちょっと小刻みに頭を振る動きのように、ちょっと聴者が想像できないような、外国語として覚えなければならない文法項目があります。
萩上:一対一で、例えば「あいうえお」に対応した、一文字ずつのハンドサインというのもある意味ありますけれども、例えばそれで犬とか、全てを表現するわけではないですよね。なおかつ、文章にする際には、今言った「あいうえお」だけの語順だけではなかなか伝わりきらないような色んなこと、疑問なのか、断言なのか、そうしたものを含めて言語として成り立っていくわけですが。
日本手話は体の様々なパーツで簡潔に多くの情報を一気に表現する
松岡:指文字のことをおっしゃってると思うんですけれども、一文字一文字を表すというと大変まどろっこしいことになってしまいますよね。むしろ手話というのは逆のベクトルに振れていて、簡潔にたくさんの情報を一気に表現する形になっていると思います。音声言語ですと単語を並べることが全てといいますか、何しろ喉や口(発声器官)が一つしかないもんですから、それで音を作って横に連結していく特徴があります。手話はそれに縛られない言語です。目で見るわけですから、体の様々なパーツをどしどし使い、なおかつ空間上で手を動かす位置を組み合わせることによって、私達が(音声で)ある程度時間をかけて言っている内容を一瞬で示すことができるという、非常に効率的なデザインの言語だと痛感します。ですから、日本語に対応させるということ自体が言語としては無理で、日本語対応手話というのはやはり、日本語を見える化するためにところどころ単語を借りてきたものです。でも基本の、単語を並べる性質は変えようがないです。日本語はそういう言語なので。
萩上:これも先ほど話されてきた例えの中で、ドラマ『silent』の中で中途失聴者の方が登場してくるのと、ろう文化で生きてこられたという設定のキャラクターがいるという話があったんですが、この手話という話をしたときに、中途失聴者の方が使うようなサインと、ろう文化で使われている日本手話と、これが違うという話だったんですけども、これは聞こえないという点で同じかのように思われますが、それらの捉えられ方の違いってのはどうなんでしょうか?
松岡:まず文化が違うなっていうのをとても感じます。中途失聴者の方の、ドラマでは非常によく描写されていますが、その苦しさですね。周りの人間も傷ついている描写があり、そこから立ち直っていく。そこにある世界、それはそれでとても重要なテーマなんですけれども、その人が生きている世界っていうのは聞こえる人間の世界ですよね。聴のコミュニティ、音がある世界です。聞こえない人が、それとどう折り合いつけていくかっていう話が聴の文化の中で展開しています。
萩上:聞こえる前提の世界の中で、自分が聞こえなくなってしまったっていう喪失感の物語ですけれども。
「音のない世界」は違和感。音がないのが当たり前のコミュニティがある
松岡:そこ(絶望していた状態)から段々戻ってくるっていうんですかね、自分が以前から大事にしていた人たちのところへ帰って行くプロセスが非常によく描写されているドラマだと思いますが、日本手話の世界っていうのは、音のある世界じゃなくて、聞こえないことが普通で当たり前で「聞こえませんがそれが何か?」という…結構明るい、目で見る文化が自分たちにはあり、そして日本語と全く違う手話言語があり、そこに演劇があり、ポエムがあり、冗談も言えて、ろうの役者さんが手話を使った演劇をされるいうのもあり、コメディアンの人もいますね。結構みんな楽しくやっているわけで「『音のない世界』とか言われても(返事に困る)」ということらしいです。私も今はあたかもよく分かっているみたいに話していますけど、そういうことが段々わかってきた頃には聴者として非常に驚いたというか。そうなんですか?!って。例えば「音のない世界」という表現に違和感があると「ろう者」の人は言っていて、「『音のない世界』って言われたらあたかも(音が)ないとダメみたいじゃないか」と言われて、驚いたことがあります。「音があるべき世界の中で(音が)ない」という考え方のコミュニティと、「ないのが当たり前、それがどうした」みたいなコミュニティがちゃんとあって、そこ(後者)には目で見る言語があり、目で見る文化があり、ろうの赤ちゃんが生まれたら、また1人(仲間が)増えたと心から喜ぶ人たちの世界が、同じ国の中にあることへの新鮮な驚きはやっぱりありましたね。
萩上:冒頭でも、例えば紹介した漫画作品などですと、「ろう者」のコミュニティで育った子どもが、今度は聴者の学校に行って、何かそこでスポーツをやるというようなシーンなどもあったりするわけですけれども、こういったときのその葛藤というものも、葛藤やその喜び、「ろう者」の仲間が増えたとか、聴者の方に行くと逆に苦労するのではないかとか。色んな葛藤みたいなものは、実際、ろうのコミュニティの中でお話を聞くとしばしば聞かれることはあるんですが、言語とはまた別に、文化感が異なることによっていろんな衝突が生まれることが、ろうの方々にストレスを与えるのではないかという、そうした不安感があるということなんですね。
松岡:いまのお話を聞いてちょっと思い出すのが、なにしろ言語学者なもんで何でも言語に結びつけてしまうんですが、社会言語学で取り上げられてきた、アフリカ系アメリカ人・黒人の英語とも言われますが、つまりアフリカにルーツを持つアメリカ人の方々が話している英語には、現在「エボニックス(Ebonics)」という名前がついているんですね。それがかつて「汚い英語」だと言われていた時期があります。しかしながらちょっと前になるんですけど、ラバブ(Labov)という言語学者がそれをよく分析していきますと、白人が標準的に使うとされる英語とは別のルールがあったんですよ。例えばbe動詞を活用させない現象があるんですね。でもこのbe動詞はいつでも使えるわけじゃなくて、ある特定の意味的な条件を満たさないと使えない。でもそのことを知らない、標準的な英語を話す人が聞いたら、be動詞の活用もできないのかっていうような「差別」に繋がっていく。さらに(エボニックスの話者が)社会的に下に見られていたことも関係あるんですが、そういうことじゃなくて、エボニックスは独自のルールがある別の言語、英語のバリエーションと考えるべきだということがわかってきて。なので、子ども達の教育を行うときに家でエボニックスを喋っていて、学校の先生が話している標準英語の細かいところがつかめないlことがあるので、バイリンガル教育をするべきだとカリフォルニア州の教育委員会に陳情した人がいて、当時は大変に物議を醸しました。今はそれは受け入れられているはずです。ある言語を駄目な英語とか、変な英語とみなすのは、結局それを話してる人たちを下に見ているからですよね。ちょっとそれに似たものを、日本手話の話者たちの扱われ方に感じる時があります。
萩上:(その言語を)使っているコミュニティに対する位置づけなどもそうだと思うんですけど、一つ気になるのが、ちょっと話題が逸れるんですが…耳が聞こえない方にも、オノマトペを伝えようという、そうしたようなデバイスがあったりします。例えば駅の中で電車が来るときに、電車が来ましたって表示するとかランプをつけるんじゃなくて、ビューてこう表現してみるっていう。そうした試みは面白いねっていう形でニュースとして受け止めたりもしてるんですけど。一方で、ろうコミュニティで、そういうあり方こそがベストだったり、あるいは喜ばれることなのかというのは、また別のものなのかなという聞きながら思ったんですがどうなんでしょうね。
松岡:その疑問を思いついた時点で大正解だと思うんですよ。ろう者に聞きに行けますもん。私も同じような疑問があったんですが、明晴学園に行っている日本手話、ろうコミュニティで生きている子どもたちには、漫画が好きな子がとても多いのでかなり面白がっているような動画があって。私なんかそれを見て、そうか「あり」なのかと思いました。何にしても私達のような聴者としては、本人たちに聞くのが一番いいと思うんですよ。こうしてあげたら喜ぶんじゃないかなと勝手にやるのが一番良くないと思います。
当事者抜きで決められることが多い実情
萩上:当事者抜きで決めることになって。
松岡:実際、手話の世界ではそういうことが多くて、困ったもんだなと。
萩上:手話の世界、実際当事者じゃない人が何か決めるということが多いんですか。
松岡:多いですね。よく「ろう者」から愚痴として伺うことがあって。私もそんなに詳しいわけではないんですけど、手話歌を巡る論争で、例えば歌っていうのがそもそも、我々聴者の世界の文化じゃないですか。それをさっきの眼鏡のレンズの例えで、ここに手話単語をつけたらこの音楽の素晴らしさがわかるじゃないかって思っちゃう。本当にそうなのかは当事者に聞かなければわからないわけですよね。ところが、その結果として出来上がったものが、さっきお話しているような文法表現が全然ついてない、ところどころ単語がついてて残りは自分で想像しましょうみたいになっているものを見せられたときに、ろう者の人は私達と同じっていうか…イラッとくる人もいれば「優しいねありがとう、でもわかんない、でも言えない」みたいな。そういう意見を伺ったことは何回かあります。よかれと思ってやってくれてるのはわかるから怒りたくない。でもわからない。モヤモヤしたまま、でも聴者の人はそれを知らない、そのすれ違いが虚しく思われたっていうんですかね、その話を聞いたときに、もうちょっと何かやりようがないのかなと思ったのは覚えてます。
南部:映画『Coda コーダ あいのうた』を思い出しました。
松岡:その作品は非常に賛否両論あると聞いてますね。当事者のコミュニティの中で、それをどう感じるかは非常にデリケートな問題で、アメリカの場合は異文化コーディネーターもいるので、きちんとやっていらっしゃるのだろうと思うんですけれども。あえてそれ(音楽のテーマ)を扱うところにまた意味が出てくるんだろうとは思いますね。
萩上:ツイッターでも、いまツイートされてたんですけど、歌を手話でやるとモヤモヤするのは言葉の並びが違うからだったりする、そんな問いも書かれているんですが、今の話だと言葉の並びに加えて、音楽が伝わるとされているのかとか、当事者がそれを求めていることに応答したことになるのかとか、いろんなモヤモヤという言葉、いろんな疑問やすれ違いというのが生まれるんですね。
松岡:両サイドにモヤモヤが生まれてしまいます。ただ手話歌っていうのも、くくりがちょっと広すぎるというんですかね。私がいつか見てみたいと思ってるんですけど、「ろう者」の方で、その人がカラオケで歌うと、「ろう者(の聴衆)」がすごく感動を覚えるっていうか、大盛り上がりになる人がいるという話を聞いたことがあって、一度見てみたいものだと思ってるんですが、やっぱり聴者はそういう場所にいないんですよね。あまりいて欲しくないと「ろう者」の人が感じるんだったらそこは尊重しないといけないんですが、手話歌だから全部駄目っていうわけではなくって、何かスタイルがあるみたいで、どうも我々聴者はいまいちそこがピンと来てないのかなと捉えています。
萩上:翻訳困難なものも、中にはあると思うんですよね。その「ろう者」のコミュニティで例えば詩を表現するとなったときに、通常使っている言語表現を少し、様々な力で工夫をしてみるということが、どこまで通訳などで伝わるかとか、これは例えば俳句とかの5-7-5とかが、英語にそのまま訳されても、5-7-5のリズム感そのものを伝えるってのは相当困難ですけど。
松岡:情報しか伝わってないときはありますね。英語のHaiku(俳句)なんかを拝見しても。
萩上:曲を伝えるときに歌詞を訳すというのが、情報を伝えることも可能なのかということと、情報以上のものを何か伝えるということにそれが適してるのかということと、当事者の納得などがあるのかどうか、これ一つとっても、相当難しいですね。
松岡:私は音楽の専門家ではないので、何をどうすればいいのか正直わからないんですが、ただ私がこの話から受け取るメッセージというのは、まず手話のこと、ろうのことを考える時にはよく(当事者から)聞き取らないと駄目だなと、とても感じます。私は言語学者として面白がって手話の研究をしてますけれども、だからこそ、(ろう者の人たちに)お世話になってるわけですから、何らかの形で一緒に(何かを)やっていきたい。私の場合ですと、ろう者の中で言語学の勉強をしてみたいという方はたくさんいらっしゃるので、その人たちと一緒にやっていけばwin-winしかないんですよね。私としては(ろう者のことを)いろいろ聞けますし、こちらからは言語学のサポートができるわけなので。『わくわく!納得!手話トーク』に出てくる地域共有手話の研究をされている、ろうの研究者とは結構長く一緒にやってまして、私が弟子にして教えてるんじゃなくて、むしろ逆っぽい。私が「ろう者」の世界のことを教えてもらっていると強く感じて、安心ですね、その方がね。相談できるんで。やっぱり「ろう者」の人が何人もいて、1人や2人の意見だとちょっとまたそれは個人的な意見もあると思いますので、3人、4人、5人と聞いていって、みんな同じこと言うんだったらはそれは何か意味があるんだろうなって考えたりということができるようになってから、かなり安心感が増しましたかね。

デフゲイン=「ろう」であるっていうことは、人類の進化のバラエティの1つ
萩上:ろうというものを文化として捉える。本の中でも、他の執筆物の中でもデフゲインいう言葉を使って表現されていらっしゃいましたけれども、この捉え方という点は最後にいかがでしょうか?
松岡:手話を考えるときに二つの世界があるというのが伝わっているといいなと思うんですね。「音があるはずなのにない世界」にはその世界の喜びや苦しさがある。それと全然別に「ろうコミュニティ」があって、そこにはそこの喜びがあり課題(イシュー)があり…なんですが、やっぱり聴者の世界って何かと、耳が聞こえないことに対してネガティブなイメージが持たれがちで、それは日本だけではありません。ところが最近、2014年ですね。アメリカでデフゲイン(Deaf Gain)というタイトルの本が出ました。論文集です。ゲイン(gain)という英単語は何かを「得る」という、「お得感」のある単語なんですね。デフ(deaf)は「ろう」という意味です。「ろうが得る」とは何かということで、本の導入で書かれてたんですけれども、そもそも人間が進化していった中で聞こえる人間の方が数は多いです。でも聞こえない人間も常にいたわけですよね。一度も滅びてないわけですよねと著者は書いています。ということは、聞こえない人は聞こえる人が何かの問題で何かが欠けている人というより、人類の進化の一つのバラエティではないかというふうに(著者は)おっしゃっています。「聴」が「ろう」より良いということはなく、「ろう」が「聴」よりいいということもまたない。単なるバラエティーなんで、人類の。それを踏まえた上で、デフであることでどんな良いことがあるのかっていうのを考えていくということです。つまり「ろう」であることは単なる多様性に過ぎないってことですよね。生物的、言語的、文化的多様性。最近よく取り上げられるSDGsのキーワードの中にも「遺伝的多様性」「文化多様性」「生物多様性」と出てくるんですよね。まさにそことも重なっているんですが、ろうであるから得られるものをいろいろ考えてみようということで出たのがこの論文集です。例えば、ろうであるから得られている能力、視覚情報の処理のレベルが聞こえる人より遥かに高いことを示した研究成果はたくさんあります。
また「ろう者」の特徴として、私も本に書いたんですけど、外国旅行が本当にお好きで、1人で行かれてすぐ友達がいっぱいできる。「ろう者」の友達だけじゃなくて、聴者で言葉が違う人たちとも、何か仲良くなってしまうとよく言われます。つまり異言語・異文化への適応力が非常に高いということです。私の体験からしても確かにそうです。私なんか英語が通じない国に行くとすごい緊張するんですよ。あ~どうしよう~みたいな。
萩上:かなり恐る恐るっていう感じになりますよね。
松岡:一緒に出張に行った「ろう者」の人は全然そんなことがないので驚いたことがあるんですよね。全然びっくりしていないって言うんですかね、意に介していないというか、ジェスチャーを使ってさして困らずやっていけるみたいな。あとは集中力。音が入ってこないことによって高められる集中力。
萩上:私もノイズストレスがとても強いタイプの聴者なので。そういったものの、様々なあり方もあるから、「ろう者」について理解しよう、してあげようとかではなくて、異文化として理解しながら、リスペクトしながら、そこにあるものは何か。ぜひこれをきっかけに多くの方に知ってほしいですし、そのために松岡さんの本も、そしてデフゲインという論文集なども含めて、本があるということにも繋がってほしいなと思います。
南部:松岡さん、今日はありがとうございました。
松岡:ありがとうございました。
南部:またよろしくお願いいたします。
===============================
「荻上チキ・Session」;
TBSラジオで平日午後3時30分から生放送!
ラジオはAM954/FM90.5
パソコンorスマホで「radiko」でどうぞ。
===============================