ドーハの悲劇から30年、武田修宏さんが当時を振り返る

コシノジュンコ MASACA

武田修宏さん(Part 1)

1967年静岡県生まれ。県立清水東高校から1986年に読売クラブ(現東京ヴェルディ)に入団。中心選手として黄金期を支え、名実ともに日本を代表するフォワードに。引退後はサッカーの解説など、さまざまなメディアで多岐にわたって活躍しています。

武田:ご無沙汰してます、いろいろお世話になりました!

出水 :ジュンコさんと武田さんといえば、ジュンコさんがデザインしたヴェルディのユニフォームですよね。

JK:なんといってもラモスがきっかけですよ。なにしろヴェルディってグリーンだから、芝もグリーンで目立たないんだよ、って悩みからだったの。どうやったら目立つ?って。

武田:大変でしたね~。俺も今日持ってきましたよ! ちょっと洗濯して色あせちゃったけど。

JK:背番号9番! 相当これで点を取ったわね。

武田:そうですね、たくさん点も取りましたし、パワーや強さが象徴されました。そういった関係でそのころからお世話になって、恥ずかしながらコシノさんのファッションショウにも出してもらいました! ファッションじゃなくて、女性ばっかり見てしまって(^^;)

JK:ラモスとか、みんな仲良かったよね! みんなで食事に行ったりして。なにしろあの当時のヴェルディのすごさ! 日本代表ほとんどヴェルディだったもんね。

武田:そうですね、引退してもいまだに個性が強い北澤さんとか、あの頃個性があった選手がいまだに活躍してますから。

JK:Jリーグができたきっかけとなったスター選手が一番集まってたのがヴェルディだからね。あの注目の浴び方!タイミングいい時に若くして活躍したから、急に人生変わっちゃったでしょ?

武田:そうなんですよ、それまではどちらかというと給料が付き20~30万だったのが、月500~600万になったんですよ。それがいきなり0にドーンと落ちましたけど(^^;)

JK:ちゃんと貯めてある?

武田:あとでいろいろ話します(^^;) まだ始まったばかりなんで、後半にキープしときます(笑)

出水:ヴェルディといえば、当時珍しかったのがバスをラッピングしたりとか、先進的でしたよね。

JK:ユニフォームだけじゃなく、選手を運ぶユニフォームを作ったわけ。私が言ったら、日野自動車もすぐ!言ったとおりにやってくれて。内装がシャンデリアとかは嫌いだから全部取ってもらって、中から全部改装したの。

武田:ああ、そうだったんですか!!

JK:観光バスってシャンデリアあるじゃないですか。スポーツ選手が似合うわけないじゃない! バスが通るだけで選手が乗ってるってみんな思うでしょ? 

武田:思いますよね。それからどこのチームもこういうバスになった。

JK:ヴェルディからよ。特許取っておけばよかった! 

出水:当時はクセの強い・・・いえ、個性的でエッジが立ってる先輩方もたくさんいらっしゃいましたけど、その中で武田さんは面食らったことはなかったんですか?

武田:基本的に我が強い選手が多かったんで、僕はバランサー。ラモスさんがいて、カズさんがいて、北澤さんがいて、その中でチームをまとめるのが僕だったんで、試合が終わった後も店の予約とか、人を集めるとか、全部僕が担当してました。

JK:そういう人がいないとね。カズさんとか本当に個性的よ!

武田:今でもそうですからね(笑)いい意味で自分のスタイルがある。だけどグラウンドに出るとチームでひとつになるんですよ。それがすごいなって。プロの集団って1人1人のキャラは強いんですけど、仕事になったらピシッとやって、プライベートは自由にやる。そのメリハリとか、勝つためにひとつになるチーム力とか。その時の監督が松木さん。いい時代でしたよね。

JK:純粋にやりたいことやってた。日本の歴史を作りましたよ。

武田:あれから30年で時代も変わりましたね。当時は罵倒されたり、称賛されたり、その中で選手がメンタリティ強くしてやってた時代でしたから。それから主張する。今はあんまり主張できない時代になってきたので、そういう意味ではいい時代を歩んできたなって思いますね。

出水:武田さんご自身も、1993年から3シーズンで120試合60得点!

武田:今はバラエティに出過ぎてて、昔それだけ活躍してたって誰も知らないんですけど(^^;)J1の中で、トップの選手が少ない中で、60点。しかも上手い選手が日本にいた。今はみんな海外に行っちゃうので、今と昔を比較するのはなかなか難しいですけど、いまだに三浦カズさんとも話すんですけど、あの時の3年間2人で120点ぐら取ってるんですよ! 「あの時代はすごかったよな」という話はたまにします。

JK:1点1点覚えてる? あのときはアシストで、とか。

武田:覚えてます、覚えてます。カズさんの結婚式の前日に博多で俺が点とったな、とか、等々力で決勝ゴールを決めてラモスさんに褒められたな、とか。あの試合で点取れなくて、彼女が見に来てたのにいいところ見せられなかったな、とか(笑)そういう細かいことまで覚えてます。

JK:最初に取った、歴史的な1点は?

武田:広島で、三浦カズさんのセンタリングをヘディングで取ったのが初ゴール。競争争いが激しかったんで、1点取らないと次出られないんですよ。ポジション争いで藤吉君とか永井君がいたので、1回のミスで出られなくなる。そのぐらい競争が激しかった。高校時代からストライカーで、点とって当たり前、というプレッシャーはありました。それにキャラクター的に叩かれやすいんですよ(笑)

出水:(笑)

武田:「 冗談じゃない、帰れ!」とか言われたり(笑)外すと「武田、決定的場面を外す」「武田が外したから負けた」って。「ドーハの悲劇は武田のせいだ」とか(^^;)俺は言われやすいんですよ。

JK:今までよく耐えてきたよ(^^)

出水:小学校1年からサッカーを始めて、中学生でジュニアユース日本代表に選出。清水東高校を経て読売クラブに入団し、19歳で日本代表に選出されています。トントン拍子に上にあがっていった印象ですね。

JK:サッカー以外に他に興味は何もなかった?

武田:基本的に家族が共働きで貧しくて、親父がギャンブル好きで、そうした寂しさと悲しさの時にサッカーと出会った。だから嫌な時もいい時もサッカーしてましたね。家に帰っても両親がいないんで、1人ボールを蹴って、という感じでしたね。

JK:でも静岡で生まれたのはよかったね。サッカーの環境じゃないですか。

武田:そう、静岡県に生まれたからサッカーの環境でサッカーができた。幼少の時に決して裕福ではなかったり、借金取りとか取り立ても来たりしたので、忍耐が強くなった。自分のことはすべて自分で用意する。ちっちゃいころからそういうことが習慣として身についた。それが自分の中では強くなった理由かな、と。だからいまだに自分のことは自分でやってるので、結婚できないです(笑)

JK:今までマサカこんなことは!っていうのは?

武田:まぁドーハの悲劇はマサカですよね! だってワールドカップにほとんど出れるだろうと思って、前日にみんなで「明日は歴史が変わるな」って言って試合に出て、アディショナルタイムで出られなくなって・・・当時アジア枠が2枠だったんで、3位で出られなかった。

JK:最後の最後で気持ちが油断した? 

武田:相手チームも消化試合だったんですよ。それがこんなに頑張っちゃって。でもその経験から、アディショナルタイムの使い方だったり、あまり行ったことのなかった中東に遠征して経験を積むことが大事だ、とかね。

JK:私もあの当時カタールに行ったのよ。ビザ取るのが大変だった。何がダメかって、私の名前なの。旧姓でパスポート取っちゃったから。

武田:当時の記憶があるのは俺とコシノさんですからね! あの時代、あの空気・・・ものすごい暑くて、何もなくて。ホテルと砂漠で何もない。当時はシェフもついてなかった。着いたばっかりで、試合前はうどんとおにぎりだけだったんですよ。今はワールドカップには必ずシェフが帯同するんですけど、当時はカップラーメンですから。そういう環境を経て、今がある。

JK:その帰り香港に行かなかった? ヴェルディ見たんだけど。

武田:ヴェルディは香港で試合したりしてましたね。僕ら日本代表の後、直接チームに合流してたりしました。

出水:ドーハの悲劇後の数時間の記憶はありますか? 

武田:信じられない感じでぼーっとして終わった、という感じでしたね。当時はアラブの民謡みたいな音楽が流れて、あの暑さの中でやったことがなかったんですよ。今は中東遠征やってますけど。

JK:しかも現地の人はみんな真っ白い衣装で、圧倒されちゃうわよね。

武田:そういう経験がなかったので、僕らは大変でした。そういう中で試合があって・・・しかも1か月ぐらい遠征してたので、日本でこんなに盛り上がってるなんて知らなかった。日本に着いた瞬間にスーパーヒーローになってて、びっくりしました! 今年のワールドカップはカタールですしね。あれから30年経って今年カタールで、ドーハの時のメンバーの森保君が今度は監督として戦ってくれる。すごい歴史を感じます! 
 

==OA曲==

M.  雨  /  森高千里

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