宇多丸『こちらあみ子』を語る!【映画評書き起こし 2022.7.29放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。          

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宇多丸:                              

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では7月8日から劇場公開されているこの作品、『こちらあみ子』

(曲が流れる)

芥川賞作家・今村夏子さんが2010年に発表したデビュー小説を映画化。主人公は広島で暮らす小学5年生の女の子、あみ子。少し風変わりな彼女は、家族を優しく見守る父と、書道教室の先生の母、一緒に登下校してくれる兄、憧れの同級生の男の子など、多くの人たちに囲まれて元気に過ごしていた。やがて、あみ子の純粋で素直な行動が、周囲の人たちを少しずつ変えていくことになる……なんていうソフトな言い方してますけど、それどころじゃない感じですけど。主人公・あみ子役は、オーディションで選ばれた新星・大沢一菜さん。あみ子の両親を、井浦新さんと尾野真千子さんが演じていらっしゃいます。監督・脚本を務めたのは、本作が長編監督デビューとなる森井勇佑さんです。

ということで、この『こちらあみ子』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多め」。まあ、私が結構折に触れてプッシュしていたこともあるんでしょうかね。だとしたら嬉しいですけどね。賛否の比率は褒めの意見が8割。

主な褒める意見は、「思っていたのと違う、とてもしんどい映画。だからこそ、心に残り、考え続けてしまう」「純粋で、それゆえに怪物にも見えるあみ子がとにかく魅力的」「音の演出が印象に残った」などがございました。一方、否定的な意見は、「見ていてしんどい。つらすぎる。二度と見返したくない」とか、「もうちょっとあみ子に感情移入させてほしかった」などなどございました。

■「私もまた“あみ子”でした」

ということで、代表的なところ。ラジオネーム「スーベニール」さん。

「裸足のまま学校を歩き、坂道をスキップするあみ子を見て、自分が授業中こっそり裸足になる子どもだったのを思い出しました。あみ子の思い込みの激しさ、しつこさ、まわりと馴染めないところ、そして死という概念をなんとか咀嚼しようとして、無神経な行いをするところ。ひとりぼっちなのに、そのことに気づいてすらいないあみ子。全部身に覚えがあります。

あみ子にとってこの世界は異界そのものです。異界は、『不思議の国のアリス』のように地下にあるのではなく、家の中にあります。学校にあります。この世に慣れきった大人からすれば、子どもは紛れもない異物です。“恐るべき子ども”などという、大人の慣用句からすらもこぼれ落ちる存在、それがあみ子です。私もまたあみ子でした。今もまだ、少しはそうかもしれません。

音が素晴らしい映画でした。強調された音は、あみ子の皮膚や内臓が感じる振動までも再現したかのよう。そして音へのこだわりは、中盤からあみ子につきまとう“幽霊の音”への伏線にもなっています。セリフや展開がほぼ原作通りで、製作陣の深い愛を感じました。映画で追加された──ちょっとぼかしますが──一人の作家が書く小説から、大勢の人々が関わる映画という媒体へ『こちらあみ子』が受け渡される上で、あのシーンは必然だったのかもしれません。原作のあみ子に深く感情移入していた私は、あのシーンを見た時、“あみ子がひとりぼっちでなくなってしまう”という子どもっぽい焦燥感と、あみ子にひとときでも安寧が訪れたなら良かった、という大人としての安堵感の両方を味わいました。

こんな映画を作ってくれて、というより、世界から切り取ってくれて本当にありがとうございます、という気持ちです」とか。

あとですね、「娘の名前はレイチェル」さん。

「『こちらあみ子』、自分にとって生涯ベスト級の一作でした。その理由はこの作品がいわゆる“発達障害のグレーゾーン”と呼ばれる子供、そしてその家族が直面する生きにくさ、辛さをとてつもなくリアルなタッチで描いているから」。ちょっとね、省略させていただきますが。「……現在進行形で“ボーダーライン”と呼ばれる人たちに日々起こっている事なのです。そんな辛い現実を見事に描き切った作品をこれまで見たことがありません。主演の大沢一菜さんの本当に神がかった演技と共に、生涯忘れられない一作になってしまいました」という娘の名前はレイチェルさん。

一方、ダメだったという方。「ドロップ・ダ・ボム」さん。「映画鑑賞体験としては十二分に満足のいくものでしたが、絶対好きにはなれない映画でしたね」。で、ちょっと省略させていただきますが。「……監督の極めて客観的なものの見方を、どうしても認めたくないわけですよ。実際、あみ子までいかなくても日々、子供の気持ちを理解するのに悪戦苦闘しているご家族もおられるでしょうし、あみ子自身学校に行きづらくなっているわけだから、彼女の中の気持ちの葛藤はあるはずでしょう」「なのに、画面に映るのは何があっても立ち直り、常に屹立し続けるあみ子のたくましい姿なわけで」……ということで。ちょっとその、何ていうかな、客観的にというか、その揺るぎないあみ子の姿というのに違和感を抱いた、ということでしょうかね。はい。褒めの方も、ダメだったという方も、皆さんメール拝読させていただいております。ありがとうございました。はい。

■森井勇佑監督、1作目にして相当すごいところにいきなり到達しちゃってる

ということで、行ってみましょうかね。私も『こちらあみ子』……あれですね。この放送で言いますと、7月7日の放送内で、製作委員会にも入っているおなじみTCエンタテインメントさんの広告枠ということで、先に紹介するために、一足お先に私、拝見して。もちろんこのタイミングでも、新宿武蔵野館に行ってですね。計3回ほど見てたりしますけども。

見れば見るほどですね、これはちょっと、スケールが一段上の傑作、という風に言っていいんじゃないかなという風に、私個人は考えております。脚本・監督の森井勇佑さん。これまで様々な作品の助監督として経験を積まれてきた方で、これが監督としてはデビューとなるわけですけど。ちょっと、とんでもないレベルの一作目なんじゃないの、これは……またすごい人が出てきたな、という風に僕は思っております。

まずね、今村夏子さんのそのデビュー小説でもある、原作の小説ですね。それの脚色、映画化、すなわち映画へのアダプテーション(翻案)としてですね、ほとんど完璧なんじゃないかなと思うほどよくできている、という風に思います。セリフ、展開、ディテールなどはですね、本当にかなり忠実です。相当忠実にやっているんだけど、それをちゃんと、映画の文法に置き換えている、というか。そのあたり、見事だなと思いますし。オーディションで選ばれた大沢一菜さんによって改めて、まさに「体現」される主人公・あみ子をはじめですね、登場人物や世界の生かし方、見つめ方など、やはりちょっとこれ以上考えられないほどの的確さ、見事さというか。

わけてもですね、これは後ほど詳しく言いますけど、映画における「フレーム」……画面ですね。フレーム、画面内に映っているものと、いないもの。たとえば音も含めて、フレームの中に何が映っていて、いないのか……音はもちろん、映りませんから。あるいは、何が入り込んできて、何が出ていくのか、とか。あるいは、誰が何を見ていて、誰が何を見ていないのか、とか。あと、誰が誰の顔を見ていて、誰が見ていないのか、とか。というような、とにかくそういう映画ならではの効果・演出というのがですね、この映画は、ものすごく研ぎ澄まされまくってます。

またですね、言ってみればそのドキュメンタリー的な、「カメラを向けたら撮れてしまった」的な……もちろんその大沢一菜さんの存在感自体がもう、「カメラを向けたらそこで撮れてしまった感」にあふれている。非常にドキュメンタリックな意味での映画的奇跡、っていうのとですね、現実から不意に飛躍したり、遊離したりするというような、映画ならではのフィクション性、ファンタジー性。ドキュメンタリー性とファンタジー性が、同時に成り立ってるような、ちょっと驚くべき瞬間、みたいなものがいくつか現出したりするというような。つまりやっぱりですね、森井勇佑さん、ちょっと映画の作り手として、相当すごいところにこの一作でいきなり到達しちゃってる、っていう感じがします。

■原作小説とは構成を変え、あみ子の「今」に焦点を当てる

ちなみに、同じく今村夏子さん原作小説の映画化としてはですね、2020年に、大森立嗣さん脚本・監督、芦田愛菜さんの主演で、『星の子』という作品がございまして。これね、今このタイミングで見直すとですね、あまりにタイムリーな題材で……要は、そのいわゆる「宗教二世」を扱った話で。ちょっとあまりにタイムリーな話で、ギョギョギョッ!としてしまうわけですけども。あちらも、その『星の子』の方も、社会的にちょっと問題がある親を持つ、子供の視点で語られて。そこの視点でしか見えない何かというものを語る、という意味で、『こちらあみ子』とも通じるところがはっきりある、ということですね。

とにかくですね、順を追って話してきますけども、『こちらあみ子』。大沢一菜さん演じるあみ子というですね、前半では小学校高学年ぐらいの女の子。彼女の視点でお話が進んでいくわけですね。劇中、明言などはされませんが、まあひょっとしたら世の中的には、たとえばADHDとか、そういう発達障害と診断されたりする事例なのかもしれない、と感じさせる程度には、周囲から若干浮いている、という感じではあるんだけど。ただ、特に原作小説と比較するとですね……小説の方は、お話的な行き着く先、のところから始まるんですね。時制的には一番最後のところから話が始まる。で、過去にさかのぼって、回想する、という作りなんですね。

で、どうやらその行き着く先では……要するに小説の始まりでは、一般的な成長・養育のレールからは、既にもう外れてしまっているっぽい。で、それを象徴するかのように、前歯が欠けていて、それが「空洞」になっている。そういうあみ子、っていうのが最初に示されるわけですね。なんですけど、それを映画化するにあたって、これは『月刊シナリオ』に監督が寄せられている記事で……この欠けた歯というのを表現するのに、まず物理的に、たとえばCGでやるとかっていうのも、でも予算的に難しい、ということから、この回想形式という構成自体を変えた、ってことですね。そうおっしゃっていて。

それによってですね、要するにほぼ時系列順になっているわけですけど、常にあみ子が見ている「今」っていうのに、焦点が絞られる作りになったわけです。プラス、演じてる大沢一菜さん自身が発散する、まあ圧倒的なエネルギーですよね、「今」を、その世界を、堪能し尽くしているかのような力強さ。もうそれが、はっきり「映っちゃってる」わけですよ。もう本当に、生命のエネルギーそのものとして映っちゃってるような感じも相まって、原作小説から受ける印象より、要はグッと、「明るい」感じになっていると思います。はっきり言って。それがすごく強まってると思います。

映画史に残る「子供視点映画」の新たな傑作
 
もちろんね、客観的に見れば重大な、社会的な問題……たとえば、子供のあり方に応じた養育・教育ケアが全く欠けていることからくる、それが招く、ある重大な結果とか。あるいは、結局ネグレクト的なことになっちゃうとかいう、非常に重大な問題っていうのは、もちろんお話の向こう側に、はっきりと透けては見えます。それはね。それは見えているんです。見えるんだけども、やはり、あみ子の視点に一定の距離で寄り添い続けるこの作品……この「一定の距離で寄り添い続ける」というスタンスがまた、ミソになってるわけですけど。その、あみ子の視点に一定の距離で寄り添い続けるこの作品では、少なくともあみ子は、ただ単に「社会的にかわいそうな子」という風には、扱われていないわけですね。むしろ、社会の常識とは違った角度と精度で、世界を見ているその視点の、非常に……豊かさ、楽しさ、眩しさこそが、この物語の、言ってみれば最大の魅力であることは、まあ間違いないわけです。

その意味で……本作でもうっすらオマージュが捧げられている、『ミツバチのささやき』という映画があったりします。『ミツバチのささやき』とか、あと、ヴィターリー・カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』といったですね、映画史に残る「子供視点映画」……特にその、残酷な現実というのがあるんだけど、その中にいる子供の視点で描かれた映画の系譜に連なる、新たな傑作、という言い方ができるかなという風に、私は思っております。この『こちらあみ子』は。

■自然主義的に描かれた日常の中に時おり「油断ならない仕掛け」が待ち構えている

でですね、とにかくあみ子さん自身はですね、底抜けに明るい人なんですよ。で、前半の、まだ小学生……要は無邪気でいてもまあまあ、そんな問題はない、何の問題もない段階では、それでもまだ、わりとほんわかしたトーンで、表面的に話は進んでいくわけですね。

ただですね、単にほんわかした日常が自然主義的に描かれている、と思っているとですね、時折ギョッとするような、油断ならない仕掛けが待ち構えているのがこれ、森井勇佑監督の怖いところでございまして。たとえばですね、メインタイトルが出た、直後のシーン。これ、パンフに、撮影決定稿のシナリオが載ってるんですね。

なんですけど、そのパンフの撮影決定稿ではあっさり2行で済まされている、「あみ子がテーブルにちょこんと座っていると……」みたいな形で済まされてるくだりなんですけど、これが映画だと、こういう風に描かれます。タイトルが出た後、あみ子がまず、椅子のお尻を置くところに背中を乗っけて、グデーッと横たわっているわけですね。で、そこからグデーッとしたまま、床に滑り落ちていくわけです。子供の時に、誰もが皆さん、やったと思いますけど(笑)。グデーッとその、床に滑り落ちて。で、そのままテーブルの前にきて、ちょこんと座り。卓上のみかんを、天井にぶつかる勢いで放り投げだすわけですね。

まあいかにも……「あみ子さん、ちょっとそれ、大丈夫? あーあー」(笑)と思って見ていると、何個か目に放り上げたみかんが、なぜか、落ちてこない。で、あみ子はこう、天井を見上げてるわけですね。しかしその天井は、さっきから言っているように「フレームの外」にあるので。一体なぜみかんが落ちてこないのか、我々観客にはわかんないわけですよ。で、「えっ、何これ? 気持ち悪い。何、何?」と思った瞬間に、今度は部屋の電気が、パッ!と消えるわけです。そこでまた「えっ?」ってなる。

と、そこで家族たちがですね、横のドアが開いて、ハッピーバースデーを歌いながら、ろうそくがついたケーキとともに入ってくる。そこから、キーアイテムとなるトランシーバーのおもちゃであるとか、使い捨てカメラとか、鉢植え。そしてもちろん、チョコクッキーですね。これがプレゼントとして渡される……というか、あみ子が奪い取る、という(笑)。そういう一連の流れがあるわけですが。それを、さっき言ったその、椅子にグデーッとなっているところから、一連のワンショットで見せるわけです。

つまり、「落ちてこないみかん」の気持ち悪さとか、あとは電気がパッと消えた瞬間の、なんか世界が丸ごと表情を変えてしまった、一瞬で世界の表情が変わっちゃった感じ、みたいなことを含めて、全てが、あくまで自然主義的に、でも明らかに周到な計算の上に、切り取られてるわけですよね。もうこのワンショットだけでも、ただもんじゃないですよ、ちょっと。「えっ、なにこの監督……油断ならないんだけど!」みたいな(笑)。

ちなみにですね、このように、さりげなく、非常に自然に続いていく長めのショットの中で、「えっ?」と思うような飛躍が起こる、という見せ方。終盤、浜辺にあみ子が行く、というところでも出てくるんで、これも要注意でございます。はい。

■周囲とのズレを生むあみ子の振る舞い。そのきしみは随所に登場している

とにかくですね、あみ子の誕生日のくだり。和気あいあいとした家族の風景みたいに見えるんですけど、ただそこにも実は、不穏なきしみ……後に、ある本当に決定的な決裂を招いてしまうきしみは、要所に顔を出してたりする。

たとえば、尾野真千子さん演じるお母さん。せっかく用意した夕食を残しまくって、あみ子さんは、もらったチョコクッキーのチョコだけを、ペロペロなめてるわけです……しかもこの「ペロペロなめる」っていう、これがまた後に、とある惨劇を招くわけですけども(笑)。そのあみ子に向ける、尾野真千子さん演じるお母さんの、一瞬の、「嫌だな、この子」っていう、嫌悪めいた視線であるとかが、ちょっと置かれたりする。で、それが、ある物語上のポイントで、それまでの、とはいえちょっと風変わりなほんわかホームドラマ、ぐらいの感じで進むのかと思ってたこの物語が、一気に、一種の「家族という地獄」モノ、という風に化していくわけですね。

たとえば尾野真千子さん演じるお母さんのあの、テーブルの上にグワッと広がった髪……あれ、Jホラーですからね! 「怖っ!」っていう。ああいう感じで見せていく。非常に禍々しいようなことになっていく。で、あみ子自身は基本、常に明るく世界を捉えている人なだけにですね、周囲とのズレは、逆により激しくなっちゃうわけです。で、前以上に決定的に、誰も彼女に向き合うことをしないようになっていく。まさしく彼女の、「こちらあみ子、応答せよ」っていう呼びかけに、誰も答えなくなっていく、っていうことなんですね。

で、あんなにあどけなかったお兄ちゃんも、グレていって、暴走族に入ってっちゃったりする……というところまでが、前半の終わりなんですけど。たとえばここで、あのバイク集団がこういて、お兄ちゃんがそこに加わって、バイク集団が去っていく……というところまでは音がないんだけど、去って行った後に、向こうの遠くの方にバイクの音が響いている、みたいな、この演出。音の演出が非常に凝っていて。これもね、全編で非常に冴え渡っている映画でもありますね。この『こちらあみ子』は。

■興味深い音演出と「画面内フレーム」の使い方。そしてあみ子と会話が成立する「ある人物」とは?

で、後半は、あみ子の中学時代。そこ(兄が暴走族とバイクで走り去っていくところ)でフェードアウトして、なんかトカゲかなんかのアップから、今度は便所でいじめられているあみ子、というのにパッと変わって、中学時代に変わるんですけど。ここですね、キャストは同じなのに、数年経って、ちょっと雰囲気も変わった、っていう風に、しっかり見えるわけです。一目でわかるわけですよ。僕は一瞬(つい考えてしまったのは)、えっこれ、『6才のボクが、大人になるまで。』みたいな、すごい何年も時間をかけて撮った、みたいなこと? いやいや、予算的にたぶんそれは難しいだろうから」……というわけで、つまりこれは、衣装や演出などで「そう見せている」という。単純にそこも本当に、「ああ、すげえな」って感心してしまいますし。

後半はですね、あみ子が「謎の怪音」に悩まされる、というのが大きなそのミソ、要になってくるわけですけども。さっき言ったその、「音」を使った面白い演出……(たとえば)途中の、あっと驚くジャンルシフト。「“そっち”に行くんだ!?」みたいなところの仕掛けも含めて、すごく、存分に楽しめる作りになってきますね。

あとその、「怪音が鳴っている」事件の意外な結末も、これは顛末としては小説通りなんですが、この映画だと、さっきから言っているように……画面内にもういっこ、「フレーム」がある状態。要するに、扉が両脇にあって、扉の向こう側の、右側の奥は見えない状態。その奥に、何かがある。お化けがいるなら、そこ?っていうところから、何が出てくるか、みたいな。この「画面内フレーム」っていうのを、またうまく使ってるわけですね。

でですね、どんどんどんどんですね、社会からも家族からも、乖離していってしまうあみ子、というのがいるわけです。さっき言ったように、誰も彼女に向き合おうとしないし、彼女のその呼びかけとか声に、耳を傾けない、という状態がある。それはもちろん、周りの人間からすると、たまったもんじゃない!っていうことがあるからなんですね。だから、どっちが悪い、っていう風には描かれていないと、僕は思ってますけど。

唯一……ちょっと離れた位置のワンショットがこれ、基本なんですね。ずっと離れた位置のワンショットで、会話とかも離れた位置で、ちょっと、突き放してはいない、ぐらいの距離。でも、ちょっと離れた位置から固定で見る、というこのショットが基本だったこの作品で、ある人物と会話してるシーンでですね、ふとですね、切り返しのカットバックが使われるんですよね。ある人がしゃべっている(正面のショット)、で、あみ子がしゃべっている(正面のショット)……今まで、そんな撮り方してないんですよ、会話シーンを。(だから)「あれ?」って思うわけですよ。つまり、「あれ? なんか急に会話が、対話が、なぜかここで急に、成り立ったぞ?」っていう感じがするわけです。

この、「突然の切り返しでの会話」のくだりの意味は……さらに終わりの方で、同じ人物との会話シーンが、もう一回、出てきます。同じ場所で。(そこで)より明確に、「ああ、そういうことか!」と、なんなら感動的に響くことになるわけです。これはね、セリフとしては小説とも同じ、「それはワシだけの秘密じゃ!」、からのですね、これ……「最大級、男前に去っていく」(笑)。最大級、男前に去っていくその後ろ姿に、私、思わず落涙してしまいました。「くぅーっ!」っていうね。あいつ、よかったですね。はい。

■原作からの最大の変更点はラスト。あみ子自身が選択して、未来というものを見据えるエンディング

ということでですね、最初の方でもちょろっと触れたように、客観的に見ればあみ子さん、どんどんどんどん、あまり良くない状況に置かれてゆくこととなります。小説で言うと、出だしの部分。完全にその、通常の養育とか教育みたいなレールから外れてしまったところに、どんどん置かれていくことになる。「ひどいな」っていう風に思うんですね。なんだけど、これもですね、話の締めくくり方。これ、原作小説からちょっとだけ、変えられていて。僕は結構ここ、大きなアレンジだと思っています。実はこの作品の中で、終わり方の印象が、180度に近いぐらい変えられている、と僕は思っていて。ここが一番、大きなアレンジだと思います。

さっき言ったように、あみ子さんが、とある浜辺に行くんですね。もう社会的状況としては、結構これひどいな!っていうような状況の中で。でも、スキップを……「彼女なりのスキップ」をしながら、海辺に行く。で、その浜辺に……しかもその、序盤であのノリくんにクッキーを食べさせる、あの川沿いの階段とよく似た作りの、浜辺に向かう階段を降りて、浜に向かっていく。そこまでを、自然な感じのワンショットで、ずっと追っていくわけです。で、彼女が海の方を向くと、フレームの外から……やっぱりフレームの外からですね、左側から、「あるもの」が(画面内に)入ってくるわけです。で、「あっ!」っていう感じがする。ここがまた、すごく自然なワンショットに見えたところに、「うわっ!」っていう、実はめちゃくちゃ人工的な仕掛けというか、ファンタジックな飛躍がそこで起きるようになっている。ここもラストに向けて、すごく盛り上がるところですし。

そこでですね、彼女が取るその、リアクション、っていうことですよね。あのあみ子が取る……その、フレームの外から入ってきた「あるもの」に対して、彼女がどういうスタンスを取るのか? ここが結構、大きな分かれ目だと思います。あみ子は、まあ言っちゃえば、「私は“こちら側”に残る」というような選択をする。そしてさらにですね、これは完全にラストのラスト。やはりフレームの外から、誰かが呼びかけるんですね。「他者」からの呼びかけがあるわけです。

フレームの方から呼びかける「他者」の呼びかけに、あみ子が明るく答える、っていうところから……要するに、(これまでは誰も正面から向き合おうとしてこなかった)彼女に、誰かが話しかけてるんですよ。で、彼女はそれに、明るく答えている。「こちら側」に留まる、って決めた彼女に、「他者」が話しかけて、答えてるんです。つまりはっきり、原作小説の、ちょっとなんというか、「これは救いが(ないのかあるのか)、どうなんだ?」っていう感じの終わり方に比べると、はっきり……ある種、彼女自身がちゃんと選択して、その未来というものを見据えたエンディングだ、というふうに、僕は解釈しました。このエンディングというのは。

■エンドロールで流れる主題歌『もしもし』(青葉市子)の歌詞は「誰の視点」なのか?

で、そこからですね、劇中、やはりその絶妙な劇伴、音楽ですね、手がけていらっしゃいます、青葉市子さんという方。いろんな変わった、(たとえば)「ピューッ」っていうようないろんな変わった、変な音を使って、見事な劇伴を手がけられていた青葉市子さんによる主題歌、『もしもし』という曲。さっきね、流れましたけど、エンドロールに……ちょっともう一回、かけてよ。エンドロールとともに流れ出すんですけど。

この歌の、歌詞の「視点」っていうのに注目するとですね……はい、今、流れました! この歌の、歌詞の視点っていうのを、聴きながらエンドロールを見ていると、これって、この映画のあみ子を見つめる視線……さっきから言っている、一定の距離から見つめてる、離れたところ、一定の距離から寄り添い続けるこのカメラの視点と、一致するような歌詞なんですよね。「じゃあ、これは誰の視点か?」っていうことを考えてみると……エンドロールで改めてもう一回、鳥肌が立つ!っていうか。「ああ、そうか!」と。これ、僕が思い出したのは、ジョナサン・デミの『レイチェルの結婚』っていうののですね、クライマックスの終わりの方に出てくる、水面下からの、ある謎のショットがあるんですよ。あれを思い出しました。『レイチェルの結婚』を思い出しました。

で、最後、その歌の終わりで、静かに「もしもし……」って一声が入る。あと、監督のクレジットに、これは大沢一菜さんと対になるように、消えたはずのもう1個のトランシーバーの片割れが、監督のクレジットの横についているんですね。そこで「もしもし……」っていう声が入る。ここでまた、グッと来てしまうという。エンドロールの最後の最後まで、本当に考え抜かれて、よくできている。

もちろん、キャストの皆さん。手練れのね、井浦新さんとか尾野真千子さんはもちろん、子供たちも含めて全員、もうこれ以上考えられない見事なハマりっぷりだと思います。笑えて怖くて、悲しくて楽しめて、リアルだけどファンタジック、ミクロだけどマクロ、要は非常に、「豊かな」一作だと思います。ぜひ皆さん、この森井勇佑さんという監督の名前、覚えておいた方がよろしいんじゃないでしょうか? 『こちらあみ子』、ちょっとワンランク上の傑作だと思います。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!

(来週は宇多丸多忙につきお休み。課題映画は未定です)

8月7日追記:翌週8月5日に翌週の課題映画を決めるガチャ回し。現在は宇多丸が1万円をガチャを2度回すキャンペーン施工中(※ウクライナ支援に寄付します)。一つ目のガチャは『とら男』、二つ目のガチャは『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』。よって来週の課題映画は『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

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