「批評が求められていない」ってどういうこと?【第478回 快適論】

マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオがお送りしている「東京ポッド許可局」。6月18日の放送では・・・
鹿島:2週前に「早送り論」っていうのをやったじゃないですか。それをもう1回巻き戻して話したいんですが…
タツオ:巻き戻しだ(笑)
鹿島:あの話を聞いたあと、聞いたあとっていうか喋ったあとだけど、マキタさんの言葉が印象深かったんです。「家に帰ってまでざわざわした不快なものじゃなく、心地良いものに包まれて寝たいんだ」っていう。まさにその通りで、その話のなかで紹介した『映画を早送りで観る人たち』という本のなかでも同じことを言ってたんです。「これ、マキタさんと同じこと言ってる」と思ってね。そこでは「快適主義」と書かれてたんだけど。やっぱりみんな忙しいし、情報も多いし、家に帰ってから見るエンタメは快適で、ノイズとか不愉快で不快なものは見たくないっていうね。だからマキタさんの言う通りなんですよ。あと「感情をグラグラされたくない」ってマキタさん言ってたでしょ?
マキタ:そうだね。
鹿島:俺もじつは毛色は違うけど同じことを最近考えてたんですよ。山口県で4630万の誤送金の振込のやつあったでしょ。あのときに自分で対策をしたのは、ワイドショーを見ないようにしたんですよ。感情を揺さぶられるから。
タツオ:朝から怒りたくないもんね。
鹿島:前、許可局でも言いましたけど、人を一番燃え上がらせる感情って善悪とか喜怒哀楽以外に「ズルい」っていうのがテンションを上がらせると思うんです。あれって一番ズルい案件じゃないですか。で、「これは大変なことになるぞ…!」と思ってゴールデンウィーク前から俺は非常ベルを鳴らしてね。そうしたら最終的に町側の「コイツが間違って振り込んだやつだ!」っていう、それも嘘なんですよ。「ほーら見ろ、そういうところに行き着いちゃった」と思ってね。ひどいじゃん。だから僕はそういうものは全部ミュートしといて、話を入れないように、情報を入れないように。でもそれも自己対策ですよね。っていうことをやったんですけど、話はここからで、前回紹介したのは映画の本ですから、「じつは今、批評や論評が避けられている」と書いてあって。論評の不在です。映画について書かれた批評本や論評本が売れなくなっている。その代わりなにが売れているかというとファンブックなんです。その作品についてとにかく絶賛した心地良いものがとにかく売れるんです。一方で論評とか批評っていうのは対極的な知識とかいろいろあーだこーだ考えるから、それが面倒臭いんでしょうかね。それが避けられている。で、批評が避けられているのはほかのジャンルでも聞いたことがあって。プロレス・格闘技ライターから以前、「この試合やレスラーについての批評、論評っていうのが求められていないんですよ」って。じゃあなにが求められているのかといったら、良い話なんです。そのレスラーとかの。プロレスなんて私は90年代とか80年代末、活字プロレスでね、10人いたら10人見方が違うっていうのですごくワクワクしながらね。
タツオ:その見方が面白いのにね。
鹿島:「その見方は違う」とか「その見方は面白いな」とか、それで育ったようなものですよ。読み比べなんてそこから始まったようなものですから。ところがそのジャンルでも批評とか見方の提示とか嫌われているというか需要がないんです。で、結局みんな美談になっていく。
タツオ:美談?
鹿島:美談って快適主義と同じじゃない。
タツオ:たしかに。
鹿島:M-1終わって美談が流れるでしょ。
タツオ:あれいらないわ~。
鹿島:つまりあれがタツオの言うところ、「僕らは良いものを見た。間違ったものを見ていない。あの人たちは良い人たちだ」っていう確認作業ですよ。
マキタ:「良い人たちだ」(笑)
鹿島:「面白いんだから良い人たちに違いない」
タツオ:それは陰謀論を信じるのとつながってるよね。
鹿島:それは薄くつながってるかもしれないですね。
タツオ:聞きたい情報を発信してる人を追い続けて、それ以外の見方を潰していくという。
鹿島:これはエンタメの話じゃないですか。映画にしろ。批評がないって。でもこれが社会問題とか、もっと大事な話で批評とかもいらないとか、心地良い空間だけでってなったら、それを利用する人たちも出てきますよね。そうするとやっぱり、快適な自分の空間だけに心地良く、それは仕事から疲れて帰ってきたときはそれで良いんですけど、だけどなにか大事な問題ですら「もういいよ」とか。
タツオ:考えたくない。
鹿島:ちょっと自分と見方が異なる人に関しては、むしろ対話とか批評じゃなくて、牙を剥き出しにして、罵倒しにかかるという。本当だったら「どういう見方があるんだ?」とか「あなたはそうなのね、自分は違うけど」みたいなところから面白いことが始まるのに。
タツオ:それが面白いんじゃん。
鹿島:それがむしろ、見方が違えばものすごい罵倒とか、ゴミとかクズとかさ、そういうことにつながるんじゃないかな。
タツオ:おっしゃる通りです。
鹿島:だから快適とか不快とか結構根深い問題じゃないかな。あと批評が求められていないこの状況のことを思いました。だから今日また話したくなったんですが。どうですか?
タツオ:もうビンビン刺さってますよ。
鹿島:あと「ノイズ」が嫌われてるよね。
マキタ:「ノイズ」って言うよね。
タツオ:俺も数年前からね、ずっと某野球球団を追いかけ続けてるんですけど。
鹿島:某野球球団ですね。クラウンライターライオンズ。
タツオ:違いますけれども(笑)
マキタ:稲尾の時代だね。西鉄からの。
タツオ:そんな昔じゃないんですけど(笑)やっぱり監督采配批判ね。まず批評ね。「これって果たして正解だったのだろうか?」という疑問を投げかけること。でもそれをいざツイートしようというものなら「なんでそんなこと言うんですか?選手も監督もみんな一生懸命頑張ってるじゃないですか」っていう。
鹿島:あっ、そこを突いてくるんだ。
タツオ:「一生懸命頑張るのはプロとして当たり前なんだけどね」っていう話なんだけど。
マキタ:「一生懸命頑張っている」(笑)
鹿島:でも「その試合を見てどう感じたか?」っていうのは話したいよね。
タツオ:「本当にそれが正解なのか?」という。これはべつに負けたときじゃなくて勝ったときでも、「でもあそこでもっとこうしたほうが良かったんじゃない?」とかっていう視点が面白いわけじゃん。俺らはそもそも批評自体が面白い、もう本編を通り越して面白いみたいなところから来てると思うんだけど。なんかそれからしんどくなっちゃって。監督も何回か変わってるんですけど。
鹿島:批評をする暇がなくなっちゃった。
タツオ:そう。その都度なんか言うと、球団批判と捉えられちゃうし。ファンに怒られるんですよ。球団じゃなくてファンに怒られるの。もうなにも言わなくなりました。
鹿島:タツオが今言ったことにもう一つ付け加えると、さっきのプロレスライターに聞いたのが、結局ファンに求められているのは良い話で、一方で批評みたいなこういう見方もあるというものを提示すると、当のレスラーから「違いますよ、ちゃんと取材してください」みたいな、本人登場みたいなことがあるっていう。
タツオ:それはダメだ。
鹿島:本人登場で「自分はこういうふうにやったから」って言うんだけど、観客席や記者席でどう見えたかってその人の見方じゃないですか。それをコントロールしようって無理だし、違うじゃないですか。でもそこはやっぱりファンは「そうだ!そうだ!だって本人が言ってるんだからそうじゃないか!」でおしまいという。やっぱり批評は生まれないよね。
タツオ:求められていないし、批評自体が生まれてくる土壌がもう崩れている。本人登場がありえるから。だってたとえば、夏目漱石の作品について「ああじゃないか、こうじゃないか」って言ってるときに漱石が「いや、違いますよ」って言っちゃうようなものだから。そもそもさっきも鹿島さんが言ってたいろんな視点からの考え方とか見え方とかのって批評のすごく大事なポイントだと思うんだけど、自分のポイントと違う見方をする人は全部批判というかさ。反論、否定っていうふうに受け止められちゃうというのは、正直言って知性の堕落だと思うんだよね。
マキタ:んっ?
鹿島:おっ、出ましたよ、頂きましたよ。「堕落」ですか?
タツオ:バカだと思う。
鹿島:私は先ほど、控え目に「もったいない」って言ったんですけど。
タツオ:アハハハハッ!
鹿島:「堕落」って言いましたね?
タツオ:本当にごめん。
マキタ:強めの言葉が出てきたよ。
鹿島:でも本当にそう思わない?見方がいろいろ違ったり、解釈がいろいろ違ったり、そこからじゃん面白いのは。だけど「もうダメ」みたいな。「これが正しい」みたいな。そこで終わっちゃう。
タツオ:本人に直接聞いちゃう系のやつって結構危ないなって思うんだよね。そのインタビューあるじゃん。著者インタビューでも、ミュージシャン本人のインタビューとかでも、やっぱりお客さんに委ねられている解釈の幅とかを限定しちゃうっていうかね。でも本来だったら作品って作家の手を離れて世に出されている時点で正解ってないはずだし、著者とかその本人の考えというのももはや一意見でしかない。
鹿島:世に放ったあとは、どう解釈や言われようがっていう。
タツオ:でも本人とか作家さんの一意見が正解だと思っちゃう人がいるから、問題になってるんだよね。
鹿島:もちろんここで気を付けなくちゃいけないのは、悪意をもって捻じ曲げて言ってもいないことを「あいつはあんなことを言ってた」というものへの応答はありだと思うんですけど、少なくとも作品で自分はこう解釈したっていうものは本人登場しなくていいよね。それは公の場に立っている者として。
タツオ:昔、許可局でも喋っててさ、許可局ではなるべく批評性を薄めていこうという話になったと思うんだけど、ただ批評をすることとか考えること自体が面白いということは忘れちゃいけないよね。
マキタ:「屁理屈をエンターテイメントに!」ですから。
鹿島:僕らは今、「批評が足りない」っていう批評をしてます。
マキタ・タツオ:アハハハハッ!
鹿島:今まで黙ってたんだけどね。でもちょっと足りなさすぎないか?
タツオ:そうなんだよなぁ。
鹿島:だから快適、快不快で「不快なものは嫌」、その気持ちはわかりますけど、でも「不快なものは嫌」って普段から思えば思うほど、いざ不快だと思ったらものすごい攻撃に走る可能性があると思うんですね。罵倒に走っちゃう。それはセットで考えないといけないと思うんです。じゃなきゃあんな山口のあれとか、あんな騒ぎにならないよ。
マキタ:本当おっしゃる通り。
鹿島:ノイズのあるものは避けたいというのは、みなさんお忙しくて疲れていると思うから、そこはわかるんだけど。
タツオ:俺がもっと危惧するのは、論評、評論とかを、自分の意見と同じようなものとしてまず評論自体に目を通さないというかさ、もうグダグダ言っている人が不快っていう人もいるじゃん。
マキタ:最近、いつ頃からかはわからないけどさ、あえてこの言葉を使うけど、「ディスり」っていう言葉が当たり前に使われてるじゃん。「ディスった」とか。あれもなんか神経というか精神を表してるのかなと思うんだけどね。「ディスる」という言葉の本来的な意味とかはもう薄れているけど、「ディスった」とか「ディスられた」とかっていう言葉が「もう入ってくるなよ」っていうことになっているし、すごい神経質な態度だなと思うんだけど。神経質な時代のムードがあるから「ディスり」という言葉が便利なものとして使われているんだと思うしね。あと、個人のことでいうと、俺ってアーティストの作詞作曲モノマネってやるでしょ。あれがとにかく「ディスった」って言われるんですよ。
鹿島:なるほど。
マキタ:「マキタスポーツがディスった」って。その好きなアーティストの対象を俺がディスったことになってるらしいんですよ。この際だから言っとくけど、ディスってるよ。
タツオ:じゃあいいじゃん(笑)
マキタ:もう一方のことを言うと、モノマネをされる人がよく言うんだけど、「これはファンだからですよ」っていう予防線の張り方をするんだけど、あれは違うからね。基本的に笑いという芸でまろやかにマイルドに仕立て上げてるけど、絶対にからかってるし、ただ単なるファンとか見上げた存在だっていうことじゃなくて、イジってるからね。それはちゃんと言っとくよ。あれはディスってるからね!
タツオ:アハハハハッ!
マキタ:それは単なる批判っていうことじゃなくて、自分なりの見立てとかがあったうえでやってることだから。
鹿島:「ディスり」っていう言葉が広すぎるんだよね。だってマキタさんの批評、見立てであって、そこになにがしか本人が「あっ、痛いところ突かれた!」っていうのがあったとしても、それって批評じゃないですか。
タツオ:逆に言うと「目を覚ませ」って言ってくれてるものかもしれないじゃん。
鹿島:それを「やめろ」って言うのはありえないじゃん。
マキタ:あと俺が言われるのは、思い切っていろいろ言うけど…
タツオ:ぶちまけてますねマキタさん、同業者から「マキタ、それ言うなよ」って言われませんか?
マキタ:俺はあの人もこの人も全部ディスりでやってますから(笑)
タツオ:アハハハハッ!
マキタ:ディスりっていうそんなペラいものじゃないですよ。もっと奥行きのある考え方に基づいてやっていることです。ただ俺が、たとえば佐野元春さんとか誰々さんとかをやるときに、結構壮大な批評コラムみたいなものが俺にはあったうえで作ってるから。
タツオ:対象のことを熟知してるわけだもんね。
マキタ:熟知というか、対象のことに関していろいろ自分なりに研究してみた結果、こういう見立てが考えられますということから、こういうネタをやってますということを、たとえば漫談を語ったあとにネタに入るみたいな。そういう態度があるでしょ。そういうロジックの組み立てが。そういう感じで普段からなにかを批評的な態度で言ったりすると、「面倒臭い」って言われるんですよ。その「面倒臭い」も引っ掛かっていて。「えっ?ここから結構面白いところなのに…」っていう。
タツオ:アハハハハッ!マキタさんは「面倒臭い」って言われちゃうんだろうなぁ。俺らよく言われちゃうもんな。
マキタ:言われるでしょ?
鹿島:「面倒臭い」ってことはそれだけ手間をかけているってことでしょ?
マキタ・タツオ:そういうこと。
鹿島:見て考えて表現してるってことでしょ。
マキタ:そこをさ、PK!タツオ!お話しましょうよ!許可局なんてもともとそこをやってたんだからさ。
鹿島:言ってみれば「批評は面倒臭い」ってことと同じですよ。
マキタ:そう、そう。
タツオ:ただマキタさんは話長いけどね。
マキタ:ちょっと待って。まだ話は終わってないから。
タツオ:アハハハハッ!
マキタ:俺は言っとくけど、笑いか笑いじゃないかみたいなことで、そりゃ笑いは最大の批評だとは思うけど、だけど自分にとって笑いじゃないものにいこうとすると、「えっ?もう面倒臭い」って線を引くのって全然つまらなくなる。一方、笑いによる均質化というか、なんでもかんでも笑いにならないと、すごい速度でちゃんとオチにいって、みんなで笑えましたというものが正しくて、あとはもう面倒臭いものに入れちゃうっていう態度が許せないんですよ。だってそれは笑いじゃない先にだって、なにかもっと批評的な面白い豊かなことがそこに眠ってるかもしれないのに、すぐ「面倒臭い」という。それは笑いによる均質化の問題だと思うんです。なんでもかんでも笑いで、笑いだけじゃ語れないよ!笑いだけじゃ語れないことっていっぱいあるんだけど、それ以外は認めませんとか、「俺が笑えなかった」「私が笑えなかった」みたいな。「だからアウトです」みたいなジャッジとかさ。つまんねえなって思うよ、俺はつまんねえなって思う!
タツオ:アハハハハッ!
鹿島:マキタさんは「これはディスりだよ」ってあえて言ってるけど、でもその分だけ「これはなんだろう?」というざわざわしたものをいろいろ考えたうえで、マキタさんなりの表現方法で。それは人によっては曲にしたりとか文字にしたりとかいろいろあるじゃないですか。それは面倒臭いに決まってるじゃん。手間暇かけてるんだから。それが「面倒臭い」でシャッターを降ろされると、それがもったいないなと思うよね。こんな楽しい遊びはないのに。
タツオ:本当そう。
鹿島:もっと言うと批評、論評をしないっていうもう一つの見立てだと、やっぱり批判されたくないのかなっていう。「お前なに言ってんだ、間違ってるよ」みたいな感じで。それが怖いのかな。でもマキタさんはそれをやっちゃうわけでしょ。「なんだよそれ」って言われても。そういうマキタさんを見てて、自分独自のオリジナルな見立てとか論評を、なんだろう、荒立てたくないとか。それで黙っちゃう、というか静かにしちゃうのもあるんじゃないかな。いや、どんどんやればいいんですよ。それで「それはやりすぎだよ」とか「なるほど、こういうやり方で来たか」とか。そこからの話じゃん。「やるな」っていうことや「ウザい」っていうのはもったいないなと思うんですよね。
タツオ:「アイデアや意見」と「人」っていうのはイコールではないということが前提に立てていないから、どこかの段階で、たとえば大学までの教育のすべてのミスだと思う。
マキタ:フフッ。
タツオ:すべてのミスだと思う。
鹿島:デカい話になってきたな。
タツオ:それは本当に痛感する。大学で教えてて。たとえば真理の前で人は平等だし、ここでは個人の勝ち負けとか、論破とかじゃなくて、なにが知りたくてどういうアプローチをして、どういうデータを得られたのかっていう話をするべきだし、「このアプローチだと知りたいことが知れないからこういうやり方はどうなんだ?」とかをはっきり言うことも全然OKなわけよ。っていうかむしろそれが国際基準だと思うんだけど。「このやり方だと限界がある」ということが人格批判だと捉えられてしまうし、そう思っちゃう人がかなり多いのよ。「これを思いつけなかった自分は馬鹿にされてる、今。ムキーッ!」っていうのが「話噛み合わねえな」っていう。だから「意見=人」って思っちゃってるから。その意見自体を否定することが「人格を否定された」とすり替えられちゃうの。「そういうつもりじゃないんだけど…」って言っても「だってそう言ったじゃん!」みたいな感じになっちゃうから。「これはどこで間違えたんだ、教育?」っていつも思っちゃう。
鹿島:やっぱり快不快の2つの両極だけになっちゃうと、よくわからない感情とかもどこか大切にしとかないと極端に走っちゃうよね。
タツオ:立ち止まって考えることの面白さってなんで感じてないんだろうなと思うのね。もしかしたら面白い批評とか評論とかなくなってしまっているのかもしれないんだけど。
鹿島:そうなると逆に許可局や僕なんかはニヤニヤしてしまうんですが。
タツオ:アハハハハッ!
鹿島:「じゃあ独占させていただきます」と。
タツオ:まあね。たしかにそういうのないもんね。たとえばお笑いに関しても、結果ウケたかウケてないかが重視されちゃうんだけど、スベったとして、なにを狙ったのかということをもっとみんな考えていいんじゃないかと思うの。たとえば大昔のことですけど、南海キャンディーズがM-1に出たとき、結果として優勝できなかった回なんだけど。「ネタ2本やっちゃったね」って言われて減点されてしまったときがあったんですよ。でもそれってネタを2本やることのなにが悪いの?ウケる前とかやる前とかは確実に一段目でウケて、さらにギアをアップして2本目にいこうっていう狙いがあったかもしれないし、それが成功してたらそのやり方は褒められてるじゃん。だからそれって単なる印象論でしかないなって。だから論評というか、日本のお笑い批評ってまだここなんだってすごく痛感した。
マキタ:日本のお笑い批評な、たしかにそうだ(笑)制作者の意図というかね。創作した側の意図まで考えようっていう態度がないよね。
タツオ:ない。だから「試みは評価できるけど表現力が足らなかった」みたいな表現が全く見当たらないじゃん。どの記事にも。「これを狙ってこういうシステムを敷いたけど結果それに見合う効果は得られなかった」ということが全然書かれてない。ウケたかウケなかったって全然どうでもいいわ。
鹿島:あと「どれだけ良い人たちなのか」とかね。そっちばかりに走っちゃうよね。
タツオ:良い人かどうかもうマジでどうでもいい(笑)
マキタ:ぺこぱ現象ね。
鹿島:「こんなに苦労した」とかね。
マキタ:でもお笑いが一番印象批評がしやすいもんね。
タツオ:もう本当に横行してる。大問題ですよ。
マキタ:そこまで深く考えようっていう感じでお笑いを見ている人なんてほとんどいないわけだからね。
タツオ:俺からしたら音楽でもまだ批評って成立してるなって思うのね。なにを狙ってどういうアレンジにしたかとか、この楽器を使うことでこういう印象をもたらしたとか、批評の言語が存在してるの。あと本来言語ではない音楽というものの雰囲気を紙面で伝えるために音楽を語る言語というものが発達しているわけ。俺なんかは聞いたことがないけどライナーノーツを見てるだけで爆笑できるんだよ。知らない言葉ばっかりで。「〇〇はメロウな~~を使ってハイブロウな云々」みたいなさ(笑)「それ、どういうこと?」みたいな。「こういう言語が発達していて、知ってる人のなかでは頭のなかで再現できるようになってるんだな」と思ってるんだけど。
マキタ:イタズラに言葉で遊んでるだけだよ(笑)遊ばせてくれ。
タツオ:でもそれは全く野球を知らない人が「タッチアップが~」とか言われたり、お相撲がわからない人に「前みつ取って~」とかと全く同じだからね。
マキタ:テクニカルタームというかね。技術的なこととかは共有されているのは残っているからね。
タツオ:あとは雰囲気ね。メロウとか。
マキタ:アンビエントとか。
タツオ:アハハハハッ!
マキタ:「アンビエントなギターが~」っていうやつとかライナー見てると結構ありますね。でももはや音楽も怪しくなってきてるけどね。
タツオ:あっ、そう?
マキタ:そもそもCDというパッケージで売られているものがあるからライナーノーツとか活字を読む習慣があったけど、もうそれもないので。
タツオ:発達して衰退してるじゃん。
マキタ:かろうじてはあるんですけど、リスナーの人たち、その消費する側の人たちのほとんどはもう必要としなくなってるね。
タツオ:そうなるとアーティスト本人のインタビューになっちゃうよね。
マキタ:なってます。
鹿島:ファンブックですね。
タツオ:俺は「作家の言葉なんて信用するな」という前提だから。そんなの自分にうっとりするに決まってるじゃん。
マキタ:それはタツオ、本当にまさしくそう。嘘ばっかりついてるんだよ、そのときの気分で。
鹿島:だから俺たちは許可局のファンブックを自分たちで作るべきだと思う。
タツオ:アハハハハッ!
マキタ:あとアーティストのことで言うと、基本的にあの人たちはうっとり八兵衛だから、うっとりしてナンボみたいなところだから。
タツオ:歴史の改ざんし放題じゃん。
マキタ:基本的に嘘ばっかり言ってるから。
鹿島:もう嘘ともわかってない可能性すらあるしね。
タツオ:そう思い込んじゃってね。厄介だよ。
マキタ:それがアーティストだから。
タツオ:でも野球選手の本人登場とかさ、レスラーが本人直撃インタビューとか、全部同じことだから。「本人がこう言ってるんだから間違ってないだろう」っていうのはおかしな話なんだよ。
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