宇多丸『ナイトメア・アリー』を語る!【映画評書き起こし 2022.4.22放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。          

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:                 
さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、日本では3月25日から劇場公開されているこの作品、『ナイトメア・アリー』

(曲が流れる)

2017年製作の『シェイプ・オブ・ウォーター』で第90回アカデミー賞作品賞や監督賞に輝いた、ギレルモ・デル・トロ監督の最新作。1946年のウィリアム・リンゼイ・グレシャムの小説『ナイトメア・アリー 悪夢小路』を原作に、野心にあふれ、ショービジネス界で成功を掴んだ男が、思いがけないことから人生を狂わせていく姿を描く。主人公のスタンを演じるのはブラッドリー・クーパー。さらにケイト・ブランシェット、トニ・コレット、ウィレム・デフォー、ルーニー・マーラ、ロン・パールマンなどなど、豪華キャストが集結いたしました。今年の第94回アカデミー賞でも、いろんな各部門にノミネートもされておりました。

ということで、この『ナイトメア・アリー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多め」。まあね、ギレルモ・デル・トロ作品ね、みんな見ますもんね。賛否の比率は、「褒め」の人がおよそ8割。

主な褒める意見は、「ギレルモ・デル・トロ監督の新境地。本作では人間こそがクリーチャーとして描かれており、その行く末に最後まで目が離せなかった」「ケイト・ブランシェットとブラッドリー・クーパーの演技対決が見もの」「猥雑で神秘的な舞台や撮影にうっとりした」などがございました。

一方、ダメだったという方の意見。「途中からオチが見えてしまった」「悪くはないが同じ原作を扱った(1947年の)『悪魔の往く町』と比べると落ちる」などがございました。

■「この映画自体が見世者小屋であり、悪夢小路なのですね。それはまるで……」

代表的なところをご紹介しましょう。「レインウォッチャー」さんです。

「総論として、デルトロ氏の新たな一面を見たようで、とても楽しめました。序盤~中盤にかけて、主人公スタンの表情はハットの影に隠れています。ようやくのぞく顔も、何かしらの秘密を抱えているようでありつつ、どこか所在なさげな印象が強いですね。彼の目が爛々と自信に輝いてくるのは中盤以降、読心術ショーという天職を見つけてからです。

彼に限らず、同僚となったサーカス団の面々は自らの芸の裏側の“手口”を誇らしげに、滔々と語ります。それは鮮やかで魅力的、興味をそそられる世界です。そこでわたしはふと、わからなくなりました。どこまでが娯楽で、どこからが罪と呼ばれるのか。娯楽とは結局はまやかしで、“引き際”を常に慎重に見定めねば、演者も観客も阿片のように中毒になり得る。それほど人の心は奥が知れず、不定形で、深いということ。これまで数多の幻想物語を手がけ、多くの場合、異界のサイドに立って観客を魅了してきたデルトロ氏らしからぬ教訓…とも思えたのですが、前作『シェイプ・オブ・ウォーター』で外的評価が確かなものとなった彼なりの“ケジメ”だったのかも…なんて考えていました。

デル・トロの新作!ときいてわたしたちが抱く期待、そしてそれを煽るように巧妙に全体像をぼかした予告編の作り。この映画自体が見世者小屋であり、悪夢小路なのですね。そうした、まるで鏡面のごとく磨き上げられた黒に映る姿は、“もっともっと過激なものをくれ”と見世物小屋に、獣人(ギーク)が鶏を食いちぎる様を見たさに餓鬼のように群がっていた群衆の姿と同じかもしれません。いずれにしてもデルトロ氏のキャリアの中で異色な作品に見えますが、根っこの部分では変わらない彼の意外と(?)真面目な物語論のようなものに触れることができますし、10年後振り返ったときに今作がどのような位置付けになっているか興味深いと思います」というレインウォッチャーさん。


あと、ちょっと省略いたしますが、「Cherry」さん。ネイサン・ジョンソンによる音楽が素晴らしいとか、いろいろ書いていただいて。ケイト・ブランシェットとブラッドリー・クーパー演じるスタンと精神科医リリスの対決が、最高にしびれました、と。「監督がインタビューで“このふたりならキング・コングとゴジラになってくれると思った”と話している記事を観て、なるほどこの映画はサスペンススリラーでありながらやっぱり怪獣映画なのだと納得」って(笑)、こんなのもいただいています。

あと、「板さん」。この方は、「私は臨床心理士の資格を持っており、人から相談を受ける仕事をしています。本作は、言葉や物語で他人のこころを動かす行為全てが、本質的に持っている罪深さを描いていると感じ、とても刺さるものがありました」と。で、いろいろ書いていただいて。「現代で“科学的”とされている心理学の諸理論も、大なり小なり“仮説構成概念”が含まれる、虚構の“物語”です。そのため、理論のフィクション性に自覚的であることが、臨床場面ではとても大切です。スタンの失敗は、ピートが警告したように、自身の言葉を過信して虚実の区別がつかなくなったことであり、臨床現場や教育現場でしばしば見られる光景です」って。面白いですね。これの意見もね。

一方、ダメだったという方。「ロヂャー」さん。「ままずは劇場で本作を鑑賞して大きな感銘を受け、興味を持って前回の映画化作品である『悪魔の往く町』を観てみました。そしたら、正直コチラの方が圧倒的に素晴らしく、残念ながら相対的に『ナイトメア・アリー』は霞んで見えてしまいました」と。でですね、いろいろ書いていただいて。「主人公スタンが流れ着くフリークショーが、ゴージャスな美術に凝りすぎて、うらぶれた場末感が失せてしまったのも痛いですが、前作で最も恐ろしかった……」。これ、私も後で言おうと思ってた。

「終盤でスタンがパトカーのサイレンの……」。この方は「幻聴を聞いて」って書いているけども。そうともわかんないところが怖いんだけどね。「……自分を取り巻く現実がP・K・ディック的に瓦解してしまうくだりをオミットしたのは理解に苦しみます。もちろん圧倒的なクォリティの秀作であることは揺るがないものの、これはデル・トロが自分の嗜好で染め上げたベツモノの作品であり、ストレートにこの話の勘どころを汲み上げた前作のほうが、この話の映像化としては遥かに優れていると言わざるを得ません」というロヂャーさんのご意見。はい、ありがとうございます。皆さん。

「成り行きが予想つくからこそ、面白い」タイプのお話。デル・トロ監督のアレンジはいかに?

ということで、私もですね、『ナイトメア・アリー』、ようやくTOHOシネマズ六本木と、バルト9で見てまいりました。

ということでですね、日本でも劇場公開から1ヶ月以上経つしね。アメリカ本国では昨年12月公開、結構時間が経ってるし。何よりですね、観客も、あとはもっと言えば登場人物も、薄々であれお話全体の向かう方向は、なんとなく、予めわかっているタイプの……つまりですね、頭ではわかっているのに、運命めいた見えない力、これは要は「物語」というものなんですけども。その物語によって、結局は抗えないまま、負の方向へとどんどんどんどん引き込まれていく、という。そんな、文字通り悪夢的な感覚を堪能するタイプの作品なので……いわゆるその、因果応報的なお話なので。

今夜のこの時評でもですね、物語の顛末やディテールに、ある程度は触れようと思います。つまり、それで面白さが減じるどころか、むしろ、「成り行きが予想つくからこそ、面白い」タイプのお話なんですね。「こうなるだろうな、っていうところに着地していくから面白い」話なんですよね。でですね、これ、アメリカではカルト的に有名な原作小説とか最初の映画化というのに、ギレルモ・デル・トロがどのような解釈、アレンジを加えたのか?という、そこの点にこそ今回の2021年版の『ナイトメア・アリー』の、再映画化のキモがあることも間違いないので。どうしてもその、細かいところにちょっと触れざるを得ない、ということで。ご了承いただきたいと思います。

ということでですね、諸々の概要、ご存知ない、という方のためにざっくり基本情報をお伝えしておくと……まず、アメリカ本国では1946年に出版された、ウィリアム・リンゼイ・グレシャムさんという方による小説、『ナイトメア・アリー』。これ、日本語に訳せば「悪夢の小道」っていうことですかね、というのがありまして。これ、デル・トロ曰くですね、映画としてはノワール、フィルムノワールというジャンルがありますけども、「映画としてのノワールが確立する前に、まず、小説としてのノワールが先にあったんだ」と。で、この『ナイトメア・アリー』はまさにその代表作のひとつである、というようなことをデル・トロは言っている。

で、どういう小説かっていうと……全編が、タロットカードになぞらえて進行していく。章立てが、タロットカードごとになってるんですね。で、前半が見世物小屋の世界で、後半が都会の上流階級の世界の中での、ちょっとコンゲーム的な犯罪物になっていく、っていう、この構成は映画と同じなんですけど。で、途中ですね、精神分析理論……当時としては非常に新しかったろう精神分析理論が大幅に引用されていたりとか、あとですね、スタンの、その主人公の内面の流れを、句読点なしでバーッと描写していく、という、当時としてはかなり実験的であったろう文体、みたいなのが入ってきたりですね。

まあ、その情け容赦ないラストの切れ味を含めてですね、手法的にも、あとその描かれている内容、倫理的にもですね、今読んでも、めちゃくちゃ攻めている。当時だったらかなり過激だったであろう、というような面白い小説ですね。これ、日本語訳が、今回の映画化タイミングで早川から出た柳下毅一郎さんの訳、そして扶桑社からは矢口誠さん訳、ということで2つ、出ているんですね。あと、Kindleでは山田貴裕さん、この方の訳のもあって。3つ、いま同時に出てますけどね。急に3つも出ているという。

とにかく、このウィリアム・リンゼイ・グレシャムさんという作家自身がですね、まるで本当に『ナイトメア・アリー』のスタンそのままの、結構数奇な、そして不遇な人生を歩んだ人で。これ、めちゃくちゃ面白いんで、詳しくはですね、サーチライトピクチャーズ定型の、例によって非常に充実した劇場パンフで、先ほど言った柳下さんと矢口さん、翻訳された両氏による対談などで、これが詳しかったので。これを参考にしていただきたいです。これもすごい面白かったですけど。

ともあれ、その1946年の小説はすごく売れて。翌1947年には、『グランド・ホテル』で知られるエドモンド・グールディング監督で、あとその、本作で非常に大胆なイメージチェンジに挑んだ……それまでは非常に陽性のね、ちょっと何ならアイドル的なイメージさえあったスター俳優、二枚目俳優のタイロン・パワーの主演で、最初の映画化があったと。で、これもね、映画も、リアルタイムの評価はちょっと微妙だったようなんですけど、後に次第にカルト的な評価を高めていくような作品で。これ、日本ではリアルタイムでは劇場公開されなくて、2000年代に入ってからかな? 『悪魔の往く町』という邦題で、ようやくソフト化されて。あと、一部で上映なんかもされたという。結構後になるまで、日本では見られなかった作品なんですね。

で、もちろん1947年当時のハリウッドというのはですね、「ヘイズ・コード」という、描写とかの、倫理的に非常に厳しい規制があった時代なので。一番わかりやすいところで言うと、ラストのラストに、文字通り「取ってつけたような」、ハッピーエンドとまではいかないけど、まあ半端なフォローというか、「後味中和展開」が足されているんですね(笑)。まあ、当時の観客も、わかっていたとは思うんですよね。「ああ、ここは足されたのね」っていうのは、わかると思うんですけど。まあ、それはもちろんその、時代的な限界の部分ではあるんですけども。

■デル・トロ監督はこの話をどう語るのか? 前半はいわば「立身出世編」

ただですね、先ほどのパンフで、柳下さん、矢口さんの対談でも指摘されていた通り、実は今回のデル・トロ版『ナイトメア・アリー』も、特に大まかな構成、展開などは、やっぱりこの1947年版の映画を引き継いでいるところが、非常に多いです。特にですね、原作のラストにはない、主人公スタンが己の運命を悟り、「自ら受け入れる」、その哀しさ、皮肉さ。これは1947年版の、一大発明の部分だし。これ、タイロン・パワーが、一世一代の力演を本当にしています。非常に強烈な印象を残すところ。で、今回のブラッドリー・クーパー演じるスタンも、もちろんそれを踏まえているんですね。

ただ、実はここ、ラスト。セリフがちょっとだけ、しかし決定的に変わっている。それによって、1947年版とは違う、デル・トロ版ならではの味わい、というのに実は繋がっているので。これは後ほど、終わりの方で言ってみたいと思います。あとですね、ひとつだけ、1947年版で何気に最も衝撃的な瞬間。これ、先ほどのロヂャーさんのメールにあった通りですね。今回の2021年版には、それがないので。それはね、描こうとしている力点が違うので、ないのはないので仕方ないとは思うんだけど、47年版の描写に衝撃を受けた身としてちょっと残念なところは、たしかに1ヶ所、ある。

何かというと、クライマックスで、主人公のスタンがですね、精神科医のリリス・リッター博士に詰め寄るところ。1947年版は、迫っている時にパトカーのサイレンが鳴り出すんですね。「通報したのか? お前、裏切ったな!」って言うと、リリス博士はなんと、「……何も聞こえないわよ」って! 博士が、要するにスタン自身に「あなたはもう、狂気に陥ってるの」って思い込ませるために、嘘を言っているのか、それとも、本当に幻聴なのか。この描写だけだと、観客にも判断がつかないんですよ。で、そのまま話が進んでいくんですね。これ、めちゃくちゃ見ている側も不安になるし、ものすごく後を引くんですよね。

先ほどのロヂャーさんもおっしゃっていた通り、映画の中の「リアル」のラインが、途端に崩れるっていうか。「えっ、何が本当か、もうわかんない!」みたいな。これが1947年版の、非常に鮮烈なところでしたね。一番すごいところだと思います。ぜひこれ、ソフトも出回っていたりするんで、皆さん見ていただきたいですが。

ではですね、そういうところはなかったりするんだけど、今回の2021年版、デル・トロは、どのようにこの物語を語り直したのか?というとですね……先ほど「大まかな構成とかは1947年版を意外と受け継いでいたりもしているよ」なんてことを言いましたけど、とはいえ同時にですね、これはもうド頭、出だしからして既にですね。もうデル・トロ、「オレは今回、この話をこう語るよ」というですね、デル・トロ印が、強烈に刻印されてますね。もう出だしから、全然違うっていえば違います。

これ、原作小説でも1947年版でも、主人公のスタンは、最初から既にその見世物小屋一行の一員で。最初からもう、既に働いてるんですね。もう最初から(カーニバル一行の一員として)いるところから始まるんですけども。今回の2021年版は、まず、現実とも幻想ともつかないタッチで、主人公のスタンが、過去の人生と……ラジオと腕時計以外は、過去の人生と決別して。それで流れ者となる、というところから始まるんですね。なんでその「現実も幻想ともつかない」かというと、やっぱりその、家がボーボー燃えてるのに、結構近くで炎が燃えてるのに、なんかこう、全然それを気にする節もなかったり。

あとはですね、丘の向こうで、自分の家が燃えてるわけです。そこの前をスタンが歩いてくるんですけど、このショットはですね、先ほど(番組オープニング)から言ってるDU BOOKSから出ているアートブックによると、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』という、有名な絵がありますね。あの森田芳光さんの『わたし出すわ』でも、印象的に使われている絵ですけども。あれ風に描かれている。つまり、やっぱりちょっと人工的、ちょっと不自然な感じがする。「現実なのかな?」って感じがする画に見える。

事程左様にですね、今回の『ナイトメア・アリー』は、やはりこれ、デル・トロ印ですから、当然のように、計算し尽くされた美術であり、衣装であり、照明であり、撮影などによって、全てが……先ほど、(金曜パートナー)山本(匠晃)さんも言ってましたね。全てが暗示に満ちた、全てがはっきりした意図に基づいて作り込まれた、緻密に構築されきった、非常に人工的な世界なんですね。もう非常に人工的な世界。それゆえに、最初から最後まで、まさしく悪夢の中にずっといるような感覚、というのに満ちた作りになってるわけですね。

なので、あのカーニバルの作りがゴージャスすぎるっていうんだけど、要は現実の見世物とかカーニバルとは、ちょっともう違う域なんですよね。これね。で、冒頭からまるで、夢遊病のように外の世界に彷徨い出てゆく、この主人公のスタン。それがいつしか導かれるように、見世物小屋、カーニバルに向かっていくわけですけど。彼が何者なのかとか、この時点では、我々観客にはわかりません。なぜなら、彼自身もそれを見失っている段階、っていうことですね。彼自身、アイデンティティを見失っている段階。で、それを示すかのように、このスタンというキャラクター、主人公にも関わらず、冒頭から10分ぐらい、ロクにセリフがないんです。しゃべらない。

人とコミュニケーションしてるところでも、言葉をしゃべらない、「しゃべれない人なのかな?」と思うぐらい、しゃべらない。それがだんだんね、彼は後に、非常に饒舌な人物になっていくわけですけど。要は、彼がアイデンティティを再構築していく……つまり、自分の「天職」たるしゃべり芸を身につけるまで、が前半といえますね。見世物小屋パート、いわば「立身出世編」ですね。彼が、その得意技を見つけて、自分のアイデンティティを再構築していくまで。なので、前半はちょっと、言っちゃえば青春物的なニュアンスさえあるわけですよね。何者でもなかった若者が、何者かになる話、とも言えるわけです。

■全編にわたって顔を出す円や丸のモチーフ。それが暗示するのは……「逃れられない運命」

しかしですね、物語的な皮肉は、実はここにも既に仕組まれているんですね。さっきから言っているように、冒頭、ずっとしゃべらなかった主人公スタンがですね、初めて自分から、言葉で話しかける相手……皆さん、思い出しください。誰だったでしょうか?……ってことなんですよね。はい。ということで、つまり、後にしゃべってしゃべって、偽りの自分を作り上げていった彼が、ついにその虚飾を全て引っぺがされるまで、本当の自分に向き合わざるを得なくなるまで、というのがこの話だとするならば、彼が最初に言葉を発してコミュニケートする人は誰か?……つまり、そこに戻ってきちゃうわけですけど。言葉を発する前のところまで。(スタンが最初に話す相手が)誰だったか?っていうことを考えれば、ちょっとぞっとしますよね。

事程左様にですね、これ、冒頭からずっと既に……そして全編にわたって、なんですけど、主人公スタンの「結局は逃れられない運命」がですね、本当に暗示されまくってるんです、画的にも話的にも。というのが、まさに今回の2021年版の、作劇的な特徴といえると思います。で、最も注目すべきはやはり……これは皆さん、見る時は必ずここに注目ください。「円」のモチーフ。輪っか、円のモチーフ。とにかく全編が、円、丸、輪っか、あるいは曲線で満ちた作品なんですね。言うまでもなくそれは、この物語、作品全体が「円環構造」、閉じた輪の中にいて、結局その輪の中でグルッと回って戻ってきちゃう話ですよ、っていうのを示してるわけですよ。

それこそ、スタンが見世物小屋の方に導かれるようにフラフラ向かっていくその先、まず観客の目につくのは、クルクル回る観覧車ですよね。その後も、ファンハウスの円筒型の道であるとか、目玉であるとか……メリーゴーラウンドも出てきます。あるいは、懐中時計ですっっていうときの(画としての)輪っかであるとか。とにかく円の……あるいはエノクというホルマリン漬けになった胎児、あれの一つ目であるところとか。とにかく、まさしく枚挙にいとまがないんです、この円のイメージは。

で、後半、舞台がですね……前半はそういう、言っちゃえば映画でいえば『フリークス』とか『見世物』みたいな、そういうフリーク・カーニバルの世界なんですけど、後半、舞台が都会の、非常に洗練された上流社会に移って。それまでわりと赤とかが多かった世界が、黒とゴールドに包まれた高級空間……その中で唯一、モリーというルーニー・マーラが演じる彼女だけが、カーニバルの色、赤を背負っているわけですけども。

黒とゴールドに包まれたその高級空間になってからも、これ、まずそのインテリアが、全体にアールデコ調で徹底されていることもあって、デザイン的な「丸」から、スタンは逃げられていないんですよ。後半もね。どこに行っても「丸」なんです。特に恐ろしいのは、このスタンとモリーが読心術ショーをやっている、あのラウンジ。スタンがしているこの目隠しがまず、エノク風の一つ目だというのも、非常に不吉ですが。あそこの場面、皆さん、パッと映ると、天井が、丸くくり抜かれた円筒状のデザインになってます。

これは完全に、前半あの見世物小屋で、観客が「彼」を見下ろしていたあの縦穴を、裏返したデザインになってるんですね。つまり、スタンはどこまでも逃れられない。「なんならお前、今も同じだからね」っていうことですよね。それがデザイン的に示されてる。恐ろしいですね。これらが全て意図的なものである、ということもこれ、DU BOOKSから出ている『ギレルモ・デル・トロのナイトメア・アリー』というこの本に、詳しく書かれてますね。メイキングアートブック。

ということで、全編で、本当に作り込まれた悪夢的世界が堪能できる一方でですね、そのケイト・ブランシェット演じるリリス博士、あとリチャード・ジェンキンス演じる大富豪エズラ・グリンドルというね、それぞれとの直接対決を、スタンがして。それを、そのスタンが自分の才能でその彼ら(との直接対決)を制する、というですね、言っちゃえばスリリングな見せ場、まあピカレスクロマン的なカタルシス、エンタメ性というのも、これはきっちりあったりする。これ、ちなみにあのグリンドルとの対決は原作にもあるんだけど、よりその納得しやすい展開に、アレンジされていたりもする、というね。ちゃんと悪漢小説的な形でもあったりする。

あとはやはりその2人、リリスもグリンドルも、よりはっきり……原作よりも、1947年版よりも、はっきり禍々しい、スタンなど比べ物にならない闇を抱えた、言っちゃえばソシオパス的なキャラクターとして描かれている、というところも、いま作るならこうだろうな、というバランスになっていて、やっぱりいいと思います。何よりですね、その、霊感商法的なものですよね。「偽りの救いを示す」ということがなぜ罪深いか、というのを、対善人、対悪人、両面からはっきり示してみせている、っていうのは非常にえらいし、意義深いことだと思いますし。

あと、いきなりゴアなバイオレンス描写が出てくるのもね、「今の映画」ならではの、ナイススパイスだと思います。

■最終的な着地はドロリとした気持ち悪さ。まるで日本の『ドグラ・マグラ』みたい

そしてですね、誰もがその深いため息とともに、「ああ、やっぱりそうなるよね……(泣)」と納得せざるを得ない、あの皮肉で哀しいラスト。もちろん1947年版をさっき言ったように引き継いでるんだけど、これ、1947年版では、前半で同じセリフが出てくるんです。それと対になる、「Mister, I was made for it」っていう……「旦那、それは私の天職です」っていうようなことを言う。「Mister, I was made for it」。これが前半の「天職だ」っていう言葉と、対になってますね。それが今回は、「I was born for it」って……「そのために生まれてきたんです」っていう。

1947年版のような、前半のセリフと対になるような脚本のうまさ……1947年版は全体的にそこが上手いんです。「こことここのセリフが対になってる」っていうところがすごく上手いんですけど、(今回の2021年版は)そこはちょっと後退したかもしれませんが……エンドロールで出てくるのは、さっき言ったホルマリン漬け胎児のエノク、その胎児のドアップ!からの、最終的にそのエノクの、頭の中に入り込んでいく、っていうね。なんなら、全てが彼から見た夢、胎児が見た夢なのか?っていうような終わり方すらする……ということを考えると、今回の「旦那、私はそのために生まれてきたんですよ」「そう生まれついたんです」は、より逃れようのない宿命、運命性を強く感じさせるセリフになっていて。より陰惨な、よりドロリとした印象を残す、気持ち悪い着地になっていて。

言ってみれば前半は『フリークス』的な感じ、後半は都会を舞台にしたノワール、犯罪物、と来たけど、最終的に残るこの、ドローッとした、その命そのもの、自分の命そのものが呪われてる、気持ち悪い!っていう感じ……この救いのなさ、出口のなさ、個人的には、日本の『ドグラ・マグラ』みたいだ、と思った。『ドグラ・マグラ』みたい、今回の『ナイトメア・アリー』は。その意味で、明らかにこの2021年版『ナイトメア・アリー』はですね、やはりデル・トロならではの、とてつもなくおどろおどろしい独自のノワール、というテイストを、ちゃんと作れてる作品だと思います。

超常的な現象とか存在、直接的には出てこないけど、言っちゃえば今回は、世界全体が怪物的だし。最終的に自ら「あっち側」に行っちゃう話、と取れば、『シェイプ・オブ・ウォーター』とも相似形をなすエンディング、とも言えますよね。

とにかくそんな感じで、非常にお金のかかった、ウェルメイドなエンタメでありながら、これだけ後味が……本当に後味が悪い! こういうことが作れる立場って、なかなかないので。デル・トロ、やってくれたんじゃないでしょうか。私、個人的には、デル・トロの中で結構……『パンズ・ラビリンス』を越えて一番好きなやつになった、ぐらいかもしれないですね。ということでこれ、非常にゴージャスな作り、スクリーンいっぱいで堪能していただきたいので、ぜひぜひ劇場でやってるうちに、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 現在、ウクライナ支援の募金のため、強制的に宇多丸が1万円を自腹で支払いガチャを2度回すキャンペーン中(しかるべき機関へ寄付します)。一つ目のガチャは『カモン カモン』、そして二つ目のガチャは『ハッチング -孵化-』。よって来週の課題映画は『ハッチング -孵化-』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

ツイート
LINEで送る
シェア
ブクマ