宇多丸『ウエスト・サイド・ストーリー』を語る!【映画評書き起こし 2022.3.4放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。          

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宇多丸:           
さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、2月11日から劇場公開されているこの作品、『ウエスト・サイド・ストーリー』

(曲が流れる)

1957年に初演、1961年にはロバート・ワイズ監督が映画化したブロードウェイミュージカルを、スティーブン・スピルバーグ監督が再び映画化。1950年代のニューヨーク、再開発に向けて取り壊しが進むマンハッタンのウエストサイドを舞台に、ヨーロッパ系移民グループ「ジェッツ」の元リーダー・トニーと、敵対するプエルトリコ系移民グループ「シャークス」のリーダーの妹マリアの、許されない恋の行方を描く。

トニーを演じるのは、『ベイビー・ドライバー』などのアンセル・エルゴート。マリア役は、約3万人のオーディションから選ばれたレイチェル・ゼグラーさん。この方、魅力がすごかったですね。歌もうまかった。第94回アカデミー賞では、作品賞、監督賞、アニータ役のアリアナ・デボーズの助演女優賞など、計7部門にノミネートされております。

ということで、この『ウエスト・サイド・ストーリー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多い」。賛否の比率は、褒める人が6割ちょっと。ああ、そんぐらいか。主な褒める意見は、「かつての名作を現代的にアレンジしており、新たな名作に仕立てあげている。スピルバーグ、お見事!」「撮影・美術・ダンス・音楽と全ての要素が一流」などがございました。

一方、ダメだったという方の意見は、「よくできてるとは思うが、今これをスピルバーグがリメイクする意味が分からなかった」「61年のロバート・ワイズ版からアレンジしたところがうまくいっておらず、逆によさを消してしまっている」などございました。「またパンフレットは高額だが、買って損なし」という声も多かった。パンフレットに関しては、この前のオープニングトークの部分でもお話しさせていただきました。

■「本当に、本当に、こんなに美しい映画をありがとう

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「ホリーグリーン」さん。

「私にとって、初めての『west side story』が今回のスピルバーグ監督版であり、本作鑑賞後に1961年版も観た上で感想をお送りします」。他のバージョンは知らなかったということで。

「華やかな“Mambo”や“America”に心躍り、愛する人を見つけた喜びに共感し、差別や争うことの愚かさに哀しみ、ずっと感情を揺さぶられっぱなしで、仕事も手につかず、恋に落ちたみたいです。公開して2週間程度ですが、すでに3回も観に行ってしまいました。特に、脚本を担当したトニー・クシュナーについて、どれほど感銘を受けたのか表現しきれません。彼が登場人物一人一人に、オリジナルの舞台に愛情と敬意を持ちながら、新たな設定を与えたことで、物語に深みが増したと思わずにはいられません。

特にチノについては、彼の描写を細かく入れることで、なぜあのような行動を取ったのか説得力を持たせており、チノに関する脚色については、誰もが素晴らしさを認めるところではないでしょうか。トニーにしても、刑務所にいたこと、過去の自分と決別したい人物と設定することで、彼が起こしてしまった事に対し、マリアを傷つけてしまったというだけでなく、これから真っ当に生きようと決意していた青年の未来が変わってしまったという悲劇も加わって、彼の涙に胸が張り裂けそうになりました。リタ・モレノ演じるバレンティーナの設定は、トニー・クシュナーのパートナーのアイデアだそうですが、女性達の目立つシーンが多い点は、現代に合った素敵なアレンジだと思いました。

本当に、本当に、こんなに美しい映画をありがとう、と心の底から感謝を捧げます。パンデミックが収束したら、ニューヨークでオリジナルの舞台を観るという希望を見つけました」というホリーグリーンさんです。

一方、「コンサルコアラ」さん。

「ミュージカルファンの私ですが、今作についてははっきりと否です。良いシーンもあるものの、舞台版や過去の映画を踏まえてわざわざスピルバーグが今改変を加えてまで作った意義に疑問を感じました。中でも一番の不満点は、失礼ながら主役のトニーが魅力的でないところです」ということですね。ちょっと端折らせてもらいますが、パッと見てあんまり魅力が伝わる感じじゃなかった、というようなことを書いていただいて。

「もう一点残念なところは、設定変更や演出のせいでWSSのテーマが分かりにくくなってしまっているところです」と。で、これもまたちょっと、すいません省略しますが、いろいろと書いていただいて。「アニータのキャラクターがむしろ単純化されており、またトニーと顔見知りになり二人の恋を応援するという重要なシーンも削除されているせいで、物語の悲劇性が緩いものになってしまっています」とか。あとはですね、あのエンディングに関しても、ちょっとヌルッとなっちゃってるんじゃないか、ということを書いていただいていますね。

「アニータ同様、憎しみに振り切れそうになるマリアが、それでも誰を撃つこともなく、またジュリエットのように恋人の後を追うこともなく、サムホエアを実現するための困難な道を歩き出すという、本来であれば極めて意義深いラストシーン。この心情の動きや祈りが、あまり強調されなかったように思います」という。ただこれね、ラストに曲として「Somewhere」をマリアが歌うっていうのを、違う曲に変えているんですけども。なんで変えたか?っていうのも、先ほどの(番組オープニングトークでも触れたパンフレット代わりに販売されている)メイキング本に理由が書いてあったりするので、そういうのでやっぱり納得度が高まって見ると、ああ、これはこれで!って思えたりしないかな、という気もしますけどね。はい。コンサルコアラさんもありがとうございます。

あとですね、これもちょっと大幅に要約しながらにさせてください。「スピルバーグ主義」さんからいただいていて。基本的には大絶賛されてます。その中で「しかしトニーを演じたアンセル・エルゴートの性的暴行疑惑は宇多丸さんも触れざるを得ないトピックではないかと思い、私もメールに書かせていただきます」ということで、こんなことが書いてあって。

「まずTwitterなどで目立つ批判として、彼が未成年に手を出した性犯罪者で性的暴行も行ったということ、スピルバーグやスタジオが彼を降板させて再撮影しないこと、公開前のプロモーションで彼が表舞台にあまり出てこないことなどが見受けられます。私もこれを機に詳しく疑惑の内容を記した英語記事などを読んだところ2014年に20歳の彼が17歳の告発した女性と関係を持っていたものの、ニューヨーク州では合法であり、彼が告発に対して一部事実を認めた上で暴力などには反論をし、その後にも前にも告訴、警察の捜査などは行われていないということが書かれていました。またWSSの撮影も告発より前に終了していたとのことでした。

もちろん性被害を矮小化したり、告発した勇気を蔑ろにしたりするわけではありませんが、現状我々が知り得ることは上記のように彼が疑惑を否定したという部分までですので、彼を有罪であると決めつけてその周囲の人々にまで批判を向けるという姿勢の方々には釈然としません」というようなことを書いていただいてます。

スピルバーグ主義さん自身も、人格とアートを切り離せ、みたいな考え方ではないけども、確度が高い情報、判決などに基づいた言論と責任が求められるのではないか? なので、「今回の彼の疑惑については現状では距離を置いて静観するしかないのではと考えております」というようなことを書いていただいています。これ、すごく正論だとも思います。ありがとうございます。この点もちょっと紹介させていただきました。

■ここ20年ぐらいに見た今の映画群の中で、一番「立派な映画」!

はい。ということで、皆さんメール、ありがとうございます。ちなみに、どうしてもこの件が引っかかっちゃって。さっきのCMに入る前に言った、リフが銃を買うところのやり取りは、要するにリフがイキって「いや、コルトならいじったことあるぜ。32口径」つっていて、おじさんが「コルトは22口径しかないよ」みたいなことを言うんだけども……「いやいや、1950ウン年の段階で、コルトは別に22口径も32口径も38口径も45口径もありますけど? リボルバーで!」って思った次第です(笑)。はい。そんな話でした。

ということで、『ウエスト・サイド・ストーリー』、TOHOシネマズ日比谷と六本木で、私も2回見てまいりました。『ウエスト・サイド・ストーリー』についてはですね、元となった舞台がいかにミュージカルとしての金字塔となっていったのか、という歴史的経緯であるとか、特にレナード・バーンスタインによる作曲がいかに周到な構想によって作られているのか、といったあたりについては、当番組2月2日に、音楽ライター・小室敬幸さんによる例によって解像度高すぎる解説特集をやっておりますし。あと、ダンスに関してはね、先ほど(金曜パートナーの)山本匠晃さんのウォッチメンもチラリとありましたので。そちらも素晴らしかったですね。どちらもその、音楽の中身とか、ダンスについては、そちらを参照していただくとして。

とにかく、1957年初演、アーサー・ローレンツ原作、レナード・バーンスタイン作曲、スティーブン・ソンドハイム作詞、そしてジェローム・ロビンス演出・振付による初演のブロードウェイミュージカルと、それを1961年にロバート・ワイズ監督で映画化した日本タイトル『ウエスト・サイド物語』。それらがすでに、古典中の古典、ポップカルチャーの巨大なアイコンと既になっている中、ここに来てなんとスティーブン・スピルバーグが再映画化、ということで。

最初にこの話を知った時は僕も正直、「えっ、なんで今さら?」と思ってしまった部分もあるんですが。結論を言ってしまえばですね、スピルバーグはやっぱり、本当にすごいな!っていうか。すごい映画を作ってみせたな、という風に私は思っています。

もちろんですね、前述したように元のブロードウェイミュージカルや1961年のロバート・ワイズ版の、革新的な、偉大な達成があったからこそ本作も存在しているんだから、はっきり言って「どっちの方が偉い」とか、そういう問題ではない、というのはもちろん念を押しておきたいあたりだけど。ただ確実に、特に1961年の映画版の持っていた時代的な限界、というのをはっきり意識的に乗り越えようとして、それこそその『ロミオとジュリエット』を雛形にした物語が本来持っている、現代的にして普遍的なポテンシャルを最大限引き出してみせた……要は古典的名作を完全にアップデートして、改めてもっと名作にしてみせた!みたいな。そんな、僕は圧倒的な一作と言っていいと思うんだけどな、今回のスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』は。

とにかく、ものすごく「立派な」映画だと思います。撮影、照明、美術、衣装、振付……もちろん演者たちの技術や存在、技量や魅力、全てが一体となった、総合芸術としての映画としてのパワーというところで、僕は正直、ここ20年ぐらいに見た「今の」映画群の中で、一番「立派な映画」だった、っていう言い方をしてもいいぐらいな風に思ってますけどね。火曜パートナーの宇垣美里さんもしみじみ、「映画、うまっ!」って言ってましたけど。もう、まさにそうでですね。「スピルバーグ、映画作るの、うまっ!」ってことを改めて思い知らされるような、本当に堂々たる……「どこに出しても恥ずかしくない」っていう言葉がありますけど、「どこの時代に出しても恥ずかしくない」、堂々たる映画だ、という風に私は思います。特に2度見て、味わい尽くした時はすごく思いました。

■登場人物の社会背景をリアルに掘り下げ、『ロミオとジュリエット』型悲劇の本質を深く抉っていく

でですね、パンフがちょっと特殊な形で、メイキング本という形で売られていて、っていうような話もさっきしましたけど……今回のその『ウエスト・サイド・ストーリー』はですね、セットを多用して、一種抽象化された、デザイン化された、シャープな物語空間の切り取り方が印象的だった1961年のロバート・ワイズ版。まさにそのデザイン化とか抽象化こそが、ロバート・ワイズの……あるいはあの、最強にかっこいいエンドロール。あの1961年版が絶対的に勝っているところは、エンドロールですね。あの、死ぬほどかっこいいエンドロールなどをデザインしたソール・バスの、「1960年代的なセンス」とも言えるとは思うんですけども。

とにかくその抽象化・デザイン化が特徴の1961年版に対して、今回のスピルバーグ版は、お話の歴史的背景であるとか、それぞれのキャラクターの社会的立場というのを、より「リアルに」掘り下げて、先ほどから言ってる『ロミオとジュリエット』ベースの悲劇の本質というのを、より深いところまでえぐってみせている、という作品だと思います。で、ここはね、先ほどメールにもありましたけど、脚色のトニー・クシュナーさんの力量がすごく大きいのかもしれませんね。スピルバーグで言うと、『ミュンヘン』とか『リンカーン』とか、わりとヘビーな実話物をやってますよね。歴史物というか。

でですね、まずこのスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』、オープニングで示される物語全体の前提。これがまず、強烈に効いているんですよね。今回ならではのアレンジです。どういうことかと言うと、舞台となる、1950年代末なのかな、たぶん原作が書かれて、そして初演された時期ぐらい、と思っていいと思います。舞台となるニューヨーク・マンハッタン・アッパーウエストサイドが、リンカーンセンター……今もリンカーンセンター、ありますけども、リンカーンセンターとして再開発されるということがもう決まっている、という。なので、旧市街はもう、根こそぎぶっ壊されまくっているわけです。もう、廃墟みたいになっているわけですよ。なんか、爆撃とかされた後みたいになっていて。

トニー・クシュナーさんも、「まるで爆撃の後のような」っていうのを(脚本に)書かれていたりする。そんな、廃墟だらけなんですね。つまり、劇中で描かれる人種間、民族感とかの縄張り争い……その縄張り、コミュニティーそのものが、そのロバート・モーゼスさんという有名な方による都市開発によって、根こそぎ破壊され、跡形もなくなりつつある、というような。あの「America」っていう曲で、街の人が映る時に、街の開発に対する抗議活動をしてますよね? あれのプラカードの中にやっぱり、「ロバート・モーゼスに反対!」みたいなことが書いてあったりするんですけど。なので、ある意味ヒップホップ文化が誕生していく歴史的な流れの、結構根っこにもあるような部分なんですけど。

なので、再開発で街が根こそぎ変わっていくというか、破壊されて、少なくとも貧乏人が住めるような街じゃなくなっていく。で、たとえば白人不良チームであるジェッツ側ですね……リーダーのリフを演じるマイク・ファイストさんは、50年代の不良少年の写真を見て研究して、で、最終的にスピルバーグに止められるぐらい体重を落として。ガリガリになってるわけですよ。あと、着てるものもジェッツ側は、はっきり言ってちょっとなんか、貧相なんですね。なんかボロボロだったりとか、パーティーに着てきている服も、ちょっとなんかあんまりお金がかかってない感じだったりする。

ということで、要は白人チームはひたすら貧しい、大人の庇護・愛を受けられずに育った子たち、というのが、ビジュアル的にも示されていたりする。あのコリー・ストール演じるシュランク刑事に、「最後の負け犬白人」みたいなことも言われてましたよね。で、実際にその街も、元はアイリッシュとか白人移民の街だったのが、今はどんどん他のプエルトリコ系移民とかに押されている……というのは、冒頭、彼らのいたずらで、看板をバーンって取ると元はアイリッシュパブだったのが見える、そういうのでさらりと説明されているわけですよね。

だからもう完全に、いわゆる有色人種チームに押されているわけです、白人移民チームが。なので、そんな感じでちょっと要するに、かわいそうな子たちなんですよね。あれはあれでね。非常に差別的なんだけど……これ、だから現在の差別の構造とも近いかもしれないですね。白人の人たちは差別する側なんだけど、彼らは彼らで、要するに「俺たちこそ被害者だ」みたいな意識があったりするわけですよ。なので序盤、彼らが歌うその「Jet Song」というグループの歌。あるいは中盤、一見コミカルな「Gee, Officer Krupke」っていう曲があったりします。

この2曲とか、ねえ。(『Jet Song』は)ノリノリな感じで、街を闊歩しながらやるんですけど。で、歌詞もそのままなんですけど、彼らがその、親とかコミュニティーから見捨てられた存在で、だからこそ身を寄せ合って守りあって、拠り所を求めてイキって……でも、イキり散らかして「これがジェッツの縄張りだ!」っつってるんだけども、もうなんでもない、誰もそんなところに行きたくないよ、っていうところで縄張り争いしてる、みたいな。というのが、切なく響くようになっているわけです。

だから、こんな明るい曲調だけど、悲しい歌なんですよ、すごくね。ヒップホップ、ギャングスタラップとかの悲哀に近いものがある、という感じがします。あと、まさにこの歌っている「Jet Song」の締めの部分で、「ここが俺たちの縄張りだ、イエーッ!」なんていうんだけど、立ってる場所は、廃墟なんですよ! だから、「こんなところを守ってどうするんだ?」っていう……威勢よく言ってるけど、廃墟。威勢はいいけど、悲しい。こんなニュアンスがあるわけですよね。

■ほとんどすべての場面でふたつの異なる異なる対立概念が置かれている

ということで、事程左様にですね……今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』は、もちろん元の『ウエスト・サイド・ストーリー』の話に内包されているものなんだけど、今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』は特に、全ての場面、全ての歌のシーンに、表面上のトーンとは対照的な、異なる、また別の真実であるとか、あるいは対立していたり、矛盾する二つの概念であるとか、とにかく「二つの異なる要素同士の緊張関係」っていうのが、ほとんど常に、対比的に置かれてるわけです。全てのシーンに。それが実は、大きな特徴になってるんですね。「白人と、プエルトリカン」「貧しい人々の地を這うような生活と、トップダウンの都市開発」、あるいは「子供と大人」、あるいは「男と女」もありましたね……あそこの、アニータが暴行されかける場面とか、まさにそれが浮き彫りになりました。

あるいは「シスジェンダーとトランスジェンダー」という構図もあります。あるいは「加害者と被害者」「暴力と愛」「今と昔」……あと、教会の中で、今夜彼とエッチしちゃうわよ、みたいな(想像に胸ふくらませている描写には)、「聖(セイント)とセクシャル」なものという、その対比もあったりする。とにかく、ありとあらゆる対比的な二つの概念の対立、軋轢、矛盾……憎しみと愛、この構図。それが、全てのシーン、全ての歌に埋め込まれているので。ちょっと、これをよく見ながら味わっていただくと……二つの対立概念がくっついたり離れたりぶつかり合ったり、っていう、そういう話なんだと思って見るとこれ、感動が何倍にも大きくなりますので。全ての場面が本当によくできている。「これが映画だ!」という感じで、その二つの概念というのを見せてくる。

でね、ジェッツ側の話、白人少年たちに話をちょっと戻しますと。今回のバージョンはなんと言っても、さっき言ったようなジェッツ側の生い立ちの哀れさ、というのをですね、主人公トニーも背負っていて……というか、トニーこそが最もそれを背負っている、というバランスで描かれてるわけで、それがものすごい効果を上げている。これ、1961年版のトニーはやっぱり、好青年っていうか、優等生的にすら見える感じですけど、そうじゃなくて、やっぱりあんだけ元リーダー、元リーダーって言われるぐらいで、一番のワルな道を歩いてきた人なんですよ。

それだけじゃなくて、それを本当に後悔してるし。つまり彼は、単なる好青年じゃなくて……恐らく、なんならこれまでの人生、なーんにもいいことがなかった。希望なんか持ちようがなかった青年なんですよね。仲間に寄り添う以外に……仲間同士、互助で守り合うために他者に暴力を振るうとか、そんなことぐらいにしか生き甲斐を見つけられなかった人。だからこそ、マリアと出会って恋に落ちたということは、彼の人生に訪れた唯一の、「いいこと」なんですよ。「はじめていいことが起こった」って言って喜んでいるんですよ。だから「Something's Coming」って、「いいことが起こるかも」っていう……もう、そこから悲しいのよ。彼には、いいことがなんにもなかったのよ、という。もう僕、ここだけで泣きそうなんですけど。

■キャスティング、カメラワーク、振り付け、衣装、美術……申し分なし!

で、そんなトニー像を、アンセル・エルゴートさん、ベビーフェイスでありながらも図体は異常にデカい、というこのバランスね。喧嘩させたら強そうだけど、泣くと赤ちゃんみたい、っていう、その感じを見事に体現されてましたよね。対するプエルトリカン側、描き方が今回はもう段違い、っていうのはこれ、皆さんもおっしゃっている通りです。1961年版の時代的限界の最たるものですが、非当事者キャスティングっていうね。ラテン系でもないし、あとは「黒塗り」ですね。黒塗りで演じていて。これは完全に今、アウトですよね。で、今回はそのラテン系キャスティングをしていて。もちろん、先ほど言った冒頭のジェッツとの対決シーンから既に、たとえばプエルトリコの昔の革命歌だったという、「La Borinqueña」っていう歌を歌うくだりが加えられていたり……その移民文化へのリスペクト、みたいなものが強く打ち出されているし。

まあ、その有名な「♪America~」のシーン……ちょっと(実際に曲を)かけようか。「America」という曲のシークエンス。この曲こそが、そもそもその、対立する二つの概念を対比、その両者を内包する……「対立する概念、その両方を内包してるのが世界なんだ」っていうのを歌った名曲なわけですけど。今回はこの曲を歌っているところが、白昼のストリート。さっき言った都市開発の反対デモなんかも背景に織り込みつつ、コミュニティ全体を巻き込んだ、まさに移民の国アメリカそのものを、「批判しつつもセレブレイトする」ような、最高に愉快だけどものすごく深みもある、圧倒的なシーンになってたりするわけです。

これ、撮影監督、名手ヤヌス・カミンスキーさんによればですね、1961年当時はやっぱり、パナビジョン70ミリというでっかいカメラで撮ってますので、カメラをそうそう動かせないわけです。それに対して今回は、技術革新でやっぱり、ばんばんカメラを動かせる、っていうことで。ダンスシーンの躍動に合わせてカメラが動かせる、っていう。同時に、1961年当時のフィルムのルックにも近づける、という努力もしてて。なので、実際この「America」のシーンなんかは、テクニカラーかな?って思うぐらい、本当にクラシカルな風格もある華やかさがあって。

プラス、そのジャスティン・ペックによる今回の振付……あのアリアナ・デボーズさん演じるアニータが、超最高で。あのボクシングのくだりとか、最高ですよね。衣装も美術ももう、申し分ない!というね。あと、プエルトリコ人側で言うと、メールにもありました、チノのキャラクター……今回、ジョシュ・アンドレスさん演じるチノが、単なる引き立て役ではなく、彼は彼で未来ある好青年だった、という深みと敬意を持って描かれているのも、本当に素晴らしい。

忘れちゃいけない、1961年版でアニータ役を演じていたリタ・モレノが、バレンティーナという役で出てますけど。彼女は、白人とプエルトリコのカップル夫婦だったわけですね。つまり、「トニーとマリアが無事に結ばれていたら、ある種こうなっていた」先例として(存在している)。で、トニーの代わりに彼女が「Somewhere」っていう、「どこかに居場所がある」という歌を歌うことで、人種・民族対立の解消という、より大きな、歴史的な視点を持ってこのメッセージが響くようになっていて。これも素晴らしい改変。あと、アニータがジェッツの面々に暴行されそうになるところで、彼らのガールフレンドたちとも……立場が異なる女性同士、ある種共鳴して、はっきり性暴力へのNO!を突きつけてみせる。こういう場面になっているところも、素晴らしいアレンジじゃないでしょうか。

■『ロミオとジュリエット』型悲劇の本質を鮮やかに浮き上がらせた、素晴らしいリメイク!

あと、プエルトリコ人描写という意味で言えば、マリアが働いている場所。「I Feel Pretty」のところが決闘の後に置かれていて、ちょっと皮肉さとか悲劇性を増している、だけではなく、職場が(1961年版のブライダルショップから)「デパート掃除」になってるわけです。これによって、よりまた皮肉度が増している、っていうのもあったりする。また1961年版と違って、歌はほぼ、吹き替えじゃなくて本人たちが歌ってる。場合によっては、リアルタイムの撮影で歌っている感じ。こういうのも効果を上げてるし。

あと、他にね、この場面がよかったって(話で言うと)……たとえば「Maria」から「Tonight」に至る、トニーがマリアに会うまでのところで、要するに金網とかはしごとか、檻のように見える障壁を彼がいくつも乗り越えていく、という、その映画的段取りを増したアクション。これによって、やっぱりこの出会いの困難さと美しさが描かれている、とか(※宇多丸補足:実際に放送された番組ではこの後のブロックでも、ダンスパーティでマリアとトニーが初めて出会うくだりでのフレアを多用したヤヌス・カミンスキーの撮影や、『観客席裏側に移動』という映画的アレンジの見事さ、マリアのアパートの前にある水たまりが非常に効果的に使われていることなど、まだまだ話は続きました!)。

あと、決闘の取り決め場所。今回はトイレだけども、後半の死体置き場と同じタイルが使われてて。死を招く約束なんだぞ、っていうのがそこで出されてたりとか。とかね(※宇多丸補足:ちなみに実際の放送ではこの後フォローしましたが、これはさすがに、パンフレット代わりに販売されているメイキング本を読んで初めてわかったことです!)。もう「ここがよかった、ここがよかった」なんてことを言っているときりがない。もう全場面、言っていきたい。

とにかく、さっきから言っているように、二項対立をさまざまな角度から映画全体に埋め込んだ上で……本来なら自由であるはずの人間の魂同士の結びつきが、社会的存在としての人間の業のごとき分断と、それゆえの視野の狭さから来る判断の誤りによって、まさしく致命的な事態を招いてしまう。人生最良の出来事であったはずのものが、同時にあらゆる悲劇の始まりとなってしまう。この恐ろしいほどの残酷さ。でも同時に、だからこそ、そんな世界の中に咲くからこそ、愛とか希望とか他者の結び付きは尊いんだろう、というような、そんなことを浮かび上がらせてみせる……だから『ロミオとジュリエット』型の話として一番大事な部分、本質を、(元から)この話はものすごく実は内包してたけど、それを今回のスピルバーグ・バージョンは、ものすごく鮮やかに浮き上がらせているんですね。

ということで、もう場面場面の演出がいかに見事か、の話とかしたい。本当に、映画として見事ですね。演出も見事ですね。なにもかもが。はい。ということでぜひぜひ皆さん、これは映画館でやっているうちに。劇場で見ていただきたいと思います。素晴らしいリメイクだったと思います! 

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『愛なのに』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

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