宇多丸『ラストナイト・イン・ソーホー』を語る!【映画評書き起こし 2021.12.17放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。  
 

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 宇多丸:  
さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、12月10日から全国の劇場で公開となったこの作品、『ラストナイト・イン・ソーホー』

(曲が流れる)

最近もね、Netflixの『レッド・ノーティス』でこの「Downtown」、使われてましたけどね。使われ方の深みが違うんだよ、全然!(笑)

『ベイビー・ドライバー』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』などのエドガー・ライトが監督を務めたスリラー。ファッションデザイナーを夢見るエロイーズは、ロンドンのソーホーにある専門学校に入学し、1人暮らしを始めた。ある夜エロイーズは、1960年代のソーホーで歌手を目指すサンディの夢を見る。サンディの人生を追体験するようなその夢は、やがてエロイーズの精神を蝕んでいくことになる。

エロイーズを演じるのは『オールド』などのトーマシン・マッケンジー。そしてサンディ役は『ミスター・ガラス』、あとは『クイーンズ・ギャンビット』などなど、アニャ・テイラー=ジョイさんでございます。

ということで、この『ラストナイト・イン・ソーホー』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「とても多い」。素晴らしい!

賛否の「褒め」の意見が8割以上。そしてですね、特徴。10代から20代の若いリスナーの感想が、本当に多い。エドガー・ライトは若い観客に本当に人気がある、ということが再確認された感じでございます。

主な褒める意見としては、「60年代イギリスの音楽やファッションが楽しい」「女性蔑視や性差別などを描きつつ、あくまでエンターテイメント作品に仕立て上げるのがすごい。エドガー・ライト監督の新境地では?」「サンディとエロイーズが魅力的」「撮影や音楽も素晴らしかった」などなどがございました。一方、否定的な意見としては、「やりたいことは分かるが、一部のキャラクターが類型的に描かれ過ぎでは?」とか、あと「展開が強引すぎじゃないか」とか、いろんなものがありましたよね。

■「時間がたってきてからより味わい深さが出てくるような作品」

代表的なところをご紹介しましょう。まずはね、「クレソン山盛り」さん。

「大好きなエドガー・ライト監督最新作『ラストナイトインソーホー』ということで、私も昨日映画館で観てきました。とにかく最高!なんですが、時間がたってきてからより味わい深さが出てくるような作品だと思いました。冒頭の多幸感から、奈落に突き落とされるような恐ろしい展開で、思っていたよりも怖かったという印象です。単なるホラー映画というジャンルで片付けられない、今日的なテーマを描いている作品だと思いました。一番印象に残ったのは、犯人が殺人に至るいきさつと、主人公の母親に対する想いが絡み合い、犯人と、あまり詳しくは語られない主人公エロイーズの母親の心の救済を描いているところです」。そうなんですよね。お母さんの事情、はっきりとは語られないけど。まあ、推察するに、でもまあやっぱり、ちょっと愉快とは言えない事実が、どうもある。

「劇中で何度かサンディに『お前が望んだことだろう?』という言葉が投げかけられることを受けての、終盤での『私はそれを望んでいない』という言葉には、とてつもない重さを感じました。さらにはサンディが、銀髪の男を、あなたもどうせ他の男たちと一緒でしょ?とひとくくりにしようとしたのであろうことも描くことで、双方のボタンの掛け違いをよく表していたと思います。銀髪の男を演じたテレンススタンプはちょっと妖しい雰囲気が素晴らしかったです! また、エロイーズが犯人を助けるかどうかを迫られる場面で、観ている私も、一瞬気持ちが揺らぎそうになったことも印象に残っています」とか。

あとは「ファンタスティックごんぎつね」さん。

「高校時代から楽しく拝聴しております。地方サイレントリスナーでしたが、勇気を出して初メールを送ります」。ありがとうございます。

『ラストナイト・イン・ソーホー』、大大大傑作でした!! 夢に追い立てられた2人の少女の痛々しいガールズムービーであり、青春映画であり、鑑賞後もじっとり恐怖がまとわりつく極悪ホラーでもありました。日常に怪異の迫る様がもちろん恐ろしいのですが、憧れていた、大好きだったものの暗部を突き付けられて絶望する女の子たちの姿が本当に怖くてつらくて……」。そうだよね。その憧れてた世界がそれだったっていう、この酷薄さがさらに重なるからね。

「悲しくて見ていられず、何度も目を背けてしまいました。それでもソーホーの夜はきらびやかで美しく、音楽は陽気。その落差にクラクラします。60年代のショービズ界で女性がどんな目に遭ってきたかは現在、もはやどの作品においても共通の……」。60年代に限らないけどね。今も果たしてそれは直っているのか?っていうところもあるかもしれませしんね。だってね、「#MeToo」が起こるわけだからさ。それはさ。

「……けして美化してはならない時代の一側面です。それでもエロイーズはこの時代のファッショに憧れ、音楽に救われ、生きる希望を与えられてきました。現代シークエンス、女子寮での狂乱のパーティに一切馴染むことができず、布団をひき被ってヘッドフォンで音楽に逃避する彼女の姿を見たら、誰がそれを否定できるでしょうか」。そうだよね。切実にその「ここではないどこか」を求めるっていうのもあるからね。

ということで、ちょっとこの後もいろいろ書いていただいて。「とにかくこの2人が本当に好きになってしまって……」という熱い思いを書いていただきました。

一方、イマイチだったという方もご紹介しますね。「愚鈍なグドン」さん。

「ルックの素晴らしさ、主演二人の魅力など全体的な作品のクオリティは言わずもがなで楽しめたのですが、個人的には少しモヤモヤが残る作品でした。最も引っ掛かったのは、現代パートのサブキャラの描き方です。『感じの悪いいじめっ子』『主人公の理解者であるボーイフレンド』といったような型通りの役回りのキャラクターが、その役割に徹するような扱いでしかないのがどうも残念でした」

「これは、ジャンル映画としての一種お約束であると捉えられると思うのですが、今作がかつて男性に物のように搾取されてきた女性の苦しみや怒りを描いていることから考えると、それらに反する扱いを受けているように感じるのです」という。

要するに、こっちもステレオタイプとして扱っちゃっているじゃないか、という。「加えて、物語中盤から登場し後半に退場するとあるキャラクターがいますが、これが完全にミスリードのためのミスリードになっているのも如何なものか、と思いました」。

僕はやっぱりそのキャラクターの扱いが、まさにグレーというかですね、彼が一体、何を見て何を知っているのかがグレーっていうか、そこが味わいになってる気もしますけどね。要は単にあの人、無実というかね、そういうことなのか?っていうか。わかんないじゃないですか。とかね、そういうちょっと読み取りの余地がすごくある作品ではありますよね。余白が意外とあるっていう。これだけ情報に満ちているのにね。

ということ皆さん、でもメールありがとうございます。すごく面白かったです。どのメールも。

■このコーナーで取り上げるのは初! なエドガー・ライト監督作

『ラストナイト・イン・ソーホー』、私もTOHOシネマズ六本木。そしてシネクイントで、見てまいりました。昨日、ちょろっと話しましたけど、まずTOHOシネマズの方は、公開2日目、週末にしてちょっと寂しい入りだったかもしれませんね。にもかかわらず、パンフが売り切れって、「本当かよ?」と思って。案の定、配給がパルコだったので、シネクイントに行ったら普通にパンフを売ってました、っていうね。

非常に内容的にもこのパンフ、各種解説、インタビュー、充実しております。特に、若干の批判的視点込みで、一歩踏み込んだ解説をしている村山章さん。この番組でもお世話になってます、村山章さんの記事がすごく勉強になりましたけど。とにかく、どうせならね、やっぱりちゃんとパンフを売っている劇場でね、どことは言いませんけども、見た方がいいんじゃないでしょうか。なんて思っちゃいますよね、これね。

ということで、エドガー・ライト最新作にして、なんとこの僕の映画時評コーナー、2008年からやっておりますが、これまで当然、新作がかかればサイコロやガチャの枠に入れ続けてきましたけど、なぜか、どうしても当たらず、本作が取り上げるのは初!になってしまいました。言うまでもなく、過去作にいちいち触れている時間はここではないので、この最新作『ラストナイト・イン・ソーホー』を起点に、その作家性的なものをざっくりと、ちょっとおさらいしておくならば……まず、一番表層のレベルで言えば、まあエドガー・ライトさん、完全にその、タランティーノ以降のサンプリング世代と言いましょうか。

過去のジャンル映画……今回の『ラストナイト・イン・ソーホー』で言えば、たとえばそのロマン・ポランスキーの『反撥』。これ、まさにちょうどこの映画で現出するのと同じ、1965年の作品ですしね。とか、ニコラス・ローグの『赤い影』とか。あとはまあ、『血を吸うカメラ』みたいな、そんな、英国産サイコロジカル・スリラーっていうのかな。それからまあ、ダリオ・アルジェント・オマージュもちらほらありましたよね。『インフェルノ』っていうあのディスコのお店の名前であるとか、まあ赤と青のライトがビーン、ビーンって点滅しだしたりするような、ダリオ・アルジェント・オマージュ。要はいわゆる「ジャッロ映画」、イタリア製スリラーのオマージュもいっぱいありますし。

他にもいろいろね……これね、エドガー・ライト本人が、もうインスパイア元のリストを公表してたりするんですよね。だから元ネタ探しとか、それは別に簡単に、できる人はできる、みたいな状態なんですけど。とにかく、過去のジャンル映画、サブカルチャーを大量にサンプリングし、一瞬メタ的に再構築してみせる、というような、まあ明らかにそういった作り手ですよね、エドガー・ライトはね。

「もうひとつ別のレイヤー」が物語内世界全体を覆っている

特にそのサンプリング、再構築の仕方が、ものすごく音楽的というか、ケレン味たっぷりのカメラワークと編集……だからあの、ダーン! ガーン! ガーン!みたいなものが、リズムで……わかります?(笑) この、カメラがズームでガーン!って寄るのと同時に、何かガーン!って閉まったりして。で、それがなんか立て続けに三連発で、ダーン! ダーン! ダーン!みたいな。それがビートを醸す、みたいな。そういう、それ自体がリズムを刻んでいる音楽、映画自体がもう音楽そのものであるような、そういう独特のポップな文法、というのを確立した人でもあって。その技術、手法が全面展開され、全く新しい形の音楽劇、ミュージカルというのを示してみせた、というのが、作家としてちょっとネクストレベルに行ったなという感じ、2017年『ベイビー・ドライバー』だと思います。

さらにもうひとつ、さっき言ったメタ的再構築というのと深く関係する、本質的な作品構造として、エドガー・ライト映画は、作品内の物語的現実……本作で言えば、トーマシン・マッケンジー演じるエロイーズがいる、現代のイギリス・ロンドンのソーホー地区に対して、その作品内の物語的現実に対して、エドガー・ライト作品は、常にですね、その物語で描かれている舞台となる、まあだいたい結構一定の街とかコミュニティなんですけど、そこに「もうひとつ別のレイヤー」が、その物語内世界全体を覆っている、というような。

本作で言えば、1965年の同じくソーホー地区、というのが、現代のソーホー地区に対する「もうひとつのレイヤー」として、ずっと覆っている、みたいな、そういう構造を持っている。そして、その現実に対する「もうひとつのレイヤー」世界というのは、主人公が抱える社会的、あるいは心理的問題、葛藤を反映する、メタファーでもある、みたいなことなんですよね。ざっくり整理するなら、そういう本質的構造を、エドガー・ライト作品は常に持っている、と言えるという風に私は思っているわけです。

ちなみに、さっき言った『ベイビー・ドライバー』の場合は、主人公ベイビーの視点、つまり、世界の全てを音楽・楽曲を通して解釈・理解しているという、その視点自体が、全体を覆う「もうひとつのレイヤー」になっている、ということですね。やっぱり発想がすごいですね、『ベイビー・ドライバー』はね。

■本作における「もうひとつのレイヤー」は夢を追う若い女性を搾取する「男性優位社会」

ともあれそんな感じで、エドガー・ライト、過去のフィルモグラフィーとも、当然のように連続する要素、構造を持っているこの『ラストナイト・イン・ソーホー』なんですけども。同時に、その「もうひとつのレイヤー」、メタ的な作り、というのをですね、今作においては、現実や過去に対するその批評的視点、冷徹な批評性を込めたものとして、機能させているので。その点ではやっぱり、新境地でもある、っていうことですね。今までよりちょっと、その構造自体が……要するに「楽しいね」とか「好きだねぇ」みたいなことだけじゃなくて、ちょっとそれが批評的構造を持つために、ちょっと距離を、メタ的な仕掛けを作っているという。

そしてそれはですね、本作が、これまでいわゆる「ボンクラ男子」みたいな主人公、彼らのそのホモソーシャルな関係を描くことが多かった、エドガー・ライト作品──ただまあ『ベイビー・ドライバー』は、ちょっとアンチマッチョっていう感じなんで、そこのあたりから若干、変化が見え始めたかなとは思いますが──エドガー・ライト作品初の女性主人公物である、ということと、明らかに関係しているわけですね。まあ企画そのものは10年くらい前からあったもの、ということですけど。やはり、その『ベイビー・ドライバー』後、2017年の「#MeToo」ムーブメント以降のエンターテイメントにおいてもですね、その過去に対する批判的な見直し含め、急激にアップデートされていった意識、作り方や受け手の意識というのも当然、ここと無関係ではないはずですよね。

で、前半までね、トーマシン・マッケンジー演じるエロイーズは、極めて無邪気に、スウィンギング・ロンドンと呼ばれていた1960年代の英国カルチャーに憧れているわけです。これはエドガー・ライト自身がまあ、そういう人らしいんですね。60年代英国ポップカルチャーにずっと憧れていた、という。そういう投影でもあるし……いや、60年代英国ポップカルチャーに限らず、そのエンターテイメントやアートを通してですね、なんであれ「ここではないどこか」を夢見る人全て、たとえばまさしく、今の我々の姿そのものとも重なる、という言い方もできると思います。

しかし、たとえばこのオープニングシーンですね、このエロイーズさん、部屋にいっぱい60年代に関するいろんなものが貼られていたりするんですけど、そういうポスターの中でも一際目立つ、『ティファニーで朝食を』と、あとは『スイート・チャリティー』という映画がありますけど、その二作のポスター。これ、本当には……もちろん60年代のかわいいポップな映画っていうそのイメージはありますけど、“本当には”どういう話なのか、みたいな。詳しくはこれ、さっき言ったようなそのパンフの解説とか、なんなら実際に見ればわかることですけど、「かわいい」とか「おしゃれ」とか、そういう表面的なイメージとは裏腹に、特に女性にとってははっきり、ちょっとやっぱりつらい現実、っていうのが描かれた映画でもあって。

ということで、そのバランスは、全編で流れるその60年代英国産ポップミュージック……非常にもちろんね、美しい、楽しい曲。一見、楽しい曲の数々なんですけど。まず、本作のそのポップミュージックの選曲というのはですね、はっきり、要するにロックとかカウンターカルチャー的なものではない。たとえば、その60年代のスウィンギング・ロンドンで言えば、いろんなそのカウンターカルチャー的なムーブメントって、いっぱいあるわけです。で、そこから生まれた音楽もいっぱいあるわけです。ロックとかもね。

あるんだけど、そっちじゃなくて、はっきり芸能界チックっていうか、日本で言えば昭和の歌謡曲界的な、要はこってり水商売の匂いがする世界というか、わりとそっちの方向の選曲をしてるわけです。なので、これもまあ詳しい曲の解説とかまたね、パンフとかに載ってますんで、そっちを参照していただきたいんですけど、とにかくそういう歌謡曲界的なものなので、パッと聞きは明るかったり、美しかったりしても、歌詞自体は実はすごく薄暗い、孤独や絶望を歌ったものが意外と多い。さっきの「Downtown」とかも、なんて寂しい歌なんだっていうか、孤独を歌った歌ですよ、あれは逆にね。っていうことなんです。

つまりこれこそが、本作における「もうひとつのレイヤー」なんですね。一見、華やかな世界。しかし、一皮むけば、そこにはおぞましいもうひとつの現実がある。で、これは何がおぞましいかといえば、本作においてはそれはもちろん、若い女性、わけても夢を抱いて都会、ソーホーにやってきた若い女性を、その夢の成就というのを餌にして搾取するということを、あたかも当然の権利であるかのように繰り返す、男性たち。ひいては男性優位社会、っていうことですよね。

■これを「よくある話」』って済ませていいの?

これ、60年代に限らず、先ほど(金曜パートナーの)山本(匠晃)さんもチラッと言ってました、たとえば現代のタクシーの運転手の、あの目線ひとつ……そしてあのね、車が止まっていて。それ一個を取っても、やっぱり女性が感じる脅威っていうのが描かれている。もちろんですね、ここでいう、「夢を抱いて都会に出てきた若い女性が、男たちに搾取され、堕ちていく」というこの話自体は、「よくある話」かもしれない。「類型的」っていう風に思えるかもしれない。

しかし本作の現代性は、これをですね、「いや、それを『よくある話』って済ませていいの? 『類型的』って言うけど、類型的なのは、女性からの搾取をあたかも当然の権利であるかのように繰り返す、残念ながら現在に至るまで変わらずある男たちのあり方、男たちの作ってきた社会、この性差別的な社会、それが類型的なのは、お前らの問題でしょう? 『堕ちていく』女性側の問題みたいに言うんじゃねえよ!」という風に、それこそジャンル映画が類型的に繰り返し描いてきた「堕ちていく女性」の物語というのを……主人公エロイーズのですね、言っちゃえば「超共感能力」と言いましょうか。

それを通して、女性側の視点から、主観的に問い直す、視点を反転させてみせる。そこにこそ、本作『ラストナイト・イン・ソーホー』の現代性があるし、エドガー・ライトの新境地がある、ということですよね。なので、そのいわゆる「英国紳士」って、全然よくねえ……っていうか、英国紳士、キモいんだけど!っていう。『テッド・ラッソ』のあのチームオーナーの前の旦那、あいつの、もうぶっ殺してやるしかない感じみたいな(笑)、それとも通じるような感じですよね。ちなみにこのエロイーズの超共感能力ね、その時を超えての霊視能力。これ、まさに今日ね、フューチャー&パストに出ていただきます三宅隆太さん言うところの、「人の心」が視えるという意味、正しい意味での「心霊映画」、「スピリット」映画、ということだと思う。

お母さんの姿……お母さんは、本当はロンドンで何があったのか? それは語られませんがね。やっぱりちょっときつい現実があったんじゃないかというのを匂わせる、っていう。でも、それが娘であるエロイーズには“見える”わけですね。そして、そもそもこれ、映画っていうのは、時も立場も超え、時には考え方さえも超えて、他者の目を通して、他者の人生に寄り添ったり、疑似体験するという……映画ってそもそも、このエロイーズの力みたいなものなんですよね。だから、すごく作劇としてもこれは上手いというか、やっぱり我々もすごく共感してしまう作りになっている。

で、恐ろしいというか、やはりおぞましいなと思うのはですね、劇中でエロイーズを悩ませ、追い詰めていく、「顔のない男たち」の幻影というか、亡霊というか、そのスピリットがですね、今年見たなんかに似てるな、と思ったんですよ。ずっとなんか、今年見た映画に似てるな、と思ってたら……5月7日に評しました『SNS-少女たちの10日間-』のあの、「顔のない男たち」。あれ、(現代を映した)ドキュメンタリーですから。思いっきり! 今の現実と! 全く! 地続きだろう!っていうことなんです。

だからやっぱり「よくある話」で片付けるという……その目線のどこかにある、「女性たち、自業自得でしょう?」みたいな目線。そこを、本作のように根底からひっくり返し、問い直す必要が、やっぱりはっきりあるんだ、と思いました、これは。特に、最後の最後まで、あれだけの真相が明らかにされてなお、このサンディを、怪物的、もしくは狂気的には、決して描いてないです、この作品。エロイーズと、本質的には敵対させない作りにしている。これこそ、アップデートされたジャンル映画としての矜持だな、という風に思ったりしました。

■トーマシン・マッケンジーは本作で次世代スター決定!

というのはですね、やはり本作は、トーマシン・マッケンジー演じるエロイーズと、アニヤ・テイラー=ジョイ演じるサンディの、時を超えたシスターフッド物、でもあるからですよね。あの2人の姿が、鏡越しに、あるいはダンスの合間に、はたまた最終的にはカメラを切り返すたびに、交錯したり、入れ代わり立ち代わりしたりする、という。この映像的なクラクラ感。これ、メイキング映像を見るとですね、もちろん合成とかもいっぱい使ってるんだけど、完全アナログなやり方をしているところもあって。それはたとえば、ダンスのところとか、アニヤ・テイラー=ジョイがフッとしゃがんで隠れて、それでフッと入れ替わったりとか。そういう、本当に原始的な撮り方。

要するにそういう、デジタルな合成とアナログのミックスゆえに、現実感覚がより強く失調するような効果を、上手くもたらしてますね。非常にこの映像効果を、見てるだけでも楽しい。なによりも、このさっき言ったエロイーズの共感力が、ついにあの、「壁を突き破る」っていう、すごいショッキングなんだけどマジカルでもあるし、超現実的な場面なんだけど恐ろしく胸に迫るっていうかね……人を思う心っていうのが、ガーンと現実の壁を突き破る、という瞬間。映画でしかあり得ない表現だからこそ、あの瞬間、めちゃくちゃ感動的だと思うんですよね。

あと、トーマシン・マッケンジーがとにかく……アニヤ・テイラー=ジョイが素晴らしいのはもちろんわかってましたけど、トーマシン・マッケンジー、完全に本作で、次世代スター決定!っていう感じだと思います。

(エドガー・ライト)十八番のですね、音楽的編集、凝りに凝った音響演出……たとえばですね、序盤ずっと音は、モノラルなんですね。一方向、前からしか出てこないのが、『007 サンダーボール作戦』の看板も眩しい1965年にエロイーズが足を踏み入れた途端、音がブワーッと、広がっていくんです。急にそこでミックスが変わって、ダイナミクスが変わって、サラウンド的になっていくわけです。そこでこう、世界の「中に入った」感じがするという。

とにかく、そういう一ヶ所をとってみてもそんなぐらいで、エドガー・ライトならではの最先端音演出の数々も、一度では堪能しきれないぐらい、満タンになっています。

あえて言えばその「一度では堪能しきれない」というのにも通じますけど、あまりにですね、いちいちサービス満点、手数がすごく多い、ゆえに、さっきから言ってるような肝心のテーマみたいなところが、少なくとも情報の釣瓶打ちに翻弄されるばかりの初見時には、ちょっと……要するに、あるどんでん返しがあったりするんで、「えっ、えっ? さっきまで思ってたテーマと違うのかな?」みたいな。ちょっと、見えづらくなってる気もしなくはないが。

ただ、やっぱりニ度目以降、見ると確実に情報が整理されてきて、その暗示してる部分とか、バランスを取ってる部分みたいなのがより見えてきて、評価がより確実に上がっていく作品でもある、ということだと思います。

■映画館を出ると、あらゆる都市の向こう側にある「もうひとつのレイヤー」に気づかされる

とにかくですね、最終的にね、過去を美化しない……でも、しないからこそ、真に未来へと継承していく意思を示した、という風に私は解釈しているあのラスト。僕は意外な爽やかさ、と思いましたけど。それを含め……あと、エンドロールね。あの、ひとけのないソーホーの街。あれ、コロナ禍のロックダウン中に撮ったらしいですけども。

どの都市にもこびりついているはずの過去、歴史、その不穏な匂い、みたいな。あらゆる都市の向こう側にある、さっきから言ってる「もうひとつのレイヤー」。だから、映画館を出て、渋谷の街を歩く時の、渋谷にある「もうひとつのレイヤー」に気づかされる、という、そういう作品でもある。だからやっぱり、映画館を出てちょっと世界が変わって見えるっていうか、そういう効果もある作品だと思います。

ということで、お時間も来てしまいました。とにかく、いろんな意味でものすごく面白い試み、そしてすごく意義ある試みをしていて。なんつってもね、単純に、めちゃくちゃ面白い!です。1から10まで。そんな作品だと思います。エドガー・ライト、僕はさらに新境地だと思いますし、最高傑作を更新した、というぐらいに僕は思っております。ぜひぜひ皆さん、できればパンフをちゃんと売っている劇場で(笑)、ウォッチしてみてください! 

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『マトリックス レザレクションズ』です) 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

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