宇多丸、『最後の決闘裁判』を語る!【映画評書き起こし 2021.10.22放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、10月15日から全国の劇場で公開となったこの作品、『最後の決闘裁判』

(曲が流れる)

『エイリアン』『ブレードランナー』『グラディエーター』、あと『悪の法則』などなどなど……もう枚挙に暇がないですが、巨匠リドリー・スコット監督が、エリック・ジェイガーによるノンフィクション『決闘裁判:世界を変えた法廷スキャンダル』──今はもう『最後の決闘裁判』という日本タイトルになってますけども──を原作に、14世紀のフランスで実際に行なわれた最後の決闘裁判を描く。騎士カルージュの妻、マルグリットが夫の旧友ル・グリに乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方はカルージュとル・グリによる「決闘裁判」に委ねられることになる……要は、決闘をして勝った方が神の審判を経て(正しいとされる)、正しい方が勝つ、というとんでもないシステムですけどね。

主な出演は、ドラマ『キリング・イヴ/Killing Eve』や『フリー・ガイ』などのジョディ・カマー、マット・デイモン、アダム・ドライバー、ベン・アフレックなどなどです。マット・デイモンとベン・アフレックは、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』以来、24年ぶりに共同で脚本にも参加していて。まあ、マット・デイモンとベン・アフレックが最初に動かしてきた企画、ということですけどね。

ということで、この『最後の決闘裁判』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「非常に多い」。そして賛否の比率は、褒めの意見が8割以上。主な褒める意見としては「完成度が高く、153分という時間の長さを感じさせない。今年ベスト」「胸糞が悪い映画だが、最も胸糞悪いのはこの映画で描かれてるようなことが現代でもまだ起きていること」であるとか、「83歳で今なお、アップデートし続けているリドリー・スコット監督すごい」などがございました。

一方、否定的な意見としては、「さすがに長過ぎる」とか、「性暴力シーンはそこまで描く必要はなかったのでは?」などがございました。また「映画の出来不出来は別として、性暴力シーンへの注意喚起は必要だった」「PG12というゾーニングは適切ではない」という声もございました。

■「御年83歳にして未だに衰えを知らないその手腕と嗅覚には感服しきり」

代表的なところをご紹介しましょう。「マイケル・J・ホワイ子」さん。

「リドリー・スコット最新作『最後の決闘裁判』をウォッチしてきました。これは間違いなく近年の彼のベストではないでしょうか?

本作はいわゆる羅生門的な三幕構成であり、一、二幕目ではヒロイズムと自己正当化に耽溺するカルージュ、ル・グリ両者の歪んだ視点から見た、決闘裁判までのドラマが描かれています。一方、ジョディ・カマー演じるマルグリットが主役となる三幕目は、現代にも色濃く残るミソジニー、性暴力、二次加害を鮮烈に描き、夫の所有物としてのみ社会に承認されていた女性による『真実』の暴露が行われます。決闘裁判という、男と男が槍同士で争う極めて男根主義な力比べと、被害者であるのに司法からは疎外され、本人の命すら強制的に夫に委ねられるマルグリットの対比は見ていて本当に辛くなります」。これ、まさにクライマックスの構図ですね。

「『エイリアン』や『テルマ&ルイーズ』等、時代に先駆けて独立した女性を描いてきたリドリー・スコット監督ですが、御年83歳にして未だに衰えを知らないその手腕と嗅覚には感服しきりでした。本作の脚本は、出演も兼ねるマット・デイモンとベン・アフレックの親友コンビに、『ある女流作家の罪と罰』などで知られるニコール・ホロフセナーが加わった3人です。またインディマシー・コーディネーターの起用はもちろんのこと……」。この番組でも特集しましたね。その性交シーンとか、そういうセンシティブなシーンに、カウンセリングというか、いろんなバランス取りで入るという、インティマシー・コーディネーター。

「試写時にMeTooグループの目も入れるなど、徹底的に女性目線への配慮がされているということは特筆すべき点だと思います。唯一、文句を付けるとすれば、それはパンフレットがないことです」。私もさっき、オープニングで話しました。「本作のように背景解説なども重要な作品こそ必要であるはずなのに、ありません。とりあえず原作は即ポチしたので読んでみたいと思います」という。ありがとうございます。

でですね、ちょっと全部は紹介しきれない、非常に長いご意見なんですが。非常に勉強になるご意見もいただいておりまして。たとえばラジオネーム「イリス」さん。この方はですね、作品が傑作ということは評価しつつもですね、その性的暴行シーンに関して、先ほどのメールにもあった通りですね。インティマシー・コーディネーターが入ったり、MeToo活動団体の監修が入ったりというところを評価しつつもですね、「やはりこのように露骨に見せるという形以外の方法はなかったのか?」というような問題提起を(されていて)。

これね、要するに、実際の性暴力というのもほぼほぼ目撃者がいない状態で行われる。なので。「あなたがひどい目にあったことを我々、観客は目撃した。だからあなたを信じます」ではなく、「あなたに何が起こったのか我々には目撃することができない。でも、あなたの訴えを聞いて信じます」というアプローチがあり得たのでは?というね。たしかにね、これはなるほどな、という風に思いましたね。

まあ今後のこういうテーマというのかな、今後の性暴力的なものを題材に扱う際の……もちろん、たとえば『プロミシング・ヤング・ウーマン』のような、「見せない」選択で見事にやり切った作品っていうのもありますからね。本作の場合、その「見せる」ことの意味という部分も、後ほどの私の評でも言いますが。たしかにおっしゃる通り、現実のその性暴力というものに対する効果という意味では、たしかにそれもそうだな、という風に思いました。

あと、これもですね、いつもながら非常に構築度の高い評で省略が難しいのですが、「コーラシェイカー」さん、いただいております。ありがとうございます。この方はですね、その第3幕のマルグリットの視点というのが、一応「真実」という感じで出るんですけども、そこにも……要するに「それも鵜呑みにするなよ」というようなバランス取りが実はされているのではないか、という、非常に深い読み解きで。これも本当にうならされましたね。これはこれでちょっと皆さんね、コーラシェイカーさんがどこかに発表したら皆さん、読んでみてくださいね。

一方、ダメだったという方。「深夜高速」さん。

「『最後の決闘裁判』、見てきました。つまらなかったわけではないのですが、二時間半は、長く感じられました。特に第一章は、当時の風習を含めて、丁寧に描いているだけに、もうちょっとテンポが良かったら楽しめたかな?と思わないでも。二章、三章と進むと、これまでの疑問点が解消されることもあって、ぐいぐいと引き込まれて、ラストの決闘シーンは、それまでのストレスが一気に解き放たれ、すっかり興奮して見ることが出来たのですが、さて、終わってみると、この終わり方でOKなの?と思わないでもなかったです」というご意見でございました。

ということで、皆さんありがとうございます。

■製作・脚本・出演はマット・デイモンとベン・アフレック、『グッド・ウィル・ハンティング』コンビ

『最後の決闘裁判』、私もTOHOシネマズ六本木、そしてTOHOシネマズ日比谷で、2回、見てまいりました。それぞれ、あまり大きいスクリーンではなかったこともあったんだけど、わりと入っていた方だと思います。リドリー・スコット新作となればね、見に来る人が多いのは当然かと思いますが。オープニングでも話しましたように、パンフレットがない問題、というのももちろんあるわけですが。これはちょっとオープニング、これは別個で書き起こしとかしてもらおうかな? わかんないけどね。こんな問題もありますが。

でですね、1386年、イングランドとの百年戦争真っ最中のフランスで、実際にあった事件を元にした作品ですね。特にアメリカではこれ、2004年に出版されていた、エリック・ジェイガーさんという方による、この事件を改めて詳細に検証したノンフィクションが原作となっていて。日本語訳もこれ、ハヤカワ・ノンフィクション文庫から出ていて。特に今回の映画版を見た後だと、本当にこれ、スルスル読めますし。百年戦争の歴史もすごい頭に入ります、これ。めちゃくちゃおすすめ! 受験勉強用とかにもおすすめかもしれない。

でね、この事件、やっぱり起こったその同時代から以降もですね、ずっとある種、ワイドショー的にいろんな風評とかが流れてですね。で、それが一部では史実のように扱われ、残されてしまっていたりするんですけども。ネットなんかでもね、割とそういう情報を事実のように扱っているものもちょっと散見されたんですが。非常にこの本が、そこにフェアな検証を加えていたりもするので。なんであれ本作に感じるところがあった方は、ぜひこれ、一読をおすすめしたいです。マルグリット像をこうやって、今の映画みたいに広げたなりの理由、みたいなものが、それなりにあると思います。これを読むと。

でですね、とにかくこのノンフィクションを原作とした映画化権、っていうのがあって、一時はマーティン・スコセッシが監督ということでかなり具体的に動いていたようですけど。まあ、その映画化権が切れて、後に、今回製作・脚本・出演を兼ねているマット・デイモンとベン・アフレック、『グッド・ウィル・ハンティング』コンビのところに来たと。で、重厚な時代物にして決闘物、というのを、この時代一番うまく撮れるのはやっぱりこの人だろう、ということで、監督としてリドリー・スコットに白羽の矢が立ち。なおかつ、特に3幕目、女性の視点で全てが語り直されるというところには、やはり女性脚本家が適任だろうということで、『ある女流作家の罪と罰』とか『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』とかを手掛けてらっしゃる、ニコール・ホロフセナーさんを呼んできたりとかして。

で、当初はマット・デイモン演じるジャン・ド・カルージュと対決するジャック・ル・グリは、ベン・アフレック自身が演じる予定だったんだけど、他の作品とのスケジュール都合もあって、アダム・ドライバーとなって……結果として、ベン・アフレックが演じるね、あのピエール伯爵役。もう本当に最高の最低ぶりというか、はまっていたと思いますが。さらには、一番肝心のそのマルグリット役。

『キリング・イヴ/Killing Eve』、僕も大ファンですけどね。それこそエメラルド・フェネルですよ。要するに『プロミシング・ヤング・ウーマン』のエメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ/Killing Eve』であるとか。あとは『フリー・ガイ』にも出てました。もはや完全に次世代スター間違いなしの、ジョディ・カマーがキャスティングされ。そしてなおかつ、コロナ禍での撮影をし……というような。で、出来上がったのがこの『最後の決闘裁判』なわけですけど。

■明らかにリドリー・スコットにぴったりな題材

ちょっと勝手な読みをするならば、マット・デイモンとベン・アフレック。古くからの盟友同士にして、共にですね、2017年からのMeTooムーブメントの中で、それぞれ、ちょっと株を下げてしまった2人でもあって。いわばこの「14世紀末のMeToo」とでも言うべき本作はですね、彼らにとって、懺悔というか、禊となるような企画でもあるんじゃないかな、という風にも、ちょっと思ったりしましたけどね。

その一方で、前述した通り、マット・デイモンから来た企画ではあるけれども、たしかに本作は、明らかにリドリー・スコットにぴったりな題材でもあるわけですね。

もちろんね、そもそも1977年のリドリー・スコット長編デビュー作、ずばりもう『デュエリスト/決闘者』っていうね。これ、ざっくり言えばですね、極度に執念深い人物に逆恨みされた男が、15年にも渡って、繰り返し不毛な決闘を挑まれ続けるという、もう話してるだけでげっそりするような話なんですが(笑)。それによって、「男の名誉をかけた戦い」などというですね、映画を含めたフィクションではしばしば美化されて描かれてきたイズムがですね、いかにむなしい、バカバカしいものでしかないか、ということを、非常に冷徹に浮かび上がらせるという、僕、大好きな作品ですけど。

まさに本作『最後の決闘裁判』でもですね、特に1幕目、そのカルージュの視点、2幕目、ル・グリの視点という、2人の男同士の状況認識の違い、という部分とはっきり通じるものを、リドリー・スコットは既にデビュー作でも描いていて。実際、マット・デイモンも、この『デュエリスト/決闘者』と対をなす内容とも言えると思って声をかけた、なんてことを言ってるんですけど。

さらに言えばですね、『デュエリスト/決闘者』を含め、リドリー・スコット作品に通底するイズム、テーマとしてですね、僕なりの表現をするならば……一度動き出したらもう止まらない、非人間的な、機械的で暴力的なシステムの非情な作動っぷりを前に、ジタバタする個々の人間たち。それを通して、特にキリスト教圏の西洋人が抱きがちな虚妄を、近代インテリ視点から、知的に、厳しく、時に極度に意地悪に暴いてみせる……というような構造というのが、リドリー・スコット作品には実は常にある、という風に私は思っていてですね。

たとえば、そのシステムの中にいる限り、実は最初から全てが「詰んで」いたんだと。「これ、最初から、ハナから詰んでたじゃん! どうしようもなかったじゃん! 出口とか解決なんかなかったんだ!」と気づく、言ってみれば「絶望を悟る」瞬間っていうのが、いつも用意されていたりするわけですけども。その意味で今回の『最後の決闘裁判』はですね、まずなにしろ決闘裁判という制度自体がですね、まさに「一度動き出したら止まらない、機械的かつ暴力的システム」そのものなわけですし。まあ、そこで争われる、名誉だの面子だのの虚しさ加減、というのもさっき言った通り、『デュエリスト/決闘者』と完全に通じるあたりだし。

なおかつ今回はさらに、やっぱり封建主義っていうもの全体も、まあ一個人にとってはまさにその「最初から詰んでいる」……もう、抵抗しようもないわけですから。「詰んで」いるシステムとしてのしかかっても来るわけだけども……今回は、さらに1歩踏み込んでですね。第3幕、そうした、要は男たちの権力システムのもと、真に犠牲を強いられた側、つまり女性の視点へと、視点が反転することで、「いやいや、男の所有物として、そして跡継ぎを生むための装置としてのみ扱われる私たちにとってこそ、最初から『詰んで』いる……お前らの父権主義社会こそが、私たちにとっては全体に『詰んでいる』システムなんだよ! 女である時点で『詰んでる』じゃん、これってさ」みたいな。そういう話。

セクシズムにとらわれた社会、世の中全体にまで、射程を広げてみせる。それこそ、さっき言った『デュエリスト/決闘者』とか、リドリー・スコット作品で言えば非常にヒロイックな決闘シーンが出てくる『グラディエーター』とか、その他全てのですね、それこそ「女子供を守るため」と称するような、「男の誇りをかけた戦い」の物語を、批評的に相対化してしまうような読み換え、読み直しをしてみせている。そういう、なかなかにすごいことをやってのけている一作だと思いますね。この『最後の決闘裁判』はね。

■『羅生門』の構造を使いながら、実は『羅生門』を批判している

で、そのための語り口として持ち込まれているのが、先ほどから(タイトルが)出てます……これはマット・デイモン自身、リドリー・スコットを企画に引き込む際にはっきりと参照元として非常に熱く語っていたという、1950年、黒澤明の世界的ブレイク作ですね、『羅生門』の構造なわけですね。一応、改めて説明をしておけば、要はあるひとつの事件、性的暴行事件と殺人事件なんですけど、あるひとつの事件に対して、3つの異なる視点からの「真相」が語られていく。まさしく芥川龍之介の原作のタイトル通り、「真実は『藪の中』」という話なんですけど。

で、「『羅生門』のような」とか「『羅生門』型の」みたいな風に言えば、今でも完全に話が通じるほど、そのストーリーテリングにおけるひとつの型を確立した、まあ古典中の古典なのはもちろん間違いないんですけど。ただですね、これはやっぱり、70年前の作品だから仕方ないと言っていいことなのか、性的暴行を受けた女性、これ、京マチ子さんが演じておりますが、その描かれ方がですね、やっぱり今の感覚からすると、正直その、弱い存在として描くにしろ、「実は強い」存在として描くにしろ、いずれにせよ、あくまでやっぱり、男性から見た女性像、言っちゃえば「女ってやつは……」的な視点なんですよね。

「犯された女というのはこう」みたいな、男から見た視点であって。やたらと連発される「俺にはわけがわからねえ」を一身に担わされているのは、その「女性なるもの」であるようにも思えるというか。でね、「俺にはわけがわからねえ」って、『藪の中』って言うけども、いや、ひとつはっきりしてるのは、性的暴行があったってことははっきりしてるでしょう? なのに、なんかそれをこう……なんか相対主義的なところに落とすっていうのはこれ、どういうことなの?っていう。ちょっと今の視点で見ると、そう思う方がやっぱり多いと思うんですけどね。

その意味で本作、この『最後の決闘裁判』はですね、その『羅生門』の構造を使いながら、実はその『羅生門』批判というか、批判的継承というか、それをしている作品でもあると思うので。マット・デイモンたち、もちろんね、そこを明言はしないと思いますけど……はっきりその意図というか、ビジョンとしてはあったんじゃないか、と僕は思います。

たとえばそのひとつの表れが、第3章、3つ目の視点、マルグリットの視点、女性側の視点になる時だけ、(字幕で)彼らにとっての真実って出ていたのが、最後にその「真実」(という言葉)だけが浮かび上がる……っていうのは、これは僕、たぶんその元の『羅生門』みたいな、「相対化という思考停止」に逃げ出させないぞ、っていう明確な意思表示だという風に思いますね。

また、『羅生門』構造という風に言いつつも、明らかにそのアップデート版でもある、というのはですね、今言ったようなその、お話上のモラルだけではなくて。同じ事件を異なる時点で語り直す、というその語り口の、バランスの取り方の巧妙さ、という点においても、アップデートされている。要は、誰かが意図的に嘘をついている、っていうレベルの話……でも、嘘をついているってことだったら、話は簡単じゃないですか、それは。なんだけど、そうじゃなくて、画面内で起こってること、描かれている出来事としては、各々、それほどは違っていない。ほとんど同じ、という言い方すらできるのに、受け手によって、その解釈や受け取るニュアンスが全く……場合によっては180度違う、という。

■3つの章、同じ場面がどういうニュアンスの違いで描かれているか

たとえば、「男らしく」和解に歩み寄ったのはどちらだったか?っていう、あれであるとか。あるいは、そんなこと、どうでもええわ!っていう視点であるとかね(笑)。あるいは、「お前、直前まで女を口説いてたの、聞こえてるからね?」みたいな(笑)。そういう視点であるとかですね。まあ、その最たるものが、もちろんその第2幕、ル・グリの視点による「マルグリットとの関係」と、第3章のマルグリットの視点から見た、ル・グリによる一方的な「関係の押し付け」──つまり性暴力なんですけど──であってですね。

女性からすればもう、性暴力やセクシャルハラスメント以外の何物でもないような行為がですね、男性側は自分に都合よく解釈していて、悪気すら感じていない、っていうこれ、この構図はまさに、現代においても繰り返されている。それこそが、MeTooムーブメントによっていろいろ暴かれていった、セクシズムのあり方そのものであって。本作のその『羅生門』構造は、その男側の「無自覚」を浮き彫りにするためにこそ、使われているわけですよね。

なので皆さん、その3つの章の、同じ場面がそれぞれ、どういうニュアンスの違いで描かれているかを、どうか見逃さないでいただきたい。先ほども(オープニングトーク内で)言いましたけど、非常に立派な仕事をされている映画評論家の方でさえ、そこがまるっきりわかっていないとしか思えないことを書いてらっしゃったりするので。第1章、非常に粗野で無神経なカルージュの視点ならですね、要はもちろんその、彼の記憶が描いてることもあるんだけど、彼の記憶が「省いて」いるところ、彼が省いていたところは何か?っていうのを、後の章から思い出していただきたい。「あいつ、ここ飛ばしてたじゃん」みたいな……とかですね。

あと、あの婚礼の儀式で、これは彼の視点なんだけど、口づけが神から女性へ「下ってくる」構造の儀式っていうあたりも、ちょっと「うっ……」って来るあたりですよね。なんかね。キリスト教というものがそもそも、女性というもの、そして女性と性というものを、どういう風に位置づけているか?っていう話も、途中で出てきますよね。アダムとイブの話でね。

そして第2章、ル・グリの視点。前半の、彼から見たカルージュ像。要はカルージュはね、「俺はこんなに頑張ってるんだ」って言うけども、「あいつは本当に困ったやつだ。そして俺は庇っていたんだ。なのに逆恨みされて……」って。まあ、たしかにこういうことってよくあるし、そういう意味ではもう、ご同情申し上げる、という感じで苦笑するんだけども。やはり問題は、対マルグリットの描写で。とにかく、1から10まで自分に都合よく解釈して。なんなら場合によっては、それこそ「『夢想した』って……お前の話だよな?」っていうところさえ出てくる。

たとえばね、皆さん。事件が起こる2階の寝室、手前の階段。マルグリットは履物を「自ら脱いだ」という風に彼は記憶しているけども……とかですね。あと、口にしてる言葉も、第3章の同じ場面と一字一句違わないんだけど……たとえば、マルグリットが助けを呼んだ時の、ル・グリ自身のリアクションまで、とにかくニュアンスとかが、180度違うわけですね。まあ僕はでも、ル・グリの記憶でも十分に、アウトだと思いますけどね。それでもレイプだと思うけどね。

■一応の決着を見た後の、ジョディ・カマーの表情は……「これはこれで絶望」

そして本作の真価というのはもちろん、真に本題に入り出す、上映時間ちょうど真ん中あたりから始まる、第3章からなんですね。ちなみにですね、その主人であるそのカルージュなどより、はるかに知的なだけではなく、統治者としての能力も実ははるかにある、というマルグリット。実際にですね、マルグリットさん、息子に財産を相続するまで、彼女は領地をしっかりキープできていた、という、これは史実でもあるので。非常に有能な方だった、ということはこれ、史実なんですね。だからこそ、尊厳を保つために、声をあげるわけですけども。

それに対して、あの手この手のバックラッシュ。女性の性に対する非常に偏見ゴリゴリな当時の常識。そして、実際に男性に対するよりも遥かに苛烈だった、女性に対する刑罰……という名の脅し、などなどによってですね、要は「女はおとなしくしてればいいんだ」と、世の中全体が圧をかけてくる。「わきまえろ」と。出ました、ねえ。で、実際にそうするしかなかった女性側の立場、というのも描いた上でですね、これも残念ながら14世紀末フランスと現代の世界、それほど本質的に改善されているとは言い難い構図、っていうのがこれ、やっぱり容赦なく描かれていく。

ただし、その中でもたとえば、決闘裁判を認可するための審問会で、マルグリット、まさしくもうセカンドレイプと呼ぶのがふさわしい最低の質問や言葉を次々と投げかけられるわけですけども。そこで、まああの王様の方はね、シャルル6世、のちの「狂王」ですからね、もうどうしようもない感じなんですけど、横にいるセレナ・ケネディさん演じる女王がですね、一瞬見せる表情の変化。セリフではないんですけどね。そこにやっぱり、現在の映画としての非常に批評的な視線っていうのを、作り手ははっきり刻印してるわけです。そこに。皆さん、この表情の変化とかもぜひ、見逃さないでください。

あと、表情で言うならば、ラスト。一応の決着を見た後の、ジョディ・カマーの表情にも注目。要はもちろんね、「これはこれで絶望」っていうことですよね。つまり、「やっぱりどっちにしても『詰んでる』じゃん」って表情ですよね。さっき言ったように。だけど、2段構えのエンディング。これ、やっぱりさっきも言ったように、史実もそうなんですよ。彼女は結婚をしなかった。そして領地を……たぶんあのカルージュが治めていたらどんどんダメになっていったと思うんだけど、領地をキープしたまま、息子に相続するところまで行ったんですよ。つまり「希望はあるよ」っていうのは、決して甘い作り話じゃなくて、史実ベースでもあるんですよね。それをベースにした、その2段重ねのエンディングになっている、ということです。

■ここに来てリドリー・スコット、またまたやっぱり文句なしの傑作!

キャスト全員、はっきりと損な役回り、つらい役回りをやった男性陣を含めて、本当に見事。特にジョディ・カマーはもう、これで間違いなく大スター俳優となっていくでしょうし。そしてリドリー・スコット。御年83歳にして、この後はなんとあのグッチ家のやつ(註:『ハウス・オブ・グッチ』2022年1月14日公開予定)も控えているし、いよいよキャリア最高値を更新中! すげえし、勇気も出る話。

まあ非常に、性暴力シーンはあるので、その点はご覚悟いただきたいところ、こちらというかね。覚悟の上でというか、注意喚起をした上で見に行っていただきたいですけども。まあ、ここに来てリドリー・スコット、またまたやっぱり文句なしの傑作を作ってしまった、というあたり。今、映画館でかかっているものでいえば、優先順位はかなり高めで、劇場に見に行っていいんじゃないでしょうか。「配信を待つ」とかケチくさいことじゃない方がいいと思うよ……いろいろ腹立たしいから。ということで、『最後の決闘裁判』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『DUNE/デューン 砂の惑星』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。



 

(番組オープニング、『最後の決闘裁判』の劇場パンフレットやきちんとしたホームページがはなから制作すらされていない件についての、フリートーク部分)

宇多丸:(前略)……といったようなニュースもある中ですね、私はちょっと本日、ムービーウォッチメン。リドリー・スコット最新作『最後の決闘裁判』をやるんですけども。ご覧になったんですよね。山本さんもね。

山本:見ましたよ!

宇多丸:見て、なおかつ『DUNE/デューン 砂の惑星』もハシゴしたということで。羨ましいじゃない? 長いの2本を(笑)。

山本:宇多丸さん、もうシンプルにいいですか? もう2本とも長編なんですけど、たまらなく面白かったです。見応え! まあ『決闘裁判』のいろいろ考えさせられるところもある……。

宇多丸:もちろん。「面白い」っていう言い方もあれですけども。

山本:重厚な作品で。はい。もうたまらんです。拍手っていう感じです。

宇多丸:ああ、そう。僕はまだね、『デューン』は行けてないんで。ちょっと……まあ、でも今日も山本ウォッチメンもあるので。ぜひ、ネタバレ気をつける範囲でお願いしたいですね。でね、『最後の決闘裁判』、映画評はもちろんこの後にたっぷりやるんですけど。ちょっとそれに関して、映画評の中に入りきらない、でもちょっとこの件をどうしてもこのタイミングで言っておきたい件、みたいなのがあるので。やってみたいと思います。始めましょうかね。行ってみよう。

山本:アフター!

宇多丸:シックス!

山本・宇多丸:ジャンクション!

(中略)

宇多丸:映画はね、毎週僕、ムービーウォッチメンをやって。ちゃんと映画館に行くというのを旨としている映画評なので、当然行くわけですよ。で、行ったら僕の習慣としてはもう、コーヒーを買う。あとはかならず当然、映画評をやるやつだったらパンフレットを買うんですよね。で、特にやっぱりその『最後の決闘裁判』なんていうのはね、14世紀末のフランスを舞台にした……百年戦争真っ最中ですね。イングランドと戦争をして、とにかくフランス的には、国内的にも非常にガタガタっていうのかな、体制もガタガタだし、非常に疲弊しているし。いろんな矛盾がもう国内外で噴出しまくっている、というような状況なわけですけど。

そんな社会状況とかもあった上での、今回の『最後の決闘裁判』。当然、その封建主義というのがドン!とあって……みたいな話なんですけど。当然、そういう解説とか読みたいから、パンフをみんな、買いたいと思うんですよね。あれだけ素晴らしい作品ですし。なんだけどさ……ご存知の方も多いかもしれませんけど、パンフの販売がないと。で、もちろんね、物によってこのパンフの販売がない系って、たとえば非常に小さな作品で、あんまり宣伝費もかけられなくて、あと公開期間が短いとかで……最近はね、残念なことですよ、パンフを売ってないっていうのはもちろんあるし。

あと、『ノマドランド』の時みたいに、間に合わなくてっていうかね、慌てて作ったりしてましたね。でもあの時は、後からでも作ったからまだよかったけど。ねえ。アカデミー作品賞の作品で、あれも社会背景が重要なことですから、当然パンフを作るべき作品というか。で、ちなみにもちろんパンフレットというのは、非常に日本の映画文化独自のものなんですね。他の国にはないもので。

ただ僕はこれ、とてもいいカルチャーだと思っていて。端的に言えば、なんで……特に洋画ですよね。なんでそのパンフレット文化っていうのがこれだけ発達したかと言えば、なによりもやっぱり我々が、その海外の映画とか、そこに描かれるその海外の文化であるとか風土であるとかっていうのに対して、理解しようという気持ち、学びたいという気持ちが、すごくきっちり高い、という文化風土があったからだと思うのね。

山本:なるほど。

宇多丸:たとえば、よく聞くんだけど、アメリカとかだとやっぱり、外国映画で吹き替えとかなしで、ってなると、普通の人は見ない。やっぱり英語でしゃべってないとダメだ、っていうことになるらしい。字幕がついたものを見るっていうのは、結構なんて言うか、グッと見る人が限られてきちゃう、みたいなのがあるみたいなんですよね。そこに行くと日本はもう、英語圏のみならず……だいぶそこの幅もね、昔に比べるとちょっと狭まった感もあるかもしれないけど。でも、英語圏のみならず、フランス映画もある、イタリア映画もある、ロシア映画もある、みたいなのがあって。たまにはとんでもない、あまりよく知らない国の物が来たりとか。そういうのがあっても、そういうのをパンフで補完する、ということがあったわけじゃないですか。

だから、すごくいい文化だと僕は思うんですよね。ということは、それが廃れてくるっていうのは要するに、逆に言えばなんというか、「わからないものをわかろうとする」気持ちが薄れてるっていうか。なんか大きく言えばね。で、それってちょっと、感じるところもあるんですよね。なんか、「(こちらが)わからない(ように作った)方が悪い」みたいなことになっちゃってて。「わかるようにしろ」文化っていうか。なんか僕はそれ、とても知的環境としては、後退しているという風に思うんです。僕はね。僕の考えですよ。

なので、なんだろうなと思ってる。しかもこれ、もちろんいろんな事情があって作られないというのはあるとは思うんですけども、要はどういう構造の映画かというと、以前、20世紀フォックスと呼ばれていた会社が、ディズニーに買収されて、20世紀スタジオという会社になったわけですよ。で、海外の配給は、ブエナ・ビスタ・インターナショナルというところが配給してるわけですよね。日本はね。まあ、ディズニー傘下ですよ、要するに。

で、そのディズニー傘下作品でパンフが作られないのっていうのは、実はこれが初めてじゃなくて。あの『フリー・ガイ』っていう、同じジョディ・カマー主演ですね。めちゃくちゃ面白い……こっちは全く似ても似つかぬと言いましょうか。もう愉快痛快なコメディアクション映画というのかな、そういう感じで、すごい楽しい映画でした。素晴らしい作品でしたけど。間もなくもう、ディズニープラスで配信が開始になるようですけども。

要するに、同じ会社の構造なわけですよ。20世紀スタジオで、ディズニーがあれしてると。で、パンフはどっちも作られていない。となると、ちょっと正直勘ぐっちゃうのは、「ああ、ディズニーさんは何ですか? 今後は映画パンフなんていう無駄なものは作らないとおっしゃるんですか?」って、勘ぐってしまう。そんなことはないのかもしれないけど……そんなことはないのか?

じゃあ、だとしたら、たとえばホームページとかはね、情報が書いてあって、たしかに紙を消費するのではないやり方というのもあるかもしれない。それでホームページなんかに行ってみるとね、これがもうね……最低限中の最低限の情報ですよ。まだWikipediaの方が載ってるわ!みたいな。だから要は、なんていうか、プラスアルファの情報は現状でやる気ないんだな、って判断するしかない感じなのね。

山本:うんうん。ネット上での補完もないということなんだ。

宇多丸:でね、それと関連していると言っていいかはわかりませんが、ディズニープラスって今後、いろんな作品のメイキング映像とか、要するに特典映像……昔だったらDVDとかに入ってたような特典映像コンテンツを増やしていく、みたいなのがあるんですって。それ自体はいいですよ。別に僕もディズニープラス入ってるし、その特典みたいなのを見るのは好きだしさ。ソフトを買わないやつに関してはそれで見れるのは嬉しいけども……そういうのとさ、解説ってまた、別じゃない?

なんていうのかな、「そういうのをやるんで(パンフレット的なものはもう要らない)」みたいなことかもしれないけど。だから、とにかく解説文化みたいなものをとても軽視されていらっしゃるようにしか、現状、思えなくて。で、それはとてもよくないっていうか、私はだとしたらそのディズニーさんの姿勢は、その文化的充実度というのに対して明らかに後退している、というかね。ただでさえ、ディズニーさんっていうのはもう今、王者なわけですよ。MCUもある、『スター・ウォーズ』もある、20世紀スタジオもある、それだけ……だからもう、独占ナントカ法とか大丈夫なの?みたいな状態の会社が、率先してそういう態度を示すっていうのは……。

山本:ねえ。逆の方に行ってほしかったですね。引っ張っていくようなね。パンフレットも大事にするっていう。

宇多丸:そうそう。まさにそうです。要するにお金が潤沢にある会社だからこそ、こういうところも贅沢にやります、それがあってこその映画文化でござい、と言ってほしかったんですけど。なんだかな……しかも、ファミリー向け映画で、別にそんな理屈をもって見るわけじゃないものも当然ありますけども、でも、『フリー・ガイ』だってね、あれはゲーム文化でいろいろあって、実際のね、本当の有名なゲーム実況者がいっぱい出ていたり、そういうのも本当は、解説ほしいよ、それは。

そうなんだけど、まあわかりやすいところで『最後の決闘裁判』ぐらいは、って思っちゃいますよね。で、やっぱり各誌に載ってる記事とかもね、映画雑誌とかに載っている記事も、まあぶっちゃけ、同じソースを元に訳したものだったりするんですよ。なので……ただまあ、ハヤカワ・ノンフィクションから原作に当たるノンフィクションが出てまして、これがもちろんすごくいい資料だったりとか、まあ英語のね、記事とかを読めばいろいろ出てますから、それは別に読みますけど。

でも、それは私は映画評をやるから読むんであって、やっぱり普通に映画を見に来た人がさ、そこまでやるわけにもいかないしさ。なんだかな、って感じですよ。だからちょっとその、苦言でございます。これは、正直。うん……ふざけんな、と(笑)。

山本:ポロリとね(笑)。

宇多丸:でね、それとは別に、改めて僕もやっぱり、その日本のパンフ文化って……つまりそのさっき言った、海外の文物というのを理解しようという気持ちが強い、非常に勉強熱心な国民性、という。こういうところは誇っていい。「日本が誇る」みたいなのは僕、あんまり言い方としては全然好きじゃないけども、でもこれは「誇る」でいいんじゃないか?っていう風に思うから。

パンフの特集……たとえばその三角絞めさんがいつもパンフをいっぱい買ってさ、「今年のパンフベスト」とか毎年、やってもらってますけど、それとは別に、やっぱりそのパンフ文化の歴史、みたいなことも特集でやっていいかなって。それはイコール、日本の映画文化の重要な一面でもあるし。

山本:ああ、面白そう。興味深いな。

宇多丸:なんかそういう歴史にお詳しい方とかいないかな、なんて思ってたりするんで。という感じですね。そんなことを思ったりしました。

(後略)

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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