宇多丸、『カラミティ』を語る!【映画評書き起こし 2021.10.1放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

 

 

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、923日から全国の劇場で公開されているこの作品、CALAMITY カラミティ』 
(曲が流れる)

これ、エンドロールで流れるカラミティ・ジェーンのテーマですね。『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』のレミ・シャイエ監督、最新作。西部開拓時代のアメリカに実在した女性ガンマン、カラミティ・ジェーンの子供時代を描いた長編アニメーション。12歳の少女マーサ・ジェーンは、家族とともに西を目指す旅の途中、父の負傷をきっかけに家長として家族を守る立場になる。しかし、古い慣習を重んじる旅団の人々と衝突。さらに窃盗の容疑までかけられたジェーンは、疑いを晴らすため真犯人を追いかける。アヌシー国際アニメーション映画祭2020の長編部門でグランプリにあたるクリスタル賞を受賞した作品でございます。

ということで、この『CALAMITY カラミティ』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。これはね、ちょっと俺ね、先週の1万円逃げは本当に申し訳なかった。なんか悪影響を与えていたら、本当に申し訳ない。これはよくない。少なめは私はよくないと思う。 

賛否の比率は、「褒め」の意見がおよそ7割。素晴らしい。主な褒めの意見としては、「全てのカットが美しく、まるで絵画を見ているよう」「同調圧力や『らしさ』からの解放を描くストーリーでとても現代的な作品だった」などがございました。一方、否定的な意見としては、「マーサの行動が単なる自分勝手に見え、気持ちが離れた」「主人公以外ももっとちゃんと描いていてほしかった」などがございました。ただ、否定寄りの意見の方でも、画面の美しさに関しては認めていらっしゃいました。

■「いわゆる『100点の映画』が来ちゃったな」(リスナー)

というところで代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「真夜中のゴア」さん。

「『CALAMITY カラミティ』、いわゆる『100点の映画』が来ちゃったなというのが一番の感想です。誰が観てもブチあがるエンタメ性と、色彩豊かな画面構成といったアート性が素晴らしいバランスで両立しており、それでいて現代に生きる我々に気づきを与えてくれる名作アニメだったと思います。本作は、集団で生きる上で『多様性』がどんな豊かさを与えてくれるのかを説いている作品だと思いました。

この映画で最も感動させられるのは、一度集団を離れたマーサが、その集団では当然とされてきた「役割分担」や「女らしさ」に背く言動から得た経験・知識・スキルによって、集団の窮地を救っただけでなく、新たな道へと導いていく姿にあると思います。一見合理的に思える『男は狩りをして、女は家を守る』のような発想に対して、『いやいや、そういう枠組みに人を押し込めるのじゃなくて、個性を活かしていくほうが絶対にいい集団になれるよね』というのを、説教くさくなくストーリーで示していくのが実にスマートでした。

男らしさ、女性らしさの抑圧を示したモチーフとして服装が出てきますが、『いや、こっちのほうが動きやすいんで』と躊躇なくジーンズを履いてみせるマーサだからこそ、この『〇〇らしさ』に凝り固まった集団を新たな地平へと導くことができるのだというメッセージを受け取りました。

そしてこの映画のメッセージがアニメ手法にも表明されているからこそ「100点映画」だと思いました。多彩な色を使い、輪郭線を用いずに人物や自然を描く作画手法がまさに『枠のなかに収めない』ことであり、それが美しさや雄大さにつながると示しているのではないでしょうか。終盤に至っても『口喧嘩が絶えない』『話を盛りがち』など、マーサがカラミティ・ジェーンへと変貌してもなお、いわゆる『いい人』『正しい人』に収まらないあたりもまた風通しのよさに繋がっていると思いました」

という真夜中のゴアさんのご意見でございます。

一方、ダメだったという方。「南向きの鳩」さん。

「『CALAMITY カラミティ』、カラミティ」を吹替え版で見てきました。感想は、中盤の展開さえ違っていれば、良い作品と言えました。絵は素晴らしい。性差別への解決策のヒントは受け取れました。ただ、中盤の展開には納得できず、最終的には私の心は離れました。

この作品の問題点は、マーサが旅団を飛び出してからです。子供が見飽きないための展開だと思いますが、場所を変えながらのドタバタ劇になります。テンポ良くというよりは、流れ作業のように見えました。そして、マーサが自由奔放に暴れまわっているように見えました。マーサとジョナスのバディは、暴れたり盗みもやっています。また、マーサは『正直に生きる!』と言いながら、ドレスを着て騎兵隊の大佐を欺く行為をやっています。情報を得るためとは言え、マーサの行動がちぐはぐに見えました。

アニメのコミカルさを目くらましにし、『問題解決のためなら何をしてもいい』と見え、頭を抱えてしまいました。宇多丸さんはどう思われますか?」

これ、ちょっと「どう思われますか?」って聞かれたので、先に僕の意見を言っておくと……これね。ちなみに後ほど言いますけども、カラミティ・ジェーンという方は、実在する、先ほども言いましたけどね、女性の、当時としては非常に珍しいっていうか、異例の女性ガンマンで。なので製作者は、そのカラミティ・ジェーンが、実際にどの程度の悪事を人生において……たとえばその、不当な人殺しであるとか、というようなことをやっているのか?っていうのを、綿密に調査したそうです。たとえば、ネイティブ・アメリカンの方の殺害に加わっていないか、とか。

当時のことですから当然、(人種などに対する)偏見とかはあったと思うけど、いろいろ調べた結果、そういうような決定的な殺人であるとかというようなことは手を染めていない、ということがわかった。ただ一方で、もちろんね、だからその一種のアウトローですから、そんなに清廉潔白な人物というわけでは当然ないし。加えて、これは僕の意見ね。この話はやっぱり、「子供が自力でサバイブしなきゃいけない状況に追い込まれる」話なので、「正しさ」にとらわれてたら……当然これ、「その時代の『正しさ』から脱する」話なので。たとえばその彼らが大暴れする軍隊とかは、その軍隊という規律とかルール……しかも「男らしさ」のルールが支配する場ですけど。

そこを撹乱し、破壊する、というか。それはまさにこの主人公の、役割ですらあって。まあ『トム・ソーヤーの冒険』の女の子版、というところもあるから。トム・ソーヤーなんかはめちゃくちゃなことをやるわけですから。という風に考えれば、僕はごくごく自然な展開か、という風に思いました。もちろん、そのモラル的にっていうのはそれはダメですけど、なんていうか、そういう話だ、っていう風に私は受け取りましたが……という。いかがでしょうか、ご納得いただけましたでしょうか。まあ、好き嫌いもあると思うんでね。

■「予想通り、予想以上によかった!」

ということで『CALAMITY カラミティ』、私もバルト9で吹替版と字幕版、両方見てきました。字幕版は、西部劇にしてフランス語、というね。このオリジナル版の絶妙なバランス感というか、味わいも素晴らしかったですし。あとこの吹替版。『マロナの幻想的な物語り』というね、これも非常にアート性が高く、非常に評価の高い作品、あれの日本語版の「通行人2」の吹替ボイスキャストだった福山あさきさんと、「通行人1」だった林瑞貴さんが、どちらも一大フックアップされての吹替版、ということで。こちらもね、本当に見事な出来でした。吹替版、素晴らしかったです。どちらもおすすめかと思います。

ということで、先週のガチャで、1万を出してもう1回、というシステムを使ったのはですね、これは要するに、見るのが嫌だからじゃなくて、これはどうせ間違いなく超いいやつだから、僕が推さなくても皆さんがお褒めになるでしょうから……なんていうね。そういう、あくまでポジティブニュアンス1万円だったわけですけども。結局もう1回、ガチャを回して、やはりこの『CALAMITY カラミティ』が出たので、ということで。実際にこの作品を見てみたらですね、いや、本当にすいません! 「予想通り、予想以上によかった!」というか。そういう感じなんですよ。

レミ・シャイエ監督、2015年の長編デビュー作『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』……輪郭線のない、絵画的に抽象化、デザイン化された、いわば非常に「引き算志向」な画面っていうね。要するに、基本「足し算志向」が主流の今の日本のアニメとは非常に対照的な、引き算志向な画面のアート性と、「これぞアニメーション」と言いたくなるような、生き生きしたキャラクター、自然描写、アクション、その醍醐味が、高度に融合した作品で。まあ、当番組でもおなじみ、神アニメーターの井上俊之さんや、それこそ高畑勲さんとかが熱心にプッシュしたことによって、ようやく、本国に遅れること3年、2019年に日本でも公開となって。この番組にも何度か触れさせていただいた、という一作でしたけども。

今回の『CALAMITY カラミティ』は、そうした手法、作風であるとか、あるいは物語もね……それまでの既存の社会の枠組みみたいなものに窮屈さを感じた少女が、世界に飛び出し、成長して帰ってきて、特にその「父」的なものとの和解を果たす、という、大筋の物語も同じでもあるというような今回の『CALAMITY カラミティ』。手法、作風、物語のベースみたいなものは受け継ぎ、さらに発展・進化させた、という上で、より万人がストレートに楽しみやすい娯楽性、それゆえすんなりと入ってくる今日的なテーマ性っていうのを、高いレベルで両立させてもいるという。

要は、子供がいきなり見ても普通にめちゃくちゃ「面白い」上にですね……それこそジブリアニメの女性主人公たちというか、そういうヒロインたち、ヒーローたちというのもすごく直接的に想起させるところがありますし。あるいはそのアート性、あるいはアニメーションとしての技術、という意味でも、さらにとんでもない高いところに行っている。で、最終的には、皆さんがおっしゃっている通りです、「女らしさ」「男らしさ」などなど、あらゆる「らしさ」からの解放、というですね、極めて今日的にして普遍的な大事なメッセージが、見た者全ての心にすんなり残る、というですね、まさしく前作の『ロング・ウェイ・ノース』以上に、さらに全方位的にすげえ!作品になっている、という風に思います。アヌシーのグランプリを取ってもこれは当然だな、という風に私は思ったりしましたね。

■異例の女性ガンマンの子供時代に想像を膨らませた「カラミティ・ジェーン エピソード0

でですね、原題は『カラミティ 子供時代のマーサ・ジェーン・カナリー(Calamity, une enfance de Martha Jane Cannary)』という。先ほどから言っているように、通称カラミティ(疫病神)・ジェーンという、アメリカ西部開拓時代に本当に実在した人物なんですよね。当時としては異例の女性のガンマンで、過去にも、いろんな創作物で取り上げられているわけです。主に、ワイルド・ビル・ヒコックっていう非常に有名なガンマンがいますけども、ワイルド・ビル・ヒコックの相方、的な立場で登場することが多いですけど。

映像作品でもね、ゲイリー・クーパーがワイルド・ビルをやった『平原児』であるとかね。1936年、セシル・B・デミル(監督作)。あるいはドリス・デイがカラミティ・ジェーンを演じた、これさミュージカルですね、ずばり『カラミティ・ジェーン』という1953年の作品とか。この二作は、配信とかでもすぐ見られますんで。あとですね、ウォルター・ヒルが監督した『ワイルド・ビル』っていうね。これはワイルド・ビル・ヒコックがジェフ・ブリッジスかな。で、エレン・バーキンがね、カラミティ・ジェーン役をやってたりという。

ちなみにこれ、ちょっと話がずれますけど、ウォルター・ヒルの『ストリート・オブ・ファイヤー』っていう1984年の映画がありますけど、その中でエイミー・マディガンが演じるマッコイっていう女性のキャラクター、すごく、いわゆる男の主人公とフラットな相棒になっていく女性キャラクターがいて、あれの原型ってきっとカラミティ・ジェーンだよね、っていうことを改めて思ったりしましたけどね。はい。

あとですね、近年一番印象が強いカラミティ・ジェーン像といえば、やはりこれもウォルター・ヒルが第1話の監督として関わったHBOのテレビドラマシリーズで、『デッドウッド』っていうシリーズがあって。これでロビン・ワイガートさんという方が演じたバージョンのカラミティ・ジェーンが、非常に近年では印象深いんじゃないかと思います。他にもまだいろいろあると思いますけど。あとね、フランスでは『ラッキー・ルーク』っていうバンド・デシネ、漫画ですね。フランス版のコミックで非常に有名なんですって。カラミティ・ジェーンはね。

ともあれそれらの、これまでの作品でのカラミティ・ジェーンという人はですね、まあ当時からすると完全に男の格好をして、豪放磊落、大酒飲みで、ガサツで。で、武勇伝を大幅に「盛る」癖があるという(笑)。なんですけども、まあ基本むちゃくちゃいいやつ!みたいな。当然その、成人したキャラクターで。さっきも言ったようにワイルド・ビル・ヒコックのサイドキック的な、もしくはあれですね、そのミュージカルの『カラミティ・ジェーン』とかはそうですけど、まあ「友達以上恋人未満」みたいな。『平原児』とかもそうかな。みたいな、そういうバランスで描かれることが多かったわけですけど。

で、盛りに盛られたその自叙伝をはじめ、まあ伝説が非常に多いこの有名キャラクターなんですけど。しかしですね、その歴史的な資料などでも明らかになっていない、子供時代、家族でオレゴンに向かっていた時期というのがあって。ここだけはあんまりはっきりしていない、という。そこに自由に想像力を膨らませて、言ってみれば「カラミティ・ジェーン エピソード0というかですね、1人の少女がカラミティ・ジェーンになるまでの話、という風に作られたのがこの『CALAMITY カラミティ』という映画なんですけど。

■女性主人公に求められるステレオタイプなイメージから逸脱したデザイン

当然そこには、かつてであれば「男勝り」と表現されていたこの女性のですね、より今日にも通じる自由な本質、「男勝り」なんてもんじゃない、もっと自由な本質、それこそ今の観客たちのロールモデル……っていうか、今こそロールモデルたりうる真のヒーロー性、みたいなものを掘り下げる余地があるという風に、レミ・シャイエ監督をはじめ作り手の皆さんは考えたわけですよね。冒頭、主人公マーサの顔がどアップになるわけです。

で、このどアップになる顔からしてですね、これまでにありがちだった、特にアニメーションの少女主人公像っていうね、いかにもこう「主役の女性らしい顔」の枠組みには、もはや収まってやらないぞ!という風にですね、作り手、ひいてはこのマーサというキャラクターそのものが、強い意志を持って発しているようなこの顔。浅黒い肌に、ぶっとい眉毛。そしてそのすぐ下にある、真ん丸な目。そして、その目と同じくらいまん丸な鼻、というね。一番近いバランスはですね、『戦闘メカ ザブングル』の主人公ジロンだと思うんですけど。まあ、あれもヒーローらしからぬ顔といえばヒーローらしからぬ顔ですけども、ジロンみたいな顔をしてるわけですよ。

で、このキャラクターの特に鼻の描き方へのこだわりというのはですね、これは、日本では一部店舗とオンラインで購入できる『THE ART OF CALAMITY』というメイキング本が出てるんですね。これ、フランス語が原著なんですけど、日本語訳パンフも付属されているという非常に親切設計になっておりまして。これ、最高の1冊だったんで、めちゃくちゃおすすめなんですけど、このメイキング本の中にも記されていて。とにかく、「主役の女性」「スポットが当たる女性」に求められるステレオタイプなイメージから脱するようなデザインが、明確に意識されていて。そのいろんなバランス取りの中での、この丸い鼻、ということらしいんですよね。いろいろ議論とかもした中での、丸い鼻。

で、とにかくそのマーサの顔と手のアップからこの映画は始まるんですけど。前作『ロング・ウェイ・ノース』同様、引き続きその輪郭線、主線を廃した絵ではある。その手法は引き続きなんだけど、どちらかと言えば割と直線的なっていうか、パッキリすっきりした画面構成とかが印象的だった『ロング・ウェイ・ノース』に対して、今回の『CALAMITY カラミティ』ではですね、その線で区切られていない色と色の境目がですね、にじんでいるっていうか、にじんでいるように微妙にギザギザ、デコボコしていて。よりアナログな、自然な手触り。もっと言えば、人間と自然、その取り囲む環境全体が、より緩やかに、ファジーに混ざり合っているというか、シームレスにつながり合っているような状態感というか、そんなのが表現されている。

それはまさに、一面氷の世界だった、要するに1歩外に出れば死の世界だった『ロング・ウェイ・ノース』と、今回の19世紀アメリカの荒野、っていうのの違いでもあるから。自然と人間の距離感の違いでもあるかもしれないんだけど。

そんな感じでですね、手法そのものは前作譲りなんだけど、さらに複雑な挑戦、もしくは題材に合わせた変化をしている、というのが今回のこの、冒頭の顔と手のアップからも分かるわけですよね。で、そこからオレゴンに向けて、その馬車の旅団に加わって、長らくその厳しい道のりを進んでいる、という主人公家族の現状が示されていくんですけど。

■自然表現のインスパイア元はナビ派や野獣派、そしてノーマン・ウィルキンソンのポスターアート等

今回のこの『CALAMITY カラミティ』という映画、何がまず圧倒されるって、彼らがね、ぽつんといる広大な自然、環境のですね、先ほども山本さんもおっしゃってました、画としての描き方、自然とかの画の描き方で。何度も言うように輪郭線、主線がなくて、さまざまな色そのものによって物の形というのが表現されていくんだけど、たとえば「雲は白」とか「草木は緑」というような単純な色使いではなくてですね。時間帯、日の当たり方によって、黄色や青、そして紫、ピンク、などなどが効果的に配されて。

あるいはですね、これはIGNというところの監督インタビューで、タニグチリウイチさんという方が監督インタビューしているところによると、色分けによって遠近感も……要するに奥をボカして手前をくっきりみたいな、そういう遠近法ではなくて、色使いによって遠近感も表現してたりする、というような。とにかくそういう色使いによって、自然な……発する色そのもので、見事に自然の息づきを表現しているという。もしくは、その自然の中に流れる空気感さえも見事に表現し切っている、という感じだと思いますね。

さっき言ったその『THE ART OF CALAMITY』っていう本によれば、色彩監督のパトリス・スオウさんという方は、インスパイア元として、絵画におけるナビ派……これ、以前僕この番組で、ナビ派の美術展を見に行った、みたいな話をしたと思うんですけども。ナビ派とか野獣派、あるいはゴーギャンの、特に『アルルのコテージ」という絵であるとか。

あるいは、1940年代から50年代の鉄道会社の広告ポスターにインスパイアされた、という。これね、構成作家の古川耕さんに教えていただいたノーマン・ウィルキンソンさんという方の仕事なんですけども、まさにこれ、このことを言ってるんだと思うんですけども。ノーマン・ウィルキンソンさんのポスター仕事などにもインスパイア元があったりすると。まあ、とにかくこのへんをインスパイア元として挙げていらっしゃって。要はですね、ものすごい乱暴にざっくりと言ってしまえば、印象派以降の絵画表現ですね。

要するに色とかっていうのを、色そのものとして……光を色そのものの配し方によって表現したりとか、世界をその色で表現していくというような絵画表現をですね、しかし物語としては写実的な、そして娯楽的なアニメーション作品に落とし込んでいく、というですね、改めて考えてみればなかなかにアヴァンギャルドな……しかし、実際に作品を見てみると、まさにその色たちによって生き生きと息づく自然の姿。

その美しさ、雄大さ。さらに言ってしまえばその自然の姿の「自然さ」に、割と理屈抜きに陶然とさせられてしまう、圧倒されられてしまう。本当に自然の中にいる時の感覚。「ああ、自然ってこうだよな」っていう感じに本当になる。そんな試みをまずは大成功させている、そんな映画だ、という風に言えるかと思います。この『CALAMITY カラミティ』はね。

■マーサがあらゆる「らしさ」から自由になればなるほど、周囲の人間たちも呪縛から解かれていく

そんなそれ自体、本当に美しく魅力的な世界を前にですね、しかし主人公のマーサは、生きていくためのさまざまな労苦……というよりも、不当に押しつけられた役割の、枷の中に押し込められて、彼女自身の根っから自由な気質からしても、まあ大変窮屈な日々を強いられている、ということなんですよね。で、ここの演出も非常に巧み、かつ周到で。たとえば主人公家族の着ているもの。その他の旅団の人々が着ているものとは、微妙だけど、明らかにちょっと違うタイプのものを着てたりする。あの次女の女の子が着てるドレスとか、明らかに違うわけです。

つまり、それによって彼らが、元々はこの共同体の一員じゃなかったんだろうな、後から加わったんだろうな、っていうのが……服からも異物感が伝わってくる。で、やがてその共同体の外側へと脱していくその主人公マーサとの対照として……この時代、基本常に女性というのは、「家の中にいなさい」っていうことを強いられてきた時代なわけですよね。で、これは旅団においても然りで。マーサ以外の女性たちは、基本その生活の基盤、要するに彼らにとっての家である馬車から、できるだけ離れないような生活サイクルが常識になっている。女性たちはできるだけ馬車から離れないように演出されている。そのあたりも意図的だったりするわけです。このあたりもこの『THE ART OF CALAMITY』に記されているあたりで、非常に周到な演出がされているということがわかる。

ともあれ、そんな感じでですね、ゴリゴリに家父長制的な共同体が押しつけてくる「らしさ」。ちょっと手綱を握っただけで「女の子が握るのか!」なんてことを言われるその「らしさ」。その不公平さにうんざりしていたマーサは、とある事件をきっかけに旅団を離れ、思わぬ大冒険を繰り広げていくことになる、ということで。

まあ、そこからですね、先ほどから言ってるように『トム・ソーヤーの大冒険』的な愉快痛快な物語が展開していく。もちろんそれは理屈抜きで楽しいあたりなんですけど。もうその、権威を背負った、ヒゲを生やしたおっさんがギャフン!っていうのは、それはジュヴナイル物としては単純に楽しい、っていうことなんですけど。やはりそこでですね、本作の非常にポイントというのは、マーサがあらゆる「らしさ」の縛りから自由になっていく。

元々彼女はね、気質として自由なわけですね。その「らしさ」からの自由さっていうのは、「女らしさ」からの自由さだけじゃなくて……さっき言った、これまでのカラミティ・ジェーンのいろんなフィクションの中の人物造型に垣間見られたような、「男みたいな格好をした女、らしさ」。あるいは「男勝りに振る舞っている女、らしさ」的なステレオタイプからも、本作のマーサは解き放たれてるんですよね。必要とあればドレスも着ますよ、みたいな。

ちなみに実際のカラミティ・ジェーンも、「別に時々はドレスとか全然着ますよ」みたいな人だったみたいなんですよね。そんな感じで、マーサがあらゆる「らしさ」の縛りから自由になればなるほど、周囲の人間たちも「らしさ」の呪縛から解かれていく、という、そういう構造の話になっているわけです。たとえば、序盤で「男らしさ」にとらわれていたクソ野郎は、終盤、どうなるか? あるいは序盤で「リーダーらしさ」にとらわれていた人物が、終盤、どうなるか?っていうあたりですよね。

■カラミティ・ジェーンという人物の歴史的な読み替えも見事な着地

そして最後ね、その解き放たれたマーサが……カラミティ・ジェーンになったマーサが、身に着けているものたち。それは彼女が旅で出会った人々(の痕跡)であり……彼女のここまでの道のりそのものが、服装に表れている。服装演出も見事ですよね。あとですね、その実在のカラミティがね、話を「盛る」癖がある、なんなら虚言癖って言われたりするような人だった、っていうのはこれまでのフィクションでも描かれてくるんですけど、なぜカラミティ・ジェーンが物語を厚く「盛って」語ったのか?っていうのにも、この作品はすごく感動的な解釈を最後に付け加えてみせるわけですね。

つまり、ここではないどこか、「外」への意識。「外には世界があるんだ」っていうことを知るための、そこに意識を向けるためのものなんですよね、物語っていうのは。だから、「物語」論としても非常に感動的だし、カラミティ・ジェーンという人物の歴史的な読み替え、っていう意味でも、見事な着地をしてみせるわけです。それらがしかも、あくまでさっき言ったように基本トム・ソーヤー的な冒険譚……というか、子供のサバイバルストーリーですね。子供が裸で放り出されたら、こういうことになって、こうやって生き残るしかない。でも、生き残ってやった! 痛快!っていう話ですよね。

サバイバルストーリーとして、セリフよりも絵が、アクションが雄弁に全てを物語る、まさに往年のアメリカ娯楽映画の流儀で……バディ物であり、スラップスティックコメディであり、という。しかしそれは同時に、前述したように、実はアート的にも驚くべきチャレンジと達成がされている、という。それらがあくまでポンポンポンと、テンポよくタイトに展開されていく、という。これはやはり驚くべき作品的達成である、と言わざるを得ないのではないでしょうか。

とにかくこの画のですね、自然描写、その中に包まれる感覚というか、本当にうっとりしてしまうような……でも、普通にお子さんを連れて行っても「ああ、楽しかったね」っていう風に言える、という。だから本当に全方位的におすすめの作品です。私の先週の1万が誤解を与えていたら本当に申し訳ない。ぜひぜひ劇場で……これはスクリーンで味わって! 包まれるように、ウォッチしてください。

 

 

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
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