宇多丸、『シュシュシュの娘』を語る!【映画評書き起こし 2021.8.27放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

オンエア音声はこちら↓

 

宇多丸:

さあ、ここからは、私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは、8月21日から全国のミニシアターで公開されているこの作品、『シュシュシュの娘』

(曲が流れる)

『シュシュシュの娘』と書いて「こ」と読みます。『SR サイタマノラッパー』シリーズなどの入江悠監督が、コロナ禍で苦境に立たされる全国のミニシアターの支援のため、資金集めから監督、脚本、編集までを務めた、およそ10年ぶりの自主制作映画……ああ、10年経つんだ。主人公の鴉丸未宇は、とある地方都市の市役所でひっそりと働いていた。しかし突如、慕っていた先輩が市役所の不正を手伝ったことをきっかけに自殺してしまう。悲しみにくれる未宇だったが、祖父に導かれ、不正の証拠を奪うミッションに挑む。

出演は福田沙紀さん、宇野祥平さん、井浦新さんなどでございます。あと、こういった有名俳優の方も含めて、全員オーディションとかで選ばれた、ということなんですけどね。

ということで、この『シュシュシュの娘』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。ただメールの量は、「やや少なめ」。あら、まあ、そうですか。ちょっとこのご時世というのもあるのかな?

賛否の比率は、「褒め」の意見が7割ちょっと。主な褒める意見としては、「時事的な社会問題をストレートに扱いながら、最後はスカッとした」「古きよき自主制作映画らしさがいい。とはいえ、撮影や編集はハイレベル」「福田沙紀さんの演技がよかった」「ミニシアターを応援したいという入江監督の志を打たれた」などございました。

一方、否定的な意見としては、「やりたいことはわかるが、設定やキャラたちに現実感がなく、ギャグも笑えない」とか、「リアルな社会問題を扱っているのに、あのラストでいいの?」などがございました。

■「現代日本への意義申し立てと作品のカタルシスとが合致した構成に、胸が熱くなる一作」byリスナー

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「喜八郎」さん。「『シュシュシュの娘』、スタッフとして関わる「新潟・市民映画館シネ・ウインド」にて上映初日に鑑賞しました。全国のミニシアター、そして映画に関わる人々を支援したいという入江悠監督の志は前提として、あくまで『ジャンル映画』『娯楽映画』に撤する姿勢、独立映画だからこそ出来る、現代日本への意義申し立てと作品のカタルシスとが合致した構成に、胸が熱くなる一作でした。ネタバレを避けて書くことが難しいですが、本作を観て強く連想したのは『プロミシング・ヤング・ウーマン』でした。マチズモが支配する共同体の閉塞感、信頼しかけた男の本性、虐げられる存在への眼差し。それらが観るものの胸に降り積もった挙句に炸裂するラストの『ある展開』に、『プロミシング…』同様、映画でしか感じられないモラルを超えたカタルシスを覚え、喝采を送りました。あの小道具がもたらすカタルシスは、時代劇『仕掛人・藤枝梅安(ふじえだ・ばいあん)』での田村高廣のアクションシーンを連想させ、時代劇ファンにもたまりませんでした。老け役に挑んだ宇野祥平さん演じる祖父が、コメディリリーフとして最高でしたが、彼がつぶやくタゴールの詩の一節『もし君の呼び声に 誰も答えなくとも ひとりで進め』。さりげなく使用されていましたが、入江悠監督が、この国に疑問を持ちつつ、必死に毎日を歩んでいる人々へのエールのように感じられ、ここでこの詩を用いる監督の『サンプリング力』にも唸りました。関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を盛り込む点含め、入江監督の表現者としての誠実さは、特筆すべきと思います」というご意見。

一方、ダメだったという方。ラジオネーム「モッツァン」さん。「『シュシュシュの娘』初日の深谷シネマにウォッチしてきました。私は今、とても悩ましいです。私自身、入江裕監督のミニシアター応援活動を応援しておりました。深谷シネマで見たことで、監督の地方やミニシアターに対する愛情をよりリアルに感じられ、実際に映画に出てきた映画館を後にしながら、一番最後に写し出された地方の風景そのままの道を帰るという、本作の世界がそのまま続いてるような、それはそれで特別な映画体験が出来たのも事実です。しかし、テーマが重い割にとても類型的な悪役が出てきてきたり、その直後にはリアルな間で笑かそうとするギャグ演出だったり、様々な場面がチグハグで、前の場面が次の場面の効果を損なう形になってしまっている気がしてなりませんでした」という。「でも、この映画は映画館で今、見て意味をなす作品だと思いました」というようなことを書いていただいております。

皆さん、だからその、入江さんの今回の作品の志そのものであるとかは応援したい気持ちである、というところに異を唱えてる人はもちろん1人もいらっしゃいませんでした、というね。ただ、その作品のバランスであるとか、スタンスっていうところで、多少意見が分かれた感じでしょうかね。

「日本というムラ」を撃つ、ザ・入江悠イズムの結晶

というところで『シュシュシュの娘』、私もユーロスペース……今回ね、シネマ・ロサとかも行きたかったんだけど、ちょっと時間とか諸々のスケジュールが合わなくて、ユーロスペースで2回見てまいりました。1回はね、出演者陣の舞台あいさつがあったりしてね。それもすごいよかったんですけど。

ということで、入江悠監督。改めてね、ちょっと非常にやっぱり現代日本における重要な作家でございますし、番組との縁も深いので説明しておくと、自主制作映画からキャリアをスタートされて、紆余曲折ありながら、2009年の『SR サイタマノラッパー』という作品で一気に脚光を浴びて。その後は、テレビドラマや商業映画の世界でも大活躍されております。僕もずっとファンで、応援している監督です。それはもう、間違いなくね。

特に、そのメジャーフィールドで活躍した一番の成果として、僕はやっぱり、『22年目の告白 私が殺人犯です』、これ、韓国映画のリメイクですけど、2017年6月24日に私、評しまして。こちら、書き起こし、公式でまだ読めますけど。メジャー大作としても非常に見事な成果を残したと思いますし、あと日本映画に限らず、外国作品のリメイク物っていう意味でも、これはちょっと頭ひとつ出た出来だなと思うし。

あとは、多様な映像フォーマットを語り口としてとても効果的に使いこなした例……いろいろスクリーンサイズが変わったりとか、ビデオで撮ったり、フィルムで撮ったりとか、そういうのをすごくうまく使いこなした例としてもですね、いろいろもうはっきり見事な成果を残した一作だったと思います。ここでやっぱりちょっと「ああ、入江さん、1個ステージが上がったな」という感じがしましたけどね。

でですね、その作品群に共通して流れているテーマというのが、僕から見るとありまして。もちろん作品ごとにですね、それの濃淡や扱い方の距離感というのは違うけども、しかしやっぱり通底するものとして、こういうことだと思います……「日本というムラ」に対する問題意識。「オラこんな村、嫌だ! だが我々は、ここで生きてゆかねばならないのだから……」というようなことを、様々な形で表現されている方だ、という言い方が僕はできるかなと思っています。

加えて、そうした問題意識の持ち方と明らかに関係しているとも思いますけど、入江悠さん、日本映画界のあり方……たとえば「監督」という職業が置かれている現実であるとかですね、スタッフの労働環境などなど、旧態依然としたその制度ややり方がズルズルと受け継がれてきた結果、全体が地盤沈下を起こしているといったような、日本映画界の現状と未来に対する問題意識、危機意識、というのを、わりとはっきり言葉にされて、あちこちで表明されて。

そのためにどうしたらいいか、というのを考え続け、今回のように実際に行動に移されてもきた方でもありまして。その意味で今回、コロナ禍で苦境に立たされたミニシアター、あるいはスタッフ、俳優のために……あるいは次世代を担う人材の発掘、育成のために、商業映画で作りえない映画を作る、それで戦う、という、「日本というムラ」をあっと驚くゲリラ戦法で撃ってみせる、という話でもあるという、そういう内容でもあるというような、こういうコンセプトで制作されたこの『シュシュシュの娘』。

そういう意味では、全部の要素がすごく、ザ・入江悠イズムの結晶!みたいな一作になっているわけなんですね。

■手数を減らすことで、手を足した時に効果が出る

なんだけど、同時に先ほどもね、オープニングでも(金曜パートナー)山本匠晃さんとの話の中で言いましたけど、その入江さんの作品、作風、これまで比較的熟知してきたつもりの僕でさえですね、思わず、「えっ、マジか」とつぶやいてしまったほどのですね、驚くべき映画的飛躍を見せる。もちろんね、これまでも入江作品、それこそ『タマフルザ・ムービー』とかもそうですけど、映画的飛躍に最終的に賭ける、っていうところはかならずあるんですよね。1個、かならず奇跡的なというか、なにか飛躍が起こる。

それがあったんですけど、それにしてもなんというか、その飛躍のあり方の図太さって言うのかな、図太さという意味において一皮剥けた感があるというか。なんにせよ、唯一無二、今この瞬間この日本で、入江悠さんによってのみ作られ得た1本、ということになっていると思いますね。

上映時間88分、スクリーンサイズはスタンダード、録音もモノラル、ということで、映画としての「ガワ」、作りのその外側の容れ物自体、容れ物としての映画自体、非常にミニマム、最小限、タイトな形が選ばれているし……入江作品、たとえば『SR サイタマノラッパー』など、特に自主制作作品では非常に多用されていた固定カメラ、それもなおかつ引きのショットで、長回しでひとつのシーンを見せていく、というのが基本的な語り口になっていて。

それゆえ時折……ずっと引きの固定での長回しが基本だからこそ、時々カメラワークがあえてその基本スタイルを外れてみせる時、ってのがまたら効果的だったりする。このような作品だと。たとえば、やおらカメラがパンしだす。横にグーッと回りだす、動きだす瞬間。それまで、たとえばスタンダードサイズ、わりと普通の我々が今の映画館で見慣れたような横長の画面に比べれば真四角に見えるようなそのスタンダードサイズの中でですね、非常に左右対称、きれいに収められていた……要するに「安定した人間関係」、安定的でフラットな、対等な人間関係、っていう風に見えていたある2人の人間関係が、みるみる崩れていってしまう、まさにその瞬間に、カメラがグーッと横に回りながら、人物たちを追いかけていく。それまでのシンメトリカルな均衡が崩れるわけですね。それによって人間関係が崩れたことを示している、とか。

あるいは、後半の別の場面。さっきまでそこにいた人が、カメラが一旦窓側にパンして戻ると、もういない、という演出からくる、つまり何か取り返しのつかなさ感というか、「ああ、事態がもう後戻りできない、取り返しのつかないところまで来ちゃった」感、というような演出であるとか。全体が一見素っ気ない引きの固定ショットゆえに、最大限の効果を生んでいる、というような演出も要所にあるわけです。

で、これはもちろん、その大掛かりな、いわゆるドリーショット、レールを敷いて……みたいなそういう移動ショットなどが予算的にも、あるいはそのスタッフ、学生さんとかを集めてやっていますから、スタッフの習熟度的にもできない、という今回のシフトを逆手に取った、そのミニマム体制ならではの戦い方のひとつ、と言えると思いますね。要するに、手数を減らすことで、手を足した時に効果が出る、みたいな。

あるいは、全体にさっきから言ってるように一種、突き放したような引き気味の固定ショットが基本となっているがゆえに、時折比較的寄りで捉えられる、印象的な人物の顔っていうのが、より強烈になる。わけてもやはり、主演の福田沙紀さん。寡黙で内にこもりがちな人、なんだけど、目だけが異様に強い!みたいな。とにかくこの目ヂカラの圧倒的な強さをより際立ててもいる、ということですよね。目、強いですよね、福田さんね。

ともあれ、スタンダードサイズ。画面内、要するにわりと普段、普通の我々が見慣れたその横長のシネマスコープとかの画面に比べると狭いですから、その分、画面内に何を入れて何を入れないのか、あるいは何をどう配置するのかといった、いわゆる画面構成が、より緻密さ、明晰さを要求されるわけですけど。この四角形の中にですね、冒頭まず何が切り取られるか、っていうと、その『SR サイタマノラッパー』でおなじみ、という言い方をしていいと思いますけど、埼玉の架空の街、深谷市ならぬ「福谷市」の景色が切り取られていく。

■残念ながら「本当にこうである」としか言いようがない、「日本というムラ」の現状

特に印象的なのは、エンディングにも映る、あの3本並んだ鉄塔ですよね。こういう無機的な風景っていうのを、スタイリッシュに、かつ意味深く切り取る、その切り取り方というのは、森田芳光さんを非常に彷彿とさせますし。あとこの、3つの塔が立っている地方都市っていうか、3つの何かが立ってる地方都市ってこれ、僕は『スリー・ビルボード』を連想したんですけども。で、あの『スリー・ビルボード』がまさに「アメリカというムラ」を巡る寓話だったとするならば、こちらの「日本というムラ」でもですね、どうやらやはり移民排斥であったりとか、そういう非常に排他的なムード、風潮というものが台頭しつつあるというのが、看板……まさにビルボードですね。それで示されているわけなんですけど。

事程左様に本作ではですね、外国人移民に対する差別、軽視、排斥などの風潮であったり、それと根を同じくする隠蔽、改ざん体質というか、要はムラ体質丸出しの社会のシステムなどなどがですね、一見非常に戯画化された、カリカチュアされた、デフォルメされた感じで、誇張されて……なんか、だからこれが「リアルでない」っていう風に書かれている方、結構いたんですけど。僕は、個人的にはこれ、実際のところ残念ながら「本当にこうである」としか言いようがない、「日本というムラ」の現状の空気を、見事に表現されていると思いましたけどね。

たとえばその、移民というか、外国人に対する風当たり。例のね、名古屋入管でスリランカのウィシュマ・サンダマリさんさんが亡くなられたっていう件であるとか、あるいはさまざまな、なんというか日本に移民として暮らしてる方に対する風当たりって、全然あったりするし……あるいはその、改ざんとかがなんというか、どうやらもう当然の業務のように行われているっぽいですよね、みたいなこととかって、現実なんでね。

まあとにかくそんな感じで、現実の日本の社会っていうのが舞台、背景となっているわけです。たぶん、それをそのまま描くと嘘くさいほどに、もう我々はたぶん慣らされすぎちゃっていて。嘘くさいけどこれ、本当だよね、本当にこういうことをあいつら、やってるよね、みたいな感じの光景ですよね。で、ともあれそんなドヨーンとした「日本というムラ」の空気を集約したような街の一角にあるその主人公の家、という風景が次に切り取られていく。

ところがそこにですね、明らかにミスマッチな、打ち込みのダンスミュージック。さっき、このコーナーの冒頭でも流れましたけど。脚本には「80'sディスコ的な音楽」とあるし、主人公のiPhone画面にもなんか「80'sディスコミックス」みたいな表示が出ていたりしましたけども。僕の感覚で言うと、ニュー・オーダーの「Blue Monday」とか、あとはキム・ワイルドがカバーしたバージョンの「You Keep Me Hangin' On」とか、まあそんな感じ。それを日本の当時、80年代半ばぐらいの歌謡界が絶妙にパクって混ぜた感じ(笑)、みたいな感じですよ。

とにかくそういう、チャラさがむしろ不穏さを醸す、というようなビートに乗せてですね、その家の中庭で、福田沙紀さん演じる主人公の鴉丸未宇……まあここの鴉丸未宇っていう名前が実は何かをちょっと暗示してますけどね。彼女がらノリノリで踊りまくる。で、そこにタイトル『シュシュシュの娘』というのが出る。このバランス。このミスマッチ感。これが本作全体のニュアンスを、まず集約していますよね。

■一番感心したのは、「日本というムラ」における「悪」の描き方

「日本というムラ」という、先ほどから言ってる入江悠的問題意識。そこに差別や行政の腐敗が絡んでくる社会派ノワール、という意味ではですね、2017年、これ、僕は大傑作だと思ってますけど、『ビジランテ』という作品があります。まさにこの『ビジランテ』の延長線上にある世界観なわけです。ひとまず、この『シュシュシュの娘』は。

なんだけど同時に、そのひたすらダークにシリアスに硬質に、そしてドヨーンと救いない感じで突き進んでいった『ビジランテ』とは対照的に、こちらの映画の主人公は、登場していきなり、場違いなまでにノリノリでダンスを踊りまくってるわけです。これ、僕がまず連想したのは、非常にダークな社会派ノワールでありながら、ペラッペラのビートでダンスしている、『薄氷の殺人』という中国映画……2016年2月7日に私、評しましたけど、あれの終盤のやけくそダンス。、これを連想したりしましたけど。

全体を通してこのノワールとオフビート感のミスマッチなバランス、一番通じると思ったのは、やっぱりニコラス・ウィンディング・レフンの一連の作品ですね。『ドライヴ』もそうだし、特に『オンリー・ゴッド』ですね。なんなら勧善懲悪的な、ジャンル映画っぽい展開があるのに……今見せられているのは、一体なに?っていうクラクラ感。これ、褒めてますけど(笑)、「これ、なに?」っていうクラクラ感、僕は最も近しく連想したあたりですね。これね。

で、実際ですね、そのリアルな現実の日本社会を反映した舞台でありつつ、たとえば劇中、2人の人物が……別の場面ですけど、2人の人物が、死に向かっていく。「鬼籍に入る」なんていう言い方をしますけど、正しくその「鬼籍に入る」というのを、道の向こうにぽっかり口を開けた黒いモヤモヤの向こうへと「入っていく」、というような画で表現していたりするわけです。

こんな感じで、ちょっとだけリアルから遊離したような描写が、特に主人公ファミリー側ではちょいちょい見られたりするわけですね。またそれが、その宇野祥平さん演じるおじいさん……これがもうゴリゴリに『ゴットファーザー』のマーロン・ブランドばりの、口に詰め物をしてですね、明らかにマーロン・ブランドばりの感じのおじいさんで(笑)。オフビートな笑いとともに、飄々として描かれていく。なので、現実の社会問題をベースにしながらも、まあたしかに重くなりすぎないバランス、っていう塩梅になっていたりはするわけです。

で、その一方でですね、僕が本作で一番感心したのは、その「日本というムラ」における「悪」の描き方で。役人チームが、まあ本人的には悪いことしてる気はゼロ、なんなら実務的にはスムーズに事なきを得さえすれば優秀扱いされている、というような感じも、実際ホントにこうなんだろな、という感じが見事で。僕はあれ、誇張じゃないと思いますよ。はい。

あと、あの市長ですね。もう雰囲気そのものが、ギラギラとなんか黒いっていうか、言っちゃえば「ジャイアンの延長線上でここまで来ちゃった感」っていうか。なんか地元のボスっていうかね、クラスのボスがそのままここに来ちゃった感、みたいなのも、もう本当にリアルだと思いました。ああいう人が政治家になるんだろうな、と思いましたし。そして何よりあの、自警団ですね。僕はこれ、大発明だと思います。これの描き方。

要は、これみよがしのゴロツキとか、あとはその戦闘集団、たとえば、それこそ黒い制服を着てるとか、わかんないけど『時計じかけのオレンジ』みたいな、ああいう(いかにも反社会的集団っぽい)感じじゃなくて、揃いの蛍光のウインドブレーカーを着ているわけです。つまり、キャンペーンルックなんですよ。なんかキャンペーンをするかのような格好をしているわけです。つまり、本人たち的にはやっぱり、「社会貢献」のつもりなんですよね。っていう感じが……でも同時に、身内だけで通じる奇妙な身振りを嬉々としてやってたりする、っていうのが何か気持ち悪かったりして。

とにかく日本的なファシズムのあり方の表現として、これは大発明だと思います。僕、『ときめきに死す』の新興宗教描写以来の、本当にフレッシュな日本的ファシズム表現だと思いました。これはすごい。ここだけでも本当にすげえと思いました。

「あっ、“そっちのジャンル”の映画なんですか、これ!」

とまあ、そんな感じでですね、現実の日本を反映したその腐敗した社会と、ちょっとリアルから遊離したオフビートなユーモア感。そのバランスのセッティングが整ったところで……そうだ。ちなみにですね、先ほど言い忘れた。中盤の「条例制定記念で500個、風船をあげます」って。で、みんながそれを表に見に行って……っていうところとかは、正直まあ、「ブルースインパルスを見上げていたちょっと前の我々」というのを突き付けられてる感じもありますよね。まあ図らずも、でしょうけど。

とにかく、現実の日本を反映した腐敗した社会というのと、ちょっとリアルから遊離したオフビートなユーモア。そのバランスのセッティングが整ったところで……先ほどから言ってます、入江悠監督、あっと驚く、とあるジャンルのシフトチェンジを、軽々とやってみせるんですね。「あっ、“そっちのジャンル”の映画なんですか、これ!」っていうことになるわけです。

それが何かは直接的には言いませんが、とにかくここでも、福田沙紀さんのあえての丸まりきった姿勢……この丸まりきった姿勢も本当に見事でしたけれども、その姿勢に対しての、目ヂカラのみの異様な強さ、っていうのが、見事に効いているんですね。いやー、福田沙紀さん、こんなにいい役者なんだ! これからたぶん、さらに引っ張りだこになるんじゃない? 素晴らしいと思いましたね。ともあれ、同じような題材、舞台のね、『ビジランテ』がひたすら陰々鬱々と袋小路に入っていったのとは対照的に、この『シュシュシュの娘』は、前述したように、軽やかなジャンル映画へのシフトチェンジをしていく。

映画としてのタッチはそのままに、現実の負に屈さない、作り物、フィクションのパワーというものを生き生きと謳歌してみせる、という。個人的にはこれ、日本映画では『人魚伝説』という作品であるとか、『KAMIKAZE TAXI』とかにも通じる、映画ならではの……腐った現実社会への、映画ならではのカタルシス、先ほどのメールにもありましたけどね、「モラルを超えたフィクションのカタルシス」っていうのを、すごく提示してくれてると強く思いましたね。

その戦い方というのは、同時にですね、「持たざる者たちのゲリラ戦」……すなわちこの映画、この作品を通じた、入江悠さんをはじめ作り手たちのそのスタンスそのもの、その表明ですね。「俺たちはこうやって戦っていく」っていう表明そのものでもあるように見える、ということでございます。

もちろん、先ほど言ったね、そこで描かれる既存の支配システムへの捨て身の痛烈かつ痛快な一撃、という意味では、もちろん『プロミシング・ヤング・ウーマン』、先ほどのメールにもあった通り……あるいは、クソな現実、クソな権力着、クソな支配者、クソな抑圧者を、しょうもないジャンル映画精神でぶっとばしてやる!っていうそのマインドは、『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』ともやはり通じるところがちゃんとある作品だ、という風に思います。まあ『ザ・スーサイド・スクワッド』の予算があれば、この『シュシュシュの娘』は、1000本は作れると思いますけどね(笑)。

あえて言えば、ちょっとですね、セリフがちょっと、聞き取りづらいんですね。モノラルなのもあるのかな? 特に序盤、物語のセッティングを飲み込んでいくプロセスでちょっと聞き取りづらいのが、これは見る人によってはここが障壁になっちゃうよ、と。そんなにハードルが高い映画じゃないはずなのに。

ただ、この「飲み込みやすくしすぎない」感じっていうところ……やっぱり「ミニシアターでしか見られない、ミニシアターでこそかかる、上映される映画」というスタンスの、やっぱりその意思表明の部分なのかな、とも思うんですよね。とにかく、すごく変だけど、すごくみんなわかる現実の話だし。すごく嫌な話だけど、すごく痛快でもあるし。すごく地味なんだけど、すごい派手でもある、という。

あと、たとえば吉岡睦雄さん演じる司という男の奇妙な明るさなどなど、このディテールをめぐる話でキャッキャキャッキャやっていたら、これはもういくらでもできるぐらいで。とにかく先ほども言った通り、世界でこの入江悠監督、今の入江悠監督にしか作りえない作品、新たな代表作になったと思いますし。私は、個人的にクラウドファンディング、「スタッフに食事おごる権」を買ってよかったと心から思える一作に、ちゃんとなっていると思います。ぜひぜひ皆さん、お近くのミニシアターで! ウォッチしてください。

 

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『オールド』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしは

こちらから!

 
 
ツイート
LINEで送る
シェア
ブクマ