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【映画評書き起こし】宇多丸、『ハドソン川の奇跡』を語る!(2016.10.15放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、“シネマンディアス”宇多丸がいま立ち上がる――
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

宇多丸:
ここから夜11時までは、劇場で公開されている最新映画を、映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。その<監視結果>を報告するという映画評論コーナーでございます。今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画……『ハドソン川の奇跡』!

(BGM:テーマ曲が流れる)

2009年1月15日、飛行中に全エンジン停止という危機に見舞われながらも、乗客全員が生還した実際の航空機事故の顛末と、乗客を救った機長の苦悩を描く。監督は『グラン・トリノ』『インビクタス』『アメリカン・スナイパー』などなどのクリント・イーストウッドということでございます。主演はイーストウッド監督作品初出演となるトム・ハンクス。ということで、イーストウッドの新作ともなると、映画ファンは基本的にみんな見に行くというのはあるとは思うんですが。この映画をもう見たよというウォッチメンからの監視報告(感想)をメールなどでいただいております。ありがとうございます。ただ、メールの量は……普通ということですね。やっぱりみんなね、『君の名は。』を見るので忙しいということですかね?(笑)


賛否の割合は、「賛」が9割以上。圧倒的に「賛」が多いということです。「結末を知っている事件なのに最後まで緊張感が続いた」「削ぎ落とされた無駄のない場面にうっとり」「イーストウッド監督の手腕はこの映画の主人公サリー機長と同じく老練そのもの」といった絶賛の声が並ぶ。また、なぜか番組に初めてメールを送る方、10代や20代の方のメールも目立ったということでございます。ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介中略)

……はい。ということで、『ハドソン川の奇跡』。私も丸の内ピカデリーと、あとやっぱりIMAXで見ておきたいなと思って、T・ジョイPRINCE品川に復活したIMAXで見てまいりました。今回ね、ALEXA IMAX65ミリという、デジカルカメラでIMAXで65ミリという。カメラマンはいつものトム・スターンさんという、イーストウッドといつも組んでいる方がやっているんだけど、今回はじめてそのデジタルかつ、IMAXで撮っているということなので。特に、全体にその画面に飲み込まれるような感じというか。当然、飛行機事故の話なので。たとえば、ニューヨークの上空を飛行機がガーッ!っと上空すれすれを飛んでいる。うわっ!っていう時の、画面全体に飲み込まれるスペクタクルなショットとかは特にぴったりな感じでもあるので。まあ、間違いなくIMAX推奨ですね。

ということで当時、この『ハドソン川の奇跡』の元になった事件。日本でも大きく報道されたので、ご記憶の方も多いと思います。特にアメリカでは知らない人はいない、言っちゃえば「歴史的美談」の映画化ということですね。要は、2009年1月ですから、まだまだ2001年の9.11の同時多発テロの記憶が生々しい中で……ということですね。僕、『シン・ゴジラ』評の中で、「ゴジラというのは日本人がその時点で内心、いちばん恐れていること、無意識のトラウマの象徴だ」みたいなことを言いましたけど、その意味ではまさにですね、21世紀のアメリカ人にとって最大のトラウマである9.11同時多発テロ。要するに、アメリカの都市部。わけでもニューヨーク、ど真ん中にジャンボジェットが突っ込んできて、そこで事故が起こるってこれはもう、アメリカ人が「えっ、また……うわっ!」ってトラウマを呼び起こされる話。


今回の映画でも、ウワーッて飛んでくる時に、いろんな街の人々が、ビルの谷間を飛んで来るのを「えっ、まさか……また?」っていうような表情で見るところ。そういうまさにトラウマを刺激するような事故を……『シン・ゴジラ』が、要するに日本人のトラウマ的な、内心恐れていることを日本人の日本人性で解決するという、そういうエンターテイメントだったとするならば、こちらは実話だけども、アメリカ人が内心、いちばんもう一度起こったら嫌だと思っていることを、「勤勉で善良な」、まさしく理想的アメリカ人たちが最小被害にとどめた、ハッピーエンドに導いたという。要するにタイミング的にもう出来すぎなぐらい、特にアメリカ人的には、すごく溜飲が下がる一件だったんじゃないでしょうかね。金融クライシスとかももあったりなんかして、いろいろ自信がなくなっている中で、非常に溜飲を下げた一件だったと。


ただですね、これ、よく言われているように実際の飛行時間そのものが非常に短い。要するに、事実そのものに描くにしたって短いだろうと。5分ちょっとぐらいしかないよというのもある。あと、全員が助かったという結末がわかっているということもあるけど、それ以上に、要はあまりにもストレートに美談すぎて。もう、いい話の部分しかなさそうすぎて、僕は正直、普通に映画にするのも難しそうな上に、ましてイーストウッドが映画にするって、「ええっ、それ、合うのかな?」って最初はこの映画化のニュースを聞いた時、正直思わなくはなかったんですけども。実際に出来上がった今回の『ハドソン川の奇跡(原題:Sully)』を見てみるとですね、当然のようにと言うべきか、やっぱり完全にイーストウッドの映画になっていたと思います。

今回、特にこのところの、本人が主演していない監督作としては最もイーストウッド本人の考えていることとか、キャリアとかがいちばん素直に反映された1本という風にも思えるぐらいだと思います。たとえばそれは、前作の『アメリカン・スナイパー』。この番組では2015年3月21日にムービーウォッチメンで扱いましたけども。『アメリカン・スナイパー』、やはり実在の人物であるクリス・カイルさんの手記を元にしながらも、その手記っていうのはあくまでも本人の一人称、主観で書かれた原作本なわけですね。だから、非常に兵士の視点なんですね。現場の兵士の視点なので、非常に好戦的だったりもするわけですけども。それを元にしながらも、映画版はそれとは全く異なる、要は作られたアメリカ的英雄イメージ、アメリカの英雄的なイメージと自らの実像の狭間で孤独に揺れ動き煩悶する1人の男の物語という、非常にイーストウッド的としか言いようがない、グレーで低体温な作品に仕上げられた。語っていることは原作通りなのに、全体として、映画として受ける印象はもっとグレーで低体温で。その中で男がすごく揺れ動いているというね。


たとえば、『父親たちの星条旗』もやはり、アメリカの英雄イメージというのと自分たちの実像の狭間で揺れ動くみたいな。まさに、そういうようなイーストウッド的な作品になっていた。(『アメリカン・スナイパー』は)当時非常にね、やれタカ派だとか、いろんな論争もありましたけども、実際に見ると、そんな単純な作品ではないのはもちろん、当たり前でしょうということになっておりましたが。で、今回の『ハドソン川の奇跡』も、今回トム・ハンクスが演じているサレンバーガー機長自身による事件の顛末記。実際の事故が起こって結構すぐに出て、ベストセラーになった本がありますけども。この事件の顛末と、加えて半自伝的なのが交互に出てくるような本なんですけども。もちろん、この本が今回の映画もベースになっているわけです。非常に忠実にベースにしています。細かいところまで、ディテールとかも入れ込んでいます。


それこそ、事件そのものの回想と、自らのパイロットとしての経歴を交互に語っていくというこの構成自体が、ある意味この本の構成にならっているという風にも言えるわけですけど。しかしですね、この本そのものはやっぱり、サレンバーガー機長本人が書いたものなので。要は、プロのベテランパイロットとしての矜持――今回の映画も最終的にはそこに着地しますけど――プロのベテランパイロットとしての矜持という部分で基本、主張にブレが全くないわけですよ。もちろんPTSDもありました。あと、なにかパッとあると、「あれでよかったのか?」ってついつい思ってしまうという時期があったということも本には書いてありますが、もうこの本を書いている時点ではブレがない。一応結論として、「いや、間違っていなかった」っていう、絶対にブレがないところに行っているので、本そのものは要するに物語的な起伏はないわけですね。

で、それを今回の映画では、このサレンバーガーさんの書いた本の方には実はほとんど書いていない、先ほども(リスナーのメールに)出てきましたNTSD(国家運輸安全委員会)による調査、追求……要は、「本当にハドソン川への着水という判断は適切だったのか?」という検証ですね。もちろん、それ自体はこれ、先ほどのメールにも関連して言いますけども、今後の教訓とするためにも、絶対に当然徹底されるべきプロセスであって、別に悪意があってやっていることじゃあもちろんない。で、サレンバーガー機長も、もちろんそんなことはわかっているからこそ、本には書かなかったんだと思うんですよね。当然、それは追求したっていいんだよ、ということなんですけど。ただ、そのNTSDの調査というのを最後に乗り越えられるべき障壁としてクライマックスに置いて。なので、クライマックスの第三幕は一種の法廷劇として進んでいくという作りになっているということだと思います。

「ヒーロー、転じて疑惑の機長」っていうこの話だけを取ると、当然ロバート・ゼメキスの2012年の『フライト』という作品ね。デンゼル・ワシントンが出ているのを思い浮かべた方も多いと思います。まあ、『フライト』そのものが、おそらくそのサレンバーガーさんがこれだけの人を救ったのに、その後に疑惑をかけられたという件にインスパイアされた可能性が非常に高いと思いますし。ただ、その『フライト』の方が先に公開されてしまったことで、ずっと脚本を書いていたトッド・コマーニキさんはいったん企画を延ばさざるを得なくなったというような経緯があったようですけどね(※宇多丸補足:ところが、イーストウッドが乗り気になった途端、いきなりすべてがスムースに運び始めたそうです・笑)。ということで、とにかくクライマックスの第三幕は一種の法廷劇として進んでいくと。要は、結論として乗客が助かったことはみんな知っているから、そこをクライマックスに置くのは作劇上よくないという判断。これは非常に正しいでしょう。


なので、そのクライマックスの法廷劇の手前まで、主人公のトム・ハンクス演じるサレンバーガー機長自身も、我々観客も、全員生還という事実はすでに知っているけれども、ハドソン川に着水したという判断そのものは正しかったかどうか? という結論はずっと出ないまま、宙吊りにされたまま、ひょっとしたら、むしろ乗客を危険にさらす判断だったのかもしれないぞ? という疑念が完全にはぬぐえないように話が進んでいくという。これは全然、元の本とは違うバランスの進め方ですよね。非常に映画的な進め方だと思います。たとえば第二幕。シンプルな回想形式で事件の進行を非常に手際よく見せていきますよね。そこでですね、絶妙な視点の切り替えによって……視点の切り替え、つまり言ってみれば非常に純映画的な、映画ならではの語りのテクニックだと思うんですよ。視点を変える。絶妙な視点の切り替えによって見事にさっき言った、本当にハドソン川に着水したのが正しかったのかな? という疑念をぬぐいきれないように、うま~くミスリードしてくれるわけですね。これは名人芸と思いますね。

まずね、冒頭の部分。さっき言ったように21世紀アメリカ最大のトラウマをもうまさしく具現化、再現してみせたような冒頭の事故を幻視、想像してしまう、悪夢を見てしまうサレンバーガー。そういう場面と、第一幕でもう1回、出てきますよね。事故のビジョンをPTSD的に見てしまうというサレンバーガーの悪夢的ビジョン。ここをきっちり見せていることが、後の方にものすごく効いてくるわけですよ。これ、ちなみにここで、悪夢的ビジョンを最初、ド頭にド派手なのを足すっていうのはイーストウッドが脚本に足したワンアレンジっていうことらしいですけどね。要は、「最悪、こうなっていたかも……」っていうのを観客にもう嫌っていうほど徹底的に最初に叩き込んでおくっていうことですね。

「飛行機事故っていうのは重大なんだぞ!」ということを。ただね、ここのバランスも非常に巧みなのは、とは言え、「着水した時、最悪の事態はこうなる」っていうほうのビジョンは見せないんだよね。本当はだって、ちょっとだけ翼が片方に傾いているだけでドーン!って(機体が)転がっちゃって、もう全然みんな助からないぐらいのことになっちゃいかねないんだけど。そこの悪夢的ビジョンは見せないことで、主人公たちの(最終的に着水を選択する)判断への肩入れ感を微妙には捨てないようにしているというこのバランスだと思いますけども。まあ、とにかく最初に悪夢的な、最悪こうなっていたというビジョンを叩き込んだ上でやっていくと。それによってなにが物語上、推進力になるか?っていうと、要は「下手するとこうなってしまう」という重責を、ある意味パイロットっていうのは常に背負っているんだっていうことじゃないですか。

で、失敗すればパイロットの責任になってしまう。要するに大変な重責を常に一身に背負っている孤独な存在としてのパイロットっていうものを、これによって際立てているわけですよ。さっきも言ったように、アメリカの英雄的なイメージと裏腹に、実は内面は揺れ動き、迷って悩んでいる孤独な男という、さっきも言ったけど非常にとてもイーストウッド的な主人公像というか主題だと思うんですよね。だからある意味、元のタイトル。事件全体……ハドソン川のなんとかとか、『Miracle Of The Hudson River』とかじゃなくて、『Sully』っていうサレンバーガー個人の名前なのは、要するにただの1人の男の話だよということからの、このタイトルかな? とも思います(※宇多丸補足:“sully”は動詞だと名声や功績などを“汚す、傷つける”といった意味があるそうです。なんちゅうダブルミーニングだよ!)。


過去についていろいろ、「本当にあれでよかったのか?」っていう判断。これはもちろん、我々の人生だって常にそればっかりじゃないですか。いろいろあるけど、「ああ、本当にあの判断でよかったのか?」って。こんなことばっかりじゃないですか。僕だってこの放送だって何にしたって、いろんなところに出てもそんなことばっかりですよ。で、それを検証して、「ここは、間違っていない。ここは、あの時ではベストだけど、本当は……じゃあ、次からはどうしよう?」とか、そういう風にやっていくしかないわけですけど。で、その過去にとらわれている主人公っていうのだと、たとえばイーストウッドの、これは本人監督作じゃないけど、僕の大好きな『ザ・シークレット・サービス』という作品とかね。JFKの暗殺を防げなかった。「あの時、こう動けばできたのでは?」というのにとらわれている、非常にイーストウッド的な主題だということだと思います。


で、この男の、たとえば今回で言えば、『ハドソン川の奇跡』のサレンバーガーさん、非常にフレンドリーな人格者なんだから、周りには人がいっぱいいるはずなんだけど、(今回の映画では)たとえば奥さんとは電話で話すけど、2ショットとかは1回も出てこない。家族に囲まれているところは1回も出てこないとか、そういうところでちゃんと孤独感を際立てるようなさり気ない置き方になっているということだと思いますね。で、そういった散々、その責任の重さっていうのを、我々も体感させられた後だからこそ、ハドソン川への着水が本当に妥当な判断だったのか? NTSDが追求しようとするのも、サリー自身が自問を続けるのも、ちゃんと切実な意味がある。大事な問題だと。要するに、本当に人命を危険にさらすんだとしたら、それはやっぱりマズいことだという風に僕らも真剣に思えるということですね。


で、さっきも言ったように第二幕。サリーの自問という形で回想形式が始まって、着水までと、事態の流れが着水してからの2パートに分かれて描かれるわけですね。この着水してからのところ、実際にそのエアバスを丸ごと買ってね、スタジオに浮かべているところと、実際にハドソン川で、しかも実際に救助に参加した人たちも使ってのを合成してという。そんぐらいリアルを追求してやっている場面ですけども。まず、その着水までのところ。着水までのシーンは第三幕、クライマックス。さっき言った一種の法廷劇スタイルのクライマックスで、改めて別の視点からもう1回繰り返されますけどね。なんだけど、1回目は、さっきも言ったように非常に巧妙に視点をズラすことでミスリードをうま~くやっている。たとえば、管制官のパトリックさんという方の視点。1回目は着地直前のところ。そのパトリックの視点、管制官の視点だけに、着水の寸前はそこを絞って見せるということで、ハドソン川への着水という判断がむしろ自殺行為的にすら感じられるように、巧妙に観客の意識を誘導しているというですね。しかも1個もセリフ上とか描写上、嘘をついていないという、非常に上手い視点の転換をしていると。


念のために言っておくと、この管制官のパトリックさんも、「彼の対応が非常によかったおかげで助かった」という風にサレンバーガーさんもこの手記で書いていたりするので。要するに、こっちを混乱させるようなことを極力言わないように、ちゃんとしてくれていた。あと、自分たちのやり取りをみんなで共有するように普段と違う手順でやってくれていたりしたみたいです。ということで、パトリックさんは優秀だったんだけど、彼から見ると「ああっ、みんな死んだかも……」と思ってもおかしくはない、彼の視点。実際にあの管制官の人は、全員死んだと思いこんでいたんだって。で、部屋でずっとこうやってしょんぼりしていたら……っていうことらしいですけどね。あれは本当にあったことです。

で、とにかくこの二幕目。事故そのものを描いているパートは何度も言うように本作の物語的なクライマックスではないため、それこそいくらでも、先ほどもメールにもあった通り航空パニックもの――それはそれで僕、大好物ですけども――航空パニックものとして盛り上げることもできるのに、あえてそうせずに……つまり、それはあんまりおいしくないからっていうことですね。むしろ、事実よりもより淡々とした方向に第二幕はデフォルメしているぐらいです。このね、事実よりもより淡々とした方向に、わざわざ派手にできるところをする感じが、イーストウッド映画の独特なこのグレーな低体温感っていうのにつながっているんだと思いますけどね。

実際にね、その乗客の一部にインタビューをしたドキュメンタリーもあるんですよ。『ハドソン川の奇跡』っていう同じ(日本版)タイトルの。それも見たんだけど、たとえばその赤ん坊を隣の人に預けるお母さんとかは、実際に事故が起こる前からものすげーブーブー言ってたりするの。「こんな飛行機、もう、降ろして!」とか、その飛行機が飛ぶ前に言ってたりするんですよ。そういう風にブーブー言ってたりとか、あと脱出時もそうそうスムーズにばかり運んだわけじゃなくて。観客同士、いろいろちょっとしたぶつかり合いとかもあったみたいなんだけど、今回の映画ではそういう、言っちゃえば人的トラブル要素は極力排してですね。むしろ、人間に関しては、救助者を含め、全員が全員、為すべきことを為した。乗客たちも、パニックになるにしても、それは無理ないという範囲のパニック描写にとどめて、155名生還というのは要するに、全員が全員、為すべきことを為したからだという大筋としての結論――実際にそれは間違っていないわけですけども――大筋としての結論に収斂させていくという作りになっていると。

ただですね、特にそのパイロットやクルーとかが乗客に負った責任の重さっていうのを、さっきから言っているように冒頭の事故シーンを見せられているぶん、我々は、やっぱりその重さというのも共有しているため……たとえばね、1人も死んでない事故なのはわかっているのに、サリー機長が追求されるじゃないですか。っていう話になっているので、っていうことは1人でも死んでいたら大変なことだ! 当たり前だけど、1人でも死なせるわけにはいかない!感がより強まる作りにもなっているというのもあると思います。なので、「155名無事でした」となった時に、結果は知っているのに、「よかったね! とりあえずよかったね!」という感がズシンと来るということですね。

で、あるきっかけからサレンバーガー機長は自らの判断の正しさっていうのを完全に確信して。まあ、主人公としてそれを確信したと思しき(描写があって)……で、クライマックスの法廷劇の対決に向けて、なにやら秘策を立てていくというあたりなんですけども。ここの一連の、一種の法廷劇としてのクライマックスは、ここまで積み重ねてきた、さっきから言っている上手いミスリードを、(ストーリー上の一応の)「敵」であるNTSDの、ここまで積み重ねてきたミスリードをさらに強化するような、決定的に見える「敵」側からの手痛い一撃に対して、主人公側が非常にロジカルな(反撃をする)、「なぜこちらが正しいのか? なぜ主人公が勝つか?」のロジックがすげーしっかりしているので、すごくカタルシスがあるわけです。「ああ、そうだよな!」ってやっぱり思えると。


なおかつ、そのミスリードを解いた上で、はじめて、実際に208秒間、なにが起こったのか? 多元的な視点、つまり、まさしく映画的な視点で改めて真実全体を浮かび上がらせるという大団円構成。しかも、冒頭でいま起こっている事態の最悪の結果っていうのを見せつけられているので、より正しい選択をしなければいけないという切実感と、結果正しい選択をしたということのカタルシスが高まるようになっているというですね、これはもう嫌でも盛り上がるという構成になっていて。まあ、見事としか言いようがないと思いますね。


96分という、イーストウッド映画史上の中でも最短の上映時間も、まあ今回編集が、それこそやはり「パイロットがフラッシュバックを起こす話」という意味では同じ、82年の『ファイヤーフォックス』以来ずっとやっていたジョエル・コックスさんから、ジョエル・コックスさんの助手をやっていたブル・マーレイさんに変わったからというのもあるのかもわからないけど、とにかく今回96分という短い作品なのは、クライマックスの208分の大団円から逆算をして全体のボリューム感を作っていって96分になったんだと思いますけどね。その、必然的なタイトさなのではないかと思います。

で、最終的に浮かび上がる、たとえば「後からでならなんとでも言えるけど、実際には何事もその瞬間に初めて判断しなければならない」、そして、「そこで正しい決断を下せるかどうかは、結局のところ経験の積み重ねなのだ」、あるいは「失敗は責任者の責任だが、成功はチームワークの賜物である」というような、最終的に浮かび上がる「深イイ話」の数々。これはですね、まるでクリント・イーストウッド自身の映画術、映画論であるようにも聞こえると。たとえばね、私もここで映画評とかやるけど、映画評をやるような人はですね、出来上がったものを見て「ああすればよかったのに、こうすればよかったのに」なんて言うけどね、それは、出来上がったものを見ているからだ!っていうことですよね。


ただ、たとえばNTSDが悪役風に描かれているため、これはたしかに本作最大の映画的デフォルメだとは思います。たしかに。とは思うんですが、ただその検証プロセスそのものを否定している映画じゃないですから。むしろ、「検証プロセスの精度をプロとしてもっと上げろよ!」っていう主張であるため、僕はこれ、たとえば評論家論としても評論家否定とは全く取りません。「検証は大事でしょ? 今後に生かすためにも」っていうことだから。ちなみに映り込んだニューヨークの街の中に、2009年1月のことですから、当然上映中の『グラン・トリノ』のポスターが貼られているなんていう遊びがチラッとあったりなんかしますけども。


まぁ、映り込んでいるニューヨークにですね、タイムラグ的に2009年としてはおかしいものがいっぱい映り込んでいるらしいんですが、そんなことをイーストウッドが気にするわけがない!(笑)っていうことだと思いますけどね。トム・ハンクスはいよいよ現代のジェームズ・スチュワートになってきたなという風に思います。特にクライマックスの、ちょっと一種の法廷劇として進むところは、フランク・キャプラの社会風刺劇風だなとも思いました。全編にちょっと粋なセリフジョークが散りばめられているみたいなことも含めて、だとも思いました。まあ、とにかく堂々たる見事なアメリカ映画だということだと思います。クリント・イーストウッド、近作の中でも最も万人向けな、安心しておすすめできる1本だと思います。『君の名は。』もいいけど、『HiGH & LOW』もいいけど、たまにはこういったものもいかがでしょうか? ぜひ、劇場でご覧ください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『何者』に決定!)


以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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