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【映画評書き起こし】宇多丸、映画『ファインディング・ドリー』を語る(2016.8.6放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

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「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、“シネマンディアス”宇多丸がいま立ち上がる――
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

宇多丸:
今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画……『ファインディング・ドリー』!

(BGM: 八代亜紀『Unforgettable』が流れる)

「八代亜紀でした……」っていうやつですよね(笑)。2003年、ピクサースタジオが制作した世界的ヒット作『ファインディング・ニモ』の続編。前作の主人公であるマーリンとニモ親子の親友ドリーが、忘れていた家族と出会うために繰り広げる冒険を描く。監督は『ファインディング・ニモ』や『ウォーリー』を手がけたアンドリュー・スタントンということでございます。『ファインディング・ドリー』、もうすでに日本および世界で大ヒット。もうアメリカではぶっちぎりの大ヒットですね。ピクサー史上ではぶっちぎりのナンバーワンの大ヒットになっているということでございます。

ということで、『ファインディング・ドリー』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。メールの量は普通っていうね。こんだけヒットしているのにね、普通ですか? じゃあ、ちょっと少なめかもしれませんね。その塩梅から言えばね。褒める人が全体の半分。「いいところもあるけど、受け付けない部分もあった」という人が4割。残り1割の人が全面的にバツという割合。「いろいろ詰めこまれていて、お腹いっぱい楽しめた」「記憶障害を持ちながら、それを受け入れ認めていく周囲やドリーの姿に感動」などの声が多かった一方、「さすがに詰めこみすぎでは?」「タコがチートキャラすぎて興ざめ」。わかります、わかりますよ。後ほど言いましょうか。など、ネガティブな声もありました。同時上映の短編『ひな鳥の冒険』は概ね好評な様子でございました。代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介略)

……みなさん、本当にありがとうございました。さて、『ファインディング・ドリー』、私もTOHOシネマズ六本木で吹き替え3Dと、TOHOシネマズ日劇で字幕2Dを見に行ってまいりました。ちなみにですね、この字幕2Dを見に行った時に、ちょっと変わったことがあったのでご紹介させてください。本編と関係ないんだけど。本編が始まってしばらくして、僕は吹き替え3Dを先に見ていたので、字幕版を見に来たつもりだったのに見ていたら、「あれ? これ、また吹き替え版じゃん」って思って。で、僕最近、いろんなことを忘れっぽかったりして。「ああ、またやっちゃった、俺。ボケボケだな。俺、ダメだな」っていう風に、途中ですごいしょんぼりしていたんですよ。そしたら、あるところまで来たところで画面がパッと静止して。フッと場内が明るくなって。で、従業員の方が来て、ザワザワッとなって。「間違えて、吹き替え版の方を上映してしまいました」って。

で、「短編を含めて12分間、すでに上映しておりますが、改めて最初から字幕版を上映いたします。申し訳ありません」っていうアナウンスがあるという、非常に珍しい事態がございまして。でも、これによって僕、吹き替え版も字幕版も両方見ているんだけど、要は直前に見た場面をもう1回、英語版で見直すということでニュアンスがよりわかりやすく比較できたというのも、ある意味よかったかなという。特に、最初の方に出てくる幼いドリーを演じてらっしゃる、青山ららさんっていうたぶんめちゃめちゃ小さい女の子なんだけど。あのね、青山ららちゃんの声の泣かせ力が半端ねえ!ってことが、吹き替えの方の幼いドリーのあの、「パパとママをさがしているんでしゅ……」みたいなのが、もう、これの泣かせ力が半端ねえ!っていうことを確認したりなんかして。これを見るだけで、お父さん目から汗がちょっと……っていうね。子供いませんけど、私ね。

ということで、なかなかの珍事があって楽しかったです、ということでございます。で、改めて最初から見直したんだけど、今回の短編。いわゆるフロントアクト(前座)短編は、『ひな鳥の冒険(Piper)』っていう。これ、完全にセリフがないサイレント映画的な作りなので、ぶっちゃけ「もう1回字幕版で上映」って言っても、「同じじゃねえか!」っていうことでございましたけど。まあ、今回も本当、これ素晴らしくて。先に『ひな鳥の冒険』の話をしておくと、パッと見、本当に実写と思ってしまうほど。はっきり言ってその気で、要するに「CGアニメ作品を見ている」という気持ち……「ピクサー」って出ないで見ていたら、絶対に気づきませんよ。あれ。もうスーパーリアリズム。もう砂粒とか小鳥の羽根とか、波とか、波でできる水の泡とかの細かな質感。あと、被写界深度表現。要するにピントが合っている・合っていない表現とかも含めて、本当にCGによる自然描写っていうのが来るところまで来たな!っていうか。もう圧倒的でしたね。

本当に自然ドキュメンタリーのように始まる作品。で、それがだんだん小鳥がキャラクター的なデフォルメが自然に加わっていくというあれなんだけれども。で、そこにテーマがですね、要はちっちゃな鳥の子供が親離れしていく。自立をしていくというテーマ。つまり、『ファインディング・ドリー』の前作の『ファインディング・ニモ』が「親の子離れ」というテーマを扱っていたことの、ある意味裏表な話を、改めてこのタイミングでその続編『ドリー』の前に置いておくというこの周到さも含めて、まあやっぱりピクサーはこういうのをやらせたら本当にもう右に並ぶものがないなという。圧倒的。さすがと言う他ない短編でございました。『ひな鳥の冒険』、これを見るだけでも相当価値があるんじゃないかと思いますけどね。

で、まあ気分がしっかり、ある意味テーマ的にも高まったところでの、今回の『ファインディング・ドリー』でございます。2003年、前作『ファインディング・ニモ』はですね、もちろん技術的に水中が舞台、水中表現という当時としては技術的な大挑戦っていうのも見事にクリアした作品で。技術的にはそういうのでありつつ、お話的には奪われた子供を親が探し出し救う話……と、思わせておいて、実はそこがメインではなく。子供は子供で実はたくましくいろいろやっていて、さっきも言ったようにむしろつい、過保護になってしまいがちな親というもの。ある意味普遍的な悩みでしょう。これは親御さん、みなさんあることだと思います。つい、過保護になってしまいがちな親心というものを踏まえつつ、親が子離れする話だっていうのがメインテーマっていう。その逆転が面白かったんですね。か弱い子供を救う話じゃないわけですね。そこがよかった。

で、今回のメインタイトルになっているドリーっていうのは、魚でいうとナンヨウハギという、身体が青でヒレが黄色になっている魚。オリジナル版ではエレン・デジェネレスさんという、『エレンの部屋』というトーク番組の司会で。日本でも見れますけどね、それで有名な方。吹き替えでは室井滋さん。もう本当に見事なハマりっぷりで演じられてますけども。ドリー、要はその、さっき言ったつい、過保護になってしまいがちな親という、カクレクマノミという魚のマーリンというお父さんがいて。これが過去にとらわれ、未来に怯えるキャラクターなわけですね。過去っていうのは、妻と子供たちを亡くしてしまったという悲しい過去にとらわれ、そしていま、自分が育てている息子を「危険な目にあわせたくない。あってしまったらどうしよう?」という風に未来に怯えている。過去にとらわれ、未来に怯えるマーリンという父キャラクターと対称をなすキャラクター。つまり、いまを生きるしかないキャラクターとしてドリーっていうのは設定されている。

で、そのいまを生きるしかないキャラクターをある意味際立てるために、短期記憶障害という設定。つまり、あったことをすぐ忘れてしまうという設定がつけられていると。なので、表面的にはコメディーリリーフなんです。このドリーというのは。ウザいけど人なつっこいキャラクター。で、父マーリンと最初はウザがられながらもだんだんバディ(相棒)化してくっていう、まあ明るいキャラクターなわけですけど。ただ、僕自身ですね、最初に『ファインディング・ニモ』という作品を見ていて、もうずーっと引っかかる部分だったんですよ。このドリーというキャラクターが。要するに、ウザいけど人懐っこいバディキャラみたいになっているけど、「えっ、っていうかでもこの人、明るいキャラとして扱われているけど、めちゃくちゃ悲しいキャラクターじゃないの、これ?」「えっ、こんな風に流していいのかな、このキャラクター?」と思いながら見ていました。

要するに、コミカルな扱いをされればされるほどに切なくなってくるっていうか。このキャラに関して引っかかる部分が。「えっ、このキャラの件、いまなんか流したけど、いま結構すごいことを言ってますけど。この人……」みたいな風に思ってて。たとえば、今回の『ファインディング・ドリー』の中にも、ドリーとマーリンとの馴れ初めを示すシーンとして一瞬出てきますけど。要するに、お父さんのマーリンが、子供がワーッとさらわれちゃって。追っかけて行くところにダーン! と出会い頭にぶつかっちゃってドリーと出会うわけですけども。その出会った直後に、「家族がさらわれちゃって、家族を探しているんだ!」ってマーリンが言う。それに対してドリーはですね、「家族……あれっ、私の家族はどこにいるんだっけ?」っていうですね。もう、よくよく考えてみなくても、すっごくかわいそうな身の上を想像せざるを得ないようなことを、もう登場してすぐに言っているわけですよ。ドリーさんは。

で、その後にどんどんどんどんまた、ピクサーですから。テンポ早いですから。カクレクマノミ親子の冒険。本当に怒涛の勢いで続いていく冒険の中で、プラスその彼女自身も記憶がどんどん消えていっちゃう。記憶がおぼろなわけですから。さっきの、「あれっ、私の家族ってどこだっけ?」っていうものすごい悲しい身の上を想像させるセリフがどんどんどんどん、文字通り流れていってしまうわけですね。『ニモ』という作品の中では。で、物語の終盤。お父さんが息子を見つけたと思いきや、「死んじゃった!」って勘違いして、失意のまま別れを告げようとする。そのお父さんに向かってドリーが、それまでは割とおどけたようなキャラクターだったんだけど、これまでにない真剣さで、「いや、一緒にいて。あなたといるとなんだか安心するから、一緒にいて」という風に懇願する場面があって。

要はそこで、「ああ、そうだそうだ。この人は絶対に天涯孤独だったはずで、ひょっとしたらこんなに長時間、他人と一緒にいたのは初めてなのかもしれない。初めて、彼女にできたかもしれない親密な関係みたいなのがあるから、こんなに切実に……実は擬似的にであれ、家族を求めているんだ」っていうのがそこでもう1回、改めてわかるっていう場面が一瞬だけ出てくるんですよ。ちなみに僕は『ニモ』の中でいちばん泣いちゃうのはこの瞬間なんですけどね。ドリーが必死でマーリンを止めるところで、「そうだよ! だからさ、この人、そうじゃん!」ってなるんだけど、それもやっぱりカクレクマノミ親子のその後にある再会っていうメインストーリーにどうしても埋もれてしまう。どうしても流れてしまう、あくまでもサイドストーリーであったことは否めないわけですね。彼女の心の痛みみたいなところが、そこまではやっぱり『ニモ』は物語上掘り下げているわけではないということになる。

あとプラス、これは本当にそれに比べれば割と細部のことかもしれませんが、なぜかドリーがいろんなことに関しては物知りである件とかも、『ファインディング・ニモ』という前作の中では全く説明がされていないわけですね。特に、今回の『ドリー』を見てから1作目の『ニモ』に振り返ると、「こんなにご都合主義的な設定、説明もなしでよく通していたね!」っていうぐらい、何の説明もしていないわけですよ。「クジラ語がしゃべれました」みたいなさ。なんでやねん!ってことじゃないですか。

ということで、いまやピクサー・ディズニー史上でも屈指の名作、人気作として地位を不動のものにしている『ファインディング・ニモ』ですが、僕的には良くも悪くもドリーというキャラクターが背負わされたものが、見た目の軽さとか明るさとは対照的に、ちょっと重すぎないかな?っていうか、なんであんな設定にしたのかな? みたいな。良くも悪くもです。だから、ずーっと気になってしょうがないみたいな。ドリー、かわいそうじゃない? みたいな風に思って。だからそういう意味では、ずっと引っかかり続けている作品ではあって。あとね、これは全然いまの話とは関係ないけど、『ファインディング・ニモ』が大ヒットした挙句、カクレクマノミが乱獲されているっていうね、もう最低すぎる話とかを聞いてガクーン! みたいなのはありましたけど。

なので、今回も前作に引き続き、今回は共同監督・共同脚本という形ですけど、アンドリュー・スタントンさん。『ニモ』の後はもちろん、あの超絶大傑作『ウォーリー』であるとか、あと世間的には大不評だった実写SF。僕は嫌いじゃないけど、『ジョン・カーター』とかね、手がけてらっしゃいましたが。アンドリュー・スタントンさんが今回の『ニモ』の続編を作るならっていう動機として、要は「ドリーの人生になにがあったのか? そして、なにが起こり得るのか?っていうところに焦点を絞った」っていう風にインタビューでおっしゃっているのを見て、僕的には本当に我が意を得たりというか。「そうだよね。その件、ものすごい放っぽりっぱなしだったし、それは片付けるべきだよ!」って僕はちょっと思いました。

なので、『ニモ』の続編を作るという意味……あると思う、と僕は勝手に超大納得していたわけでございます。で、実際に出来上がった『ファインディング・ドリー』、どのような作品になっているか? というあたり。まあ、結論。ざっくり言ってしまいますけども。言いたいことがないわけではない! メールにもあった通りでございます。みなさん、おっしゃる通り。言いたいことがないわけではない。主に、特にやっぱりね、人気作品の続編であることから不可避的に要請されることでもあると思うんですが、もうこれ自体は悪いことじゃないはずなんですけどね。工夫をこらした見せ場……工夫をこらした見せ場のインフレが起こっている(笑)。ことによって、ちょっと作品的に、リアリティとかいろんな言葉で言えると思いますが、ちょっとこれはどうか? というところが出てきてしまっているのは否めないと思います。

ただですね、こと、先ほどからずっと僕が言っております。すごく気になっていたドリーというキャラクターの物語。そのテーマ的な掘り下げとか描写の手際。そこの部分に限って言えば……要するにドリーの話だけに限って言えば、僕は見ていて本当に全身に鳥肌が立つようなっていうか、何重の意味でも奥深い感動が用意されている作品だなと思う。これはちょっとすごいことを描こうとしているな!っていう風に思いました。だから非常にアンビバレントな気持ちを抱く作品ではあります。

ではまず、ちょっと先に言いたいことがないわけではない、「言いたいこと」の方をちょっとサクサク片付けておいちゃいますけども。たとえばですね、魚たちが、特に我々人間たちが生きている領域……要するに、当然地上でどういう風に生き延びていくか? たとえばどう移動するか?っていう問題。これ、魚が主人公である以上、当然ありますよね。で、今回の『ドリー』や『ファインディング・ニモ』に限らず、ピクサー作品では、その物語世界の中では圧倒的な弱者。圧倒的に小さきものであるような主人公たちが、最後の最後に、それこそ作り手たちがいろんな工夫をこらした仕掛けで、要は本来その小さきものたちには不可能であるような大移動とか、大きな飛躍を成し遂げて……っていうのがクライマックスに来ることが多いわけですね。

『トイ・ストーリー』だったら去っていくトラックにどうやって……こんなの、絶対に追いつけないっていうのに追いつけるとか。それこそ、『ファインディング・ニモ』のクライマックスは水槽から窓の外までどうやったら出られるんだ? もう距離にしたらわずか数メートルだけど、魚っていう人間世界の中ではあまりにも力なきもの、小さきものにとっては巨大な障壁。それをどうやってやるか? しかも、水槽から出たはいいが、いったんニモとかが水がないところにボチャーンって横たわっちゃう。こうなっちゃったらもうお終いだと。「ああっ、もうダメじゃん?」って一瞬絶望しちゃうような。絶望感半端ないような、そのぐらいの障壁が設定されていたからこそ、最終的に、まあ本来ならあり得ないぐらいの大脱出。数メートルだけど、大脱出を成功させるところにものすごい大きなカタルシスがあったと思うんですよ。

ところがですね、はっきり言って今回の『ファインディング・ドリー』の魚たち。地上をですね、割と自由に……(笑)っていうか、なんなら非常に雑に移動できるようになっちゃっていてですね。特に、やっぱりこれ文句があったようですけどタコのハンクというですね、地上においてはほぼ万能なやつが登場してしまったため……しかも、なんか塩水であろうが真水であろうが掃除水であろうが、なんかボチャーンって落っこちて、とりあえず水分であれば生きられるみたいな。要所要所にどれだけわずかであれ、水分があればとりあえず余裕で生きられますぐらいな感じになっちゃっているため、僕は見ていてだんだん、「えっ、魚ってこういう生き物!?」っていう感じにだんだんなってきちゃってですね。そうするとやっぱり、その危機ラインみたいなものがどんどん下がってきちゃうと、話的にいくら盛り上げても、なんかだんだんどうでもよくなってきちゃうということがございますね。

挙句ですね、たとえば前作『ニモ』のクライマックス。人間の目から見ればですよ、魚とか鳥が勝手に大暴れして逃げちゃったっていう、一応自然法則の中で人間側の解釈可能な事件じゃないですか。あれは。だったんだけど、今回のクライマックスで起こることは、もうはっきり言って要するにさ、「前回以上の見せ場! 前回以上の見せ場!」っていう風に工夫を重ねるあまり、あり得なさのインフレが行きすぎて、もう完全に荒唐無稽以外何者でもない領域に行っちゃった。つまり、人間がその光景を見たら、「えっ? 知性あり?」っていう感じになっちゃう領域に行っちゃっていると思うんですね。完全に。

あとはですね、前作を超えようと工夫するあまり、っていうのもあるかと思えば、たとえばカリフォルニア湾について直後に巨大イカに襲われて逃げるという一見派手な見せ場があるんだけど。ここ、船の中の狭いパイプ状の空間を巨大なものに追いかけられるっていうその画の見せ方とか構造を含めて、前作でサメのブルースっていうキャラクターに追っかけれれるシーンの薄〜い焼き直しにしかなっていないとかね。なので、余計に「ここ、いるか? 無理して見せ場作らなくていいのに……」みたいな感じがしてしまうとかね。もちろんね、オーストラリアからカリフォルニアに移動するのは、ウミガメがもう完全に万能のワープ装置になっているとかさ。そういうのももちろんありますし。

で、さっきから言っているような工夫した見せ場のインフレ。移動のダイナミックみたいなのが大きくなるに比例して、特に終盤に向けてキャラクターの居場所とか出入りが本当に目まぐるしすぎて、結果最後の方だと誰がどこでなにをしているのか。最初に見終わった後、「えっ? どっちがどっちをどう助けたんだっけ?」みたいなのがもうわからなくなっちゃうぐらい、出入りが激しくなっちゃってよくわからなくなっているということだと思います。で、最終的に、ぶっちゃけこの話、終わってみれば「ええと、ニモとマーリンってなんか役に立った?」みたいな(笑)。感じになってしまっているというね。なぜ出るかと言えば……前の話の主役だから! みたいな。

ということで、はっきり言ってこういうところに不満点とか低評価っていう風になってしまう人が多くても、僕はある意味しょうがない部分はある作品だと思います。アメリカなんかでも、すごく低評価な人も結構多いんですけども。ただですね、さっき言ったようなクライマックス盛りすぎ問題。いくらなんでも、ちょっとクライマックス盛りすぎてなんか変なことになっているよ!っていうのも、おそらくそのクライマックスの手前に来る、物語的、テーマ的な真のクライマックスが実はあるわけです。ドリーの物語の。で、その重さとあまりの深さとバランスを……要は、曲りなりにも全世界ファミリー向け夏休みブロックバスター大作として、あんな深くて重い話じゃ終われないっていう。もう一盛り上げしないと終われないという、要はバランスを取ってみせるために、やっぱりこんぐらいやんなきゃならなかったのか? という気もします。

というぐらい、さっきから言っているようにドリーの側の、ドリーの人生の物語という部分に関しては、本当にちょっと腹にドスン! とくる、重たくて本当に深いものを提示してくる話だと僕は思っています。まず、もうさっきね、言いましたけど。冒頭、幼いドリーが両親とはぐれて、たった1人で海で成長していくというプロセスが描かれるんだけど。そこからしてもう……すいません。もう、ウワーン! です(笑)。ウワーン!(泣) ああ〜、声変わりしちゃった……とか(そういう描写だけで泣ける)。これ、お子さんをお持ちの親御さんが見たら、もうちょっとたまんない場面じゃないですか。これ。

特に、要はドリーの1作目ではさっき「明るいキャラクター」って言っていたけど、ドリーの人当たり。まず最初に、どんなキャラクターにも「ごめんなさい」ってすぐに言う。すぐ、「ごめんなさい」って言う。あとは、誰にでも感じよく親切にしようと振る舞っている。あれは、何よりもまず彼女自身がたった1人で生き残るための術だったんだ!っていうことが、その短いシークエンスでわかるわけですよ。こう、ポンポンポン……「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」で。子供があんな1人で生きていって、あちこちで「ごめんなさい、ごめんなさい」って言いながら生きてるのを想像してみてよ、もう! ねえ。だからそうなると、そうやって逆算すると、彼女の登場シーン全てが切ない意味を帯びてくるわけですよ。

とかさ。そして言うまでもなく、さっき言った彼女の物語のクライマックス。つまり、ざっくり言って彼女はその物語的なクライマックスで全てを改めて失ってしまう。要するに、彼女を仮にも、無意識にせよ生き延びさせてきた動機も失ってしまうし。仲間ともはぐれて、記憶も決定的に失ってしまって。もうかすかに残った記憶さえ、なにもなくなっちゃう。その場面っていうのは本当に画面が彼女の姿を残してほぼ大画面が真っ暗になっちゃうっていう。これは『トイ・ストーリー3』のあの死の光景に匹敵する、本当に恐ろしいシーンだと思いますね。さっきから、僕がすごい苦言を呈している足し算的な見せ場シーンの逆の発想なわけですよ。なんにもなくなっちゃうんですよ。大画面の中で。でも、だからこそ、その生きていた証みたいなもの全てを失ったかに見える彼女が、それでも残る自分らしさみたいなのを頼りに、少しずつ、文字通り画面の中のわずかな光明を見出していく。生きていく道を見出していく展開がもう本当、魂を揺さぶられる。こんなこと、ブロックバスター映画でやるか!っていうことをやる。

つまりこの話、もちろん障害っていうものに対するメタファーでもある。あと、子の未来を心配する親という非常に普遍的なメタファーでもあるんだけど、それら全部をひっくるめて、アイデンティティとは何か?っていう究極的に普遍的なことを問うている。つまり、「その人がその人であることとは何か? その人がその人であること自体の価値とは何か?」っていう、そういうちょっととんでもないレベルの問いかけをしてくる。しかもそれが、前作とは桁違いに進化したグラフィックス。特に海藻の森っていうところから差し込む深い光みたいな。それの微細な変化っていうのによって、完全に絵的に表現しているわけですよ。それが。ということで、もう完璧だと思います。

そして、最後の最後にそれを乗り越えて。ラスト。最後のフラッシュバックで元から、親から受け継いだ、つまり自己肯定っていうのがちゃんとあったんだ。全て失っていたんじゃないんだ。最初から全部持っていたんだってことを思い出すっていうこのくだりまで含めて、本当にこのドリーの物語の部分はもう完璧だと思っています。ドリーの物語の部分だけで100億点、全然出ているんで。他の、(盛りすぎ問題の最たるものである)トラックの場面とか、僕はもう知りませんよ。「トラックなんて出たっけ?」っていう(笑)。僕の頭の中では、ドリーが出てくる部分だけで編集し直したバージョンが出来上がっておりまして。しかも、ニモとマーリンと一緒じゃなくて、1人で旅をして行って。で、結局親には会えないんだけど、「自分を待っていてくれた」っていう真実に気づいて、「ありがとう。私はできた。たどり着けたよ」って。で、新しい家族のハンクを連れて帰っていく。で、「親に会えた」って言って帰ってくるっていう。

どうですか? この完璧な『ファインディング・ドリー』。俺の頭の中にはもう、それが上映されているんでね。トラックなんか出ましたっけ? ねえ。ということで、まぁこんな暗くて地味な(物語は実際には許されないと思われるので)……ないものねだりもいいところでございます。えー、ということでね、日本語ネイティブの方にはやっぱり吹き替え版の方が、本当に室井滋さんのさっきのクライマックスシーンの室井さんの演技も本当に素晴らしいし。吹き替え版、本当におすすめです。ただ、あの八代亜紀フィーチャリングはですね、声がシガニー・ウィーバーに似ているからなのかどうか知らないけど、ちょっとネームバリューとしてノイズが大きすぎるみたいなのがありますけど。ただ、ねえ。最後の『Unforgettable』っていうね、ナット・キング・コールの名曲のカバーに乗せてっていう、テーマ的にも、さっき言った海藻表現と合わせてのエンドロールも本当に見事ですし。ぜひぜひ大画面でね、ご覧ください。あの、私の中の『ドリー』は完璧です。もう、泣きました! どうぞご覧ください。

(ガチャ回しパート略 〜 来週の課題映画は『シン・ゴジラ』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。