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宇多丸、『マティアス&マキシム』を語る!【映画評書き起こし 2020.10.2放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『マティアス&マキシム』2020925日公開)です。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今週、扱うのは925日に公開されたこの作品、『マティアス&マキシム』

(曲が流れる)

2009年のデビュー作『マイ・マザー』以降、『わたしはロランス』『たかが世界の終わり』などなど、いろいろ世界で高い評価を集めるグザヴィエ・ドランが、監督・脚本・主演を務める青春ドラマ。幼なじみのマティアスとマキシムは、友人の妹が作る短編映画の中で、男性同士のキスシーンを演じたことをきっかけに、心の底に眠っていたお互いへの気持ちに気づき始める。主人公の1人、マキシムをグザヴィエ・ドランが演じているほか、グザヴィエ・ドランの本当の友達とかが大挙出演している、という感じでございます。

ということで、この『マティアス&マキシム』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「少なめ」。あら、そうですか。ちょっと地味めな感じがしたんですかね? ですが、賛否の比率は、褒める意見が7割。女性からの投稿がいつもより目立ちました。

主な褒める意見は「セリフで語らず、演出やショットで見てる心理描写が上手い。情景も美しい」「思ったよりほろ苦いラブストーリーだった。アラサー世代に刺さる」などがございました。また、ラストの解釈は人それぞれで、その読み解きを楽しむような投稿も多かったです。一方、批判的な意見としては、「ナルシスティックな演技が多く辟易した」「冗長で退屈」「人物描写も中途半端でドラマが盛り上がらない」などがございました。

■「見る人ごとにシーンやカットの意味が変わるなんて本当に映像向き」(byリスナー)

代表点なところをご紹介しましょう……ラジオネーム「ありばる」さん。「今回はドランの作品の中でも、ストーリーではなく映像寄りなので、感想を言葉にするのは難しい。マティアスとマキシムがお互いの思いを言葉にできないのはこんな感じなのかと思い至りました。まさにラブストーリー。人物造形が秀逸です。出世を約束されている弁護士のマティアスは、友人との会話でも言葉警察になってしまうほど言葉にうるさい。

それほどの彼がマキシムに面と向かった時には何も言えなくなってしまう。一方、マキシムは普段から語彙が少なく、会話を求めてるのにうまくいかない。このマキシムがむくんでいるような太り方と指をしゃぶったりするのは、出したい言葉を全部飲み込んでいるからなのかと思いました。そしてドラン作品で毎回感心するのは心象風景と背中から人物を追うシーンがセリフ以上に雄弁なところ。

私は風景描写や人物の仕草に勝手に意味づけするのが好きなのですが、ドラン作品はマイ解釈の宝庫です。話の展開を追う映画も楽しいですが、見る人ごとにシーンやカットの意味が変わるなんて本当に映像向き。ラストですべて明かさず観客に委ねるさじ加減も上手いな。今回は感想をほぼ忘れた頃に違う解釈をしながら2回目が見たいです」というありばるさん。

あと、これはちょっと長いメールで全ては読めなくて申し訳ないですけど、ラジオネーム「チワワワイン」さんが、これ、さっきの「マキシムが語彙が少なくて」というこちらのメールともちょっと通じるんですけども、このチワワワインさんは、10数年前にケベック出身のご夫婦が運営するフランスのワイナリーで働いたことがある、ということで、このケベック……要するにカナダの中のフランス語圏で、グザヴィエ・ドランさんはそこの人であり、今回の作品もそのケベックで撮っているわけなんですけども。

その、カナダの中におけるケベック、の感じのニュアンスであるとか、あるいはその劇中のマキシムのしゃべり方……要するにちょっとフランス語としても文法的におかしいところがあったりする、みたいな。要するに、彼がちゃんと教育を受けられてなかったであろうことがなんとなく見えてくるとか、そういうですね、そのフランス語文化圏としてのケベック州、詳しい方ならではのメールで、これは非常に勉強になりました。チワワワインさん、ありがとうございます。

一方、よくなかったという方もご紹介しましょう。「ゴジラのまごマゴラ」さん。「『マティアス&マキシム』をアップリンク吉祥寺で見てきました。僕は過去のドラン作品をほとんど見ており、大好きな作家の1人です。しかし今回はよくなかったと思います。たしかにドランらしいテーマではあるが、マティアス、マキシムどちらにもスポットを当てながら、どちらにもフォーカスしきらないためにどちらにも感情移入ができなかった。また2人がほとんど会話をしないため……」。実はあの2人が会っているシーンって、そんなに多くないんですね。

2人の葛藤が全く見えてこない。ラストの結末は宙ぶらりんで何を乗り越えたからああなったのかがわからない上に、ある意味予定調和的にも見えてしまった。ドランらしい、ストーリー性は少なく繊細にキャラクターを描き出していく薄味な演出が好きだったが、今回はハリウッド的な起承転結のある大味な演出を意識するあまり、彼の作家性が食いつぶされてしまったような印象を受けました」というようなご意見でございました。

「グザヴィエ・ドランは、素直に見ろ!」

はい、ということで私も『マティアス&マキシム』、今回はヒューマントラストシネマ有楽町と、あとは前に、森直人さんをお迎えしてグザヴィエ・ドラン入門を解説していただく前にちょっと、ひと足お先に本作、拝見しておりました。ということで、グザヴィエ・ドラン。私の映画時評で扱うのは恥ずかしながら初めてなわけですね。89年生まれ。19歳で『マイ・マザー』でね、センセーショナルなデビューを果たして以来、本当に作家的な監督……「若き天才作家」的、スター的な存在として、本当に久々に出てきた方、ということを922日(火)、映画評論家の森直人さんをお招きしてのグザヴィエ・ドラン入門解説、こちらでも伺いましたけども。

それでですね、実際その時に、あの解説で森さんに引いていただいたその補助線をもって今回のその『マティアス&マキシム』とか、改めてそのグザヴィエ・ドランの過去作……この機会に僕は、改めて全作見直してみました。今までちゃんと向き合ってこなかったんでね、これを機会に勉強させていただいたんですが。やっぱりね、森さんに引いていただいた補助線を元に見ると、ものすごくすっきり、いろんなことが腑に落ちるようになって。本当に森さんありがとうございました! という感じなんですけども。

僕なりのね、ちょっとすごくざっくりした言葉で、グザヴィエ・ドラン作品の理解の仕方を言葉にするならばね、やっぱりこういうことだと思います……「グザヴィエ・ドランは、素直に見ろ!」っていうことだと思いますね。とにかくですね、彼の作品は、その時その時の登場人物の感じていること、思ってることが、そのまま素直に、映画内の表現に反映されるので。たとえば「チクショーふざけんな!」ってなれば、たとえばスローモーションでガラスがバリーン! みたいになったりとか。

「マジ超最高にいい気分! 解放された気分!」となれば、それまで狭かった画面が、文字通り劇中キャラクターの手で、広げられたりもする。しかもそこでかかる曲が、オアシスの「Wonderwallとか、要するに大ネタもてらいなく……「でもこれ好きだし、いい曲なので」みたいな感じで、てらいなくかけてしまう、っていう感じだったりとか。逆にそこから、厳しい現実を改めて突き付けらればもう、再びそのせっかく広がった画面が、またショボーンと、スクリーンの人物のテンションとシンクロして、まさしく「萎縮」していく、とかいった感じで。

一見、たとえば実験的だったり抽象的だったり唐突に見えるような表現も、かっこつけとか、スタイリッシュであるためにやっているわけでは、全くなくて。ドラン作品というのは本当に、素直にそのまま、「感じた感じ」を映像、映画にしているだけなので。こちらもそれを、素直にそのまま……深読みというよりはもう、要するに「そのまま」受け取って解釈すると、わりと「ああ、そうだよね」っていう風にすっきり来る、というか。そういう感じだと思います。「グザヴィエ・ドランは、素直に見ろ!」っていうね。

■自分たちの仲間と撮った、親密さ、飾り気のない雰囲気が魅力

で、その意味で、今回の『マティアス&マキシム』は特にですね、これまでのグザヴィエ・ドラン作品と比べても際だって、さらに素直! 飾り気がなく、親密な語り口が、すごく親しみやすくチャーミングな一作になっているのは、間違いないと思いますね。まあ前作がね、初の英語作品にして、ハリウッドのスター俳優がバンバンキャスティングされているという、2018年の作品『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』というあれで。もちろんあれも非常に、ドランの個人的ないろんなモチーフが入った作品、非常にドラン的な作品であることには変わりはないんですが。

でもやっぱり、まあドランのキャリア的には、要するに外の世界に飛び出す、国際基準の土俵に上るという、言わばその挑戦作ではあった、っていうのは明らかなのに対して、脚本そのものはこの『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』より前から書き始められていたというこの本作。そのケベックで、自分たちの仲間と撮りたい、という意志で撮ったというこの本作。ドラン自身の友達たちをキャスティングし、本当にアットホームな……というか実質、この映画はですね、多くの場面が、誰かの家の中でわいわいと仲間同士がくっちゃべているという、ほとんどホームパーティーシーンの連なりでできてるような作品なので。

まあ、さっき言ったように全編にその親密さ、飾り気のない雰囲気というのが満ちている、という。ちなみにその、ドランにとって英語圏に踏み出す前後に置かれた作品だっていうことを考えると……その心情が反映された作品であると考えると、この『マティアス&マキシム』、本編のかなり終わりの方で、ドラン自身が演じるそのマキシムがその拙い英語で電話しているのを、隣の知らないおばさんが「あんた、それでオーストラリア行くつもり? ビーチは最高だけど、その英語じゃ通じないよ」とか不躾に絡んでくるくだりとか、ちょっと自虐ギャグにも見えて面白いですよね。

そんな感じで、年配女性とのコミュニケーションの距離感の違い、そこから来るギクシャクだったりユーモアだったり、っていうのはドラン作品によく描かれていて、その最たるものはもちろん、本当に全作に出てくる「母と息子」問題ね。ちょっとバランスが偏った母と息子の関係っていうのが、かならず出てくるわけですけど。一方で逆に、父親的な存在……まあ父親を含めたその年配男性の存在感というのは、何かものすごく距離があるというか、よそよそしく、メインの話にはほとんど絡んでこないぐらい希薄、っていうこの対照的な感じも、ドランの作家性として興味深いかなと思いますね。

ということで、「グザヴィエ・ドランは、素直に見ろ!」の心構えに従ってですね、今回の『マティアス&マキシム』を見ていくと、冒頭から既に、森さんも仰っていた通り、本当に古典的なまでの、正統派な人間ドラマ演出の積み重ねっていうのを、非常に丁寧に、着々とやっているということが分かる、という。

■マティアスとマキシム、親密でありながら、微妙な緊張関係も孕んだふたり

まずド頭。字幕が出て、本作を構想するにあたって影響を受けた四作品、『ブルックリンの片隅で』と『ゴッズ・オウン・カントリー』と『ある少年の告白』、そして『君の名前で僕を呼んで』、それぞれの監督に「本作を捧げる」という字幕で……これもまず、この姿勢がまずものすごく、素直ですよね。

「これらの映画に影響を受けて作りました」っていう(笑)。しかも比較的最近の映画、っていう。で、本編が始まると、ドラン自身が演じるそのマキシムという青年。顔立ちはもちろん、演じているのがドランなんでね、美青年なんだけど、彼から見て右の頬に、大きな痣のようなものがあって。途中、彼が酔ってというかラリって、鏡の前で、その痣を手で隠してぱっと取ったり、手で隠してぱっと取ったり、っていうのを繰り返していくうちに、一瞬、その痣が消えたように見える、みたいな場面があったりとか。

それに先立って、普段仲間内ではもちろん、当然のように、いちいちそんなことを口に出したりはしないというその痣の件、その身体的特徴に関して、喧嘩の弾みで、それがウッと口に出ちゃった……その瞬間、場が凍りつく、というような展開があったりなんかして。要は彼、マキシムが内心抱いてるコンプレックスだとか、世間との距離感、疎外感、肩身の狭さのようなものが、この痣に、まさしくわかりやすく、ストレートに象徴されてる、と言えるわけですね。

で、そのマキシムと、彼よりは上背もあって、ヒゲも生えていて、より男性的な印象を与える、ガブリエル・ダルメイダ・フレイタスさん演じるマティアスという、このもう1人の人。ちなみにこれ、我らが大島依提亜さんデザインのパンフに載っているグザヴィエ・ドランさんのインタビューによれば、マティアスとマキシムというこのネーミング自体に、ある種、その社会階層の差というのが込められているらしいんですね。「マキシムというのは労働者階級に多い名前だ」なんてことを仰っていますけども。で、実際にマティアスは、エリートなわけですね。非常にビシッとしたスーツを着込んで、すごいきれいな、冷たい感じがするようなオフィスで働いている。

それに対してマキシムは、バーテンの、それもバイト、みたいな感じで。それで家庭は崩壊寸前、みたいな感じ。それでマキシムは「マティアスのお父さんに仕事の推薦状を書いてもらいたいんだけど……」なんていう、この件が実はずっと尾を引いていたりして。要は、マキシムとマティアスをはじめ、友人同士……というか、カテゴライズは何であれ大切に思い合ってるような個人同士の結び付きと、一方ではそれとは対照的に、明らかなその社会的境遇の違い、というその残酷な現実。この両者がですね、乖離、矛盾している、とも言えるこの構図が、彼らの関係性に、さっきから言ってるような親密さ、気のおけなさの一方で、常に微妙な緊張感とか、陰影をもたらしてもいる。

たとえば仲間内の中で、やっぱりマキシムくんだけ、ちょっとだけ貧乏っぽい、みたいなところが、お母さんのちょっとした一言とかからふっと出てきたりする、というようなのがまた、この本作の味わいを増しているあたりだと思います。

■ふたりの立ち位置で示される関係性の変化

それでとにかくこのマキシムとマティアス。どう見ても、長年の親友同士なんでしょうね。冒頭、2人仲良く並んで、ジムのランニングマシーンで走りながら、「彼女と上手く行ってるのかよ?」なんて話をしているわけです。これが冒頭のシーンなんだけど。

この、マキシマムとマティアスが「同じ方向を見ながら、並んでいる」という、この位置関係が非常に重要で。皆さん、映画において、人物がどう立っているか?っていうのはめちゃくちゃ大事ですからね。ここから1幕目いっぱい、この2人が、ふとしたことから、一応あくまで演技としてキスをしたことで、お互いにその心にざわめきを感じ、これまでのその親友という関係性も、ちょっと揺らいでいく。お互いに「親友だよね!」っていう感じだったのが、「そういうことか……?」っていう風にちょっと揺らいでいく、という。

で、そこまでは……要するに1幕目が終わるまで、2人の関係性が揺らぎだすまでは、マティアスとマキシムは、基本的には常に、「同じ方向を見て、並んで」立たされています。あるいはですね、たとえば、その道路をね……2人が車に乗って友達の家に向かっていくんですけど、その道路を映す映し方も、「並行して並ぶ2つの道」という風に、真ん中にカメラを置いて撮っていたりとか。極めつけはですね、その2人が、撮影でキスをするわけです。そのキスも、まあ肝心のその瞬間は映さない。ちょっと観客には寸止めをする、ということで、よりその瞬間の特別性っていうのを際立たせる、という。これもまあ、わかりやすい演出ですけどね。

際立たせるような感じで、2人はキスをしました。その瞬間、2人の心がざわめいた! それを象徴するやり方として映されるのが……まず、2人がチューをした。心がざわめいた。ブワーッと風が吹き出して、2つの並んだブランコが、その突如吹き出した風にあおられて、激しく揺れ出すわけです。文字通り、2つの並んでいたブランコが、揺れ出すわけですよ。本当に、グザヴィエ・ドラン作品は素直でストレート!ってことが分かる描写ですよね。

あるいはその翌朝、悶々として、あまりよく寝れなかったマティアスが、まさしく「無方向に」泳ぎまくった結果、迷っちゃった、みたいなのも、非常に分かりやすい、シンボリックな描写といえると思いますね。ということで、最初の方では2人並んで、安定していたこの2人の関係性が、その問題のキス以降揺らぎだして、その2人の位置関係、お互いがどの方向を見ているのか、そしてそれがどう変化していくのか……要は、もはや「並びの関係」ではいられなくなった2人が、じゃあいつ「正面から向かい合う」のか?という。これ、本当に具体的な位置関係として、本作はまさに……並んでいた人が、もう並びじゃいられない、それでいろんな角度にいるその2人が、じゃあいつ正面から向かい合うんだ?っていう、そこに至るまでの話、と言える。これは本当に、非常に正しく「映画的」な語り口と言えますよね。

■「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」が「第2思春期」を迎える時に

マキシムとマティアスね、さっき言ったように2幕目、キス以降はですね、事実上さっき言ったようにかなり異なる社会階層にいるため、2幕目はそれぞれの日常が描かれているんですけど。要するに実はこの2幕目は、ほとんど2人は会ってないわけですね。交互にその日常が描かれていく。

マキシムは、またしてもアンヌ・ドルヴァルさん演じる、もう何度目だ?っていうぐらいの、アンヌ・ドルヴァルさんが演じる、ドラン映画特有の「困ったお母さん」というか……でも今回のお母さん、ちょっと強烈で。森さんも言ってましたけど、ちょっとほとんど毒親っていうか……息子にあんな態度を取る人、います?

「ペッ!」ってね。で、そのお母さんから逃げるように、オーストラリアへの移住準備をしている、という。で、そのバスの中でですね、ひとつ印象的な場面。美青年にですね、色っぽく目線を送られて。マキシムくんも、まんざらでもない、みたいな顔をしてるわけです。

と、思っていたら、さっきの母親との口論の名残が……っていう。で、それで向こうの青年も「えっ、なんだ?」っていう風にドン引きしだす、っていう。要は、彼が自分らしく生きようとしてきたのを抑圧してきた、その元、元凶のようなものを示すような、というかね。何が彼を阻害してきたのか?っていうか。一方でマティアスさんは、そのオフィスで働いている。でも、そのオフィスでちょっと目をやると、なんか枯れかけたような植木鉢があって。それが、もう1回(後日)見ると、それが撤去されている。なにか、過ぎ去っていくというか、無残に捨てられていく何か、自分が見捨てていく何か、みたいなものなのかはわかんないけど、それを見ていて、ちょっと微妙な気持ちになったりしている。

で、彼は英語圏からやってきたそのビジネス相手の接待をしてるわけですけど、この相手というのがまた面白くて、ちょっと引くほどマッチョに振る舞う男なんですね。なんだけど、明らかに何かを抑圧しているからこそ、こんな過剰に「男らしい」振舞いをしてみせてる人らしいってことが、だんだん浮かび上がってくる。つまりこの英語圏からやってきた彼は、マティアスの鏡像関係というか。マティアスを鏡で映したような存在なんですね。だからマティアスは、彼を見てるとちょっとまた、さらに心がざわめいてくるというか。

自分の本質を認められないし、社会的にその「何者か」になりきる手前で、ちょっと……要するに、あの英語圏から来た白人の男も、「もうすぐ結婚するんだ。俺は望み描いてたような立派な男になるんだ」っていう(ことを言う)。でもたぶん、彼は何か(本当は思うところが)あるわけですね。で、それはやっぱりマティアスの心情でもある、という。で、ですね。ここで、僕が考えるに、本作、ドラン自身の実年齢とも当然シンクロする、非常に大きなポイントがあって。つまり、主人公たちの年頃。20代後半から30代前半。私はこれをですね、「第2思春期」と呼んでおりますが。

彼らがその第2思春期……つまり、もはや若者ではなくなっているという。実際にその主人公たちは、劇中、さらに若い世代から、オッサン世代扱いされてるわけですね。で、そのあたり、やっぱりドランというのは、「アンファン・テリブル」最新型として10年前に登場したけど、10年たって、「今のオレの立ち位置、このぐらい」っていう風に、自己認識が現われてるところも面白いですけど。ともあれ、もう若者とは言えない歳。そして、いよいよ「何者か」として、社会的にその存在が固定されていくぐらいの歳ですよね。

「ひょっとしたら、これまで自分は『そうだ』と思い込んでいたものと違うんじゃないか?」

要するに、会社で働いていればそれなりの役職になっていったりとか。いよいよ、要するに「自分はこれだ」という風になっていく。なんだけど、「じゃあ別の道を選び直すなら、それは今なのか?」みたいなことで……そんな迷いと旅立ちと、なんかいろんなあれに迷いだす季節。だからこの季節、年齢が、第2思春期なんですけども。まさに主人公たち、年齢的にそこに差しかかっている。

ということこそが、それこそマキシムとマティアスの、「ひょっとしたら本当の自分とか、自分が本当に求めていたものっていうのは、これまで『そうだ』と思い込んでいたものとは違うんじゃないか?」っていう、そういう気持ちの揺らぎともこれが完全に重なって……という。今作の物語を、一際味わい深い、そして普遍的なものにしている。要するに、誰もがやっぱり20代後半から30代前半、揺らぎを経験する。いずれは、もしくは過去には経験しているんじゃないかな、という風に僕は思いました。

なのでこれは、要するに彼らがキスして心が揺らいだ話なんですけど、その彼らが結局、そのセクシャリティ的にどういう方向に行くか、もしくはどういう関係になっていくか、なんてことは、この段階ではわかんないし、彼らもわからない。で、もっと言えば我々って、そんなに自分のセクシャリティのこととか、わかっているわけじゃないんですよね。というのは、カテゴライズっていうものは、後からつけたもんだから。それは社会が。

そして、これぞグザヴィエ・ドラン、本当の友人たちをキャスティングした効果というべきか、この第2思春期を迎えている青年たちの、気のおけない、さっきから言っている親密なやり取りそのものが、部外者にはよく分からない内輪ノリのギャグとかも含めて、なにかものすごく、自然な多幸感にあふれている。これが本作の大きな魅力だと思いますね。

■近年の映画ではあまり見なかった「男の子のいいところ」が出た映画

あの先週の『mid90s ミッドナインティーズ』が、男の子同士の集団の危ういノリというのを描いていたのと、ちょっと裏表の関係というか。この『マティアス&マキシム』では、今時珍しくと言うべきか、仲良しの男の子チームのポジティブサイドっていうのが、とてもリアルに描かれていて。だからこそ、マキシムと、特にマティアス側の、「これを壊したくない」っていう、葛藤から来る苛立ちみたいなものの、切実さが増すというか。

たとえばね、なかなかその深い傷、禍根を残しかねない喧嘩の後でさえ、ものすごく男の子っぽいやり方で……それこそマウント取り合いではあるんだけど、かっこつけながらなんだけど、さらりと仲直り、みたいなのを、お互い、周りも促してみせる。「ウォイ~! お前よお、だからよぉ~!」みたいなことを言いながら、促してみせる感じとか、すごく男の子っぽい……男の子のいいところ、みたいなのが出ている感じがするし。そもそもマティアス以外のメンバーは、マキシムとマティアスの、なにか友達以上に親密な関係っていうのを、口に出さずとも感じていて。で、どうやらその彼らは、そこはわざわざマッチョに茶化したりなんかは絶対にしないで。

その2人の仲の修復を、やはりそれとなく、「おい、行ってこいよ、バカお前」「お前、邪魔なんだよ、ちょっとあっちに行ってこいよ」とかなんとか言って、促す、という。要はね、すごく「気持ちがいい連中」なんですよ! それがすごくいい……なんか近年の映画であんまり見たことなかったかな、という男の子同士の気持ちいい感じ、だと思います。終盤、社会的立場、階層ももちろん、そのセクシャリティ的な思い込みも一切関係なかった時代の、純粋な愛の関係、その可能性を過去に見て……というあの瞬間。

要はその、失われた何かっていうのに胸を痛めたことがある人であれば、もう誰もがハートを打たれずにはいられない……その意味では僕は、『ブロークバック・マウンテン』に通じる精神性がある作品かな、と思いましたね。失われたイノセンス、という。で、それに引きかえね、今のオレたちはすっかり、社会だの金だのに色付けされてしまって、という、やはり悲しい気持ちになって終わるのか、と思いきや……あの電話で。ねえ。

親しみと痛み、その愛おしい感情を思い出させてくれるような、とてもいい映画

さっきから社会階層が違うって言ってるけど、何? この無神経さ、耐えらんない!って思いきや……「いやいや、まだ何も決め付けなくていいじゃん。俺たちはここにいるのだから、俺たちでそれは選んでいけばいいじゃん」という、非常にこれはドラン作品としては新鮮なまでの、さわやかな着地。その切れ味も、本当に拍手! ですし。その彼らがこれからどうなるのか、あるいは2人の関係が何に向かっていくのか、それはこれからっていうか、そんなの決めなくてよくない? みたいな、その切れ味、着地っていうのは、すごく今にふさわしいし、映画の切れ味としても見事なものだ、という風に私は思いました。

あとはまあ、本筋とは関係ないけど、あのリヴェットくんのピアノのシーンとか、本当に笑っちゃうような場面もいっぱいあって。こうやって弾いていて、後ろでずっとブルジョワのおばさんたちが話をしてて。ずっと頑張ってピアノ弾いているんだけど……みたいな(笑)。

ということで、本当にですね、幼馴染とか古い友人と会う時の、気恥ずかしさ込みの嬉しさ、みたいな……親しみと痛み、いずれにせよその愛おしい感情を思い出させてくれるような、とてもいい映画! 過去作、ドランのそれとはまた違うテイストかもしれないけど、とてもいい映画でしたし、グザヴィエ・ドラン、今後はしっかり真面目に見たいと思います。ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画はTENET テネット』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!◆TBSラジオ『アフター6ジャンクション』は毎週月-金の18:00~21:00の生放送。