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宇多丸、映画『帰ってきたヒトラー』を語る!

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

宇多丸、曰く……

「映画館では、今も新作映画が公開されている。
一体、誰が映画を見張るのか?
一体、誰が映画をウォッチするのか?
映画ウォッチ超人、“シネマンディアス”宇多丸がいま立ち上がる——
その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

帰ってきたヒトラー

宇多丸、映画『帰ってきたヒトラー』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(2016.7.2放送)

宇多丸:
今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して当たったこの映画……『帰ってきたヒトラー』!

(BGM:ワーグナー『ワルキューレの騎行』が流れる)

現代に甦ったヒトラーが、本人のモノマネをするコメディアンと勘違いされ、あっという間に大スターになってしまう様を描いた社会派コメディ。原作はドイツでベストセラーになったティムール・ヴェルメシュさんの小説。監督はデビッド・ヴェンド。ヒトラー役を演じるのは舞台俳優のオリバー・マスッチさん。ということで、この『帰ってきたヒトラー』を見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「少なめ」ということです。ああ、でも結構ね、公開館数も回数も多いんですけどね。人もすごい入っているみたいなんですけどね。はい。

8割近くの人が好意的な感想。「現代に蘇ったヒトラーの行動がおかしく、パロディも多くて笑った」「カルチャーギャップに戸惑うヒトラーがかわいい」「前半無邪気に笑っていたが、後半になってゾッとした」「他人事ではない。選挙の近い今、見られてよかった」などが多く見られた意見でございます。一方、「主張は面白いのに、コメディとしての作りがゆるくて笑えなかった」などの否定的な感想もいくつかございました。代表的なところをご紹介いたしましょう……

(メール紹介、中略)

……ということで、『帰ってきたヒトラー』。私もTOHOシネマズ日本橋などで2度、見てまいりました。すげー入っていた。僕が見た回はすげー混んでいた。まずですね、今回、ドイツ映画なんですけど。大前提として、ドイツ本国におけるヒトラー、ナチス的なるもののタブー度。これは当然と言えば当然なんですけど、日本を含めた他の国の比ではないわけですね。本当にね。ナチスを連想させるような諸々が法で禁じられていたりするぐらいで、それこそ、2016年に入ってようやく『我が闘争』が復刊されたりとかっていう感じで。劇中でもありましたね。「『我が闘争』はドイツでは読めないので……」っていうのとかね。

前にね、たとえばヒトラーをブルーノ・ガンツが演じた『ヒトラー〜最期の12日間〜』。あれが作られた当時に、たしかやっぱりドイツの国内で「ちょっとヒトラーを人間的に描きすぎじゃないか?」っていう批判が、あれでさえ当時起きたぐらいだったという風に記憶しております。で、もちろんそれはなぜそういうことが起こるかというと、第二次大戦で敗戦した同じ枢軸国である日本、日本人から見ても、ものすごく徹底されているように見える、過去の歴史の反省、清算というのがそこにあるわけですね。ドイツはね。我々から見ると、「すげー徹底してんな、ドイツ」って見える。

ただ、まあ国内的には、ああ、まあそりゃそうね。当然のようにそういうこと、あるだろうねっていういろいろがあるようで。特に戦後、これだけ時間が経つと、いろいろ出てくるようで。たとえばですね、ナチス。ヒトラーに対する反省っていうのも時間が経ってくると自動的に、ある種教条主義的になってきて。それが長年続くと、そういう歴史的反省に対して反動とか反発、からの右傾化みたいな動きが出てくるであるとか。今回の『帰ってきたヒトラー』の劇中で、たとえばヒトラーが指摘するような社会状況……それはもうまさにナチス台頭前夜と非常に似たような社会状況があると。たとえば格差やワーキングプアの問題であるとか、少子化。「こんな国で子供を産みたくないだろう」なんていう話。

これ、とにかく一連の話を聞いていても、「ああ、どっかで聞いたような話だな」っていうか。まあ、どこの国もやっぱり似たようなもんなんだなっていう、嫌な感じの安心の仕方をしてしまいました、私は。「ああ、日本だけじゃないんだ」みたいに思ってしまいましたけどね。で、そういうドイツの、ヒトラーやナチスがタブー視されてきて、でもその中では実は反動の動きなんかもあったりして……みたいなところで、そこに2012年、原作小説——日本だと河出文庫から出ておりますが——が、出て大ベストセラーになったと。このタイミングで私もはじめて読みましたが、これがまためちゃくちゃ面白かった。すげー面白いです。これ、絶対にみなさん、今回の映画を見て興味を持った方は絶対に小説の方を読んでいただきたい。

今回の映画版もそうなんだけど、まずは普通にいわゆるカルチャーギャップコメディとしてのわかりやすい面白さがありますよね。要は、戦後70年を経た現代ドイツというのがヒトラーの目にはどう映るのか? という。まあ、普通にカルチャーギャップコメディとしての面白さがある。ただ、この小説の場合ですね、先ほどのメールでおっしゃっていた方とは反対で、徹底してヒトラーの一人称視点で書かれているんです。小説の方は。つまり、彼がしそうな考え方、彼が持っている思想から考えると、こういうことを言いそう、こういうことを考えそうみたいな。それでずっと語られていくわけですよ。で、これがまた非常にヒトラーの考え方とか思考のあれとか、当然、歴史的な事実とかもヒジョ〜によく研究をされていてですね、本当に21世紀にヒトラーが現れたら、まさにこういうことをこういう風に考えるに違いない、と思わされる描写の連発で。

で、日本版というかドイツ版以外には、著者によるすごく詳しい注釈なんかもついていてですね、すごくわかりやすくなっていたりなんかして。「うわー、これは本当によくできているな!」という本でございました。で、彼の主観から全てが語られる分ですね、今回の映画化版よりも、要はヒトラーの主張に我々が飲み込まれてしまう感みたいな。「うわっ、やべー。俺、飲まれてる!」みたいな、その感じがさらに強いわけです。この小説版は。その意味で、やっぱりよりリスキーというか、より尖った作りだと思います。要するに、こっちも相当考えて読まないと飲み込まれちゃうっていう感じですね。

なにしろ、今回の映画版もそうなんですけど、要はこの現代に蘇ったおっさんがですね、本当にヒトラー本人であるという物語内の真実を知っているのがヒトラーその人と、読者とか観客である我々だけなので、この物語を見ているうちに自ずとそのヒトラーと我々観客の心情的距離、心理的距離が近くなる作りなんですよ。もう、自ずと。たとえばですね、会話でヒトラーがなんかいろいろ言いますよね。それこそ、「言っておくけど、ユダヤ人ネタはやらないでね。笑えないから」って言われたのに対して「そうだな。ユダヤ人問題は笑えないな!」って(笑)。これ、もうお互いに言ってることは全然かみ合ってないんだけど、要は現代人側もヒトラーのモノマネをしてると思っているおじさんが言うことを勝手に解釈をして会話している。

で、その実、わかっていないわけですけど。その、わかっていない他の連中というのにヒトラーと同様、イライラしたりバカに見えてきたり……みたいな。そういう作りになっているので、要は半ば自動的に劇中のヒトラー側に感情移入させられてしまう構造になっているわけですよ。この物語自体が。だし、これはちょっとあんまり掘り下げるとよくない部分なんだけど、この物語内での話でそもそも70年間タイムスリップして生き返っているっていう時点で、物語内の事実としてヒトラーが自分でも「これは神意(神の意志)だ」なんて言ってるけど、事実上、人類史上類を見ない特別な人間っていうことが否定できなくなっちゃう設定ではあるので、あんまりここは掘り下げない方がいいんだけど。まあ、賢明にも原作小説は、あくまで思考実験を促すための寓話ということで、「なんでこうやって生き返っちゃったの?」「これは本当に本物なの?」って、そこはそんなに掘り下げないように、原作小説では賢明にもしているわけですけど。

というわけで、その原作の小説がベストセラーになってから3年後の2015年に作られた今回の映画版『帰ってきたヒトラー』は大きく言って2点、今回の映画化用にアレンジがされています。大きく言って2つ。1、ズバリ、サシャ・バロン・コーエン方式の導入。2、普通の人の視点の導入っていうことですね。

まず、その1。サシャ・バロン・コーエン方式。これはどういうことか? 要はですね、サシャ・バロン・コーエン。いまやそれこそ『アリス・イン・ワンダーランド』の今回の続編でもね、大きな役をやっていたりして。もういまやすっかりハリウッド・スターの完全な仲間入りという感じのサシャ・バロン・コーエンさんですけど、その彼がかつて送り出した二大傑作『ボラット』、そして『ブルーノ』。これで見せた方式ね。体を張って時に本当に命を賭けてやってみせた、具体的にはどっきりカメラ的なだまし討ちドキュメンタリーとフィクションの融合スタイルということですね。

要するに、あるキャラクターを装って現実にいる人にインタビューをすることで、その人が持っている差別意識とか偏見みたいなものを自ずと浮かび上がらせてきてしまうという非常に悪質な……(笑)。これ、褒めてますけども。非常に悪質なコメディスタイルというものをサシャ・バロン・コーエンは創り出した。言ってみれば、『ジャッカス』の体張りイズムと『モンティ・パイソン』の意地悪な知性を組み合わせたような、そんなスタイルを生み出したわけですね。ただ、本当にこの2作、『ボラット』と『ブルーノ』は最悪最高なんですけども、あまりにも彼自身がこの手法と、なによりも今は面が割れすぎて、スターになりすぎちゃったため、続く2012年の『ディクテーター(身元不明でニューヨーク)』はまさにこれ、現代版『独裁者』……チャップリンの『独裁者』の原題は『The Great Dictator』ですから。現代版チャップリンの『独裁者』的なものだったんだけど、『ディクテーター』ではその前にやっていた『アリ・G』とかまでの普通のフィクション形式に戻ってしまった。もう、体張りドキュメンタリースタイルはいまはやっていないんですけど。サシャ・バロン・コーエンは。

で、そこにある意味ね、そこの隙を突くかのようにですね、今回の映画版『帰ってきたヒトラー』は、要は「『ディクテーター』でサシャ・バロン・コーエンがどっきりカメラをやらないんなら、やっちゃうよ!」ぐらいの感じで、明らかにサシャ・バロン・コーエン的手法……つまり、劇中のキャラクターがそのまま現実の人々と、まさしくどっきりカメラ的に台本なしの即興で絡む様をドキュメンタリックにおさえていく。それとフィクション的ドラマの融合というのをやっていく。で、そもそも今回監督・脚本のデビッド・ヴェンドさんという方は、その、僕の表現で言う“サシャ・バロン・コーエン方式”、こういうコンセプトで行きますっていうのをプロデューサーにプレゼンしたことから起用されているみたいなんですよね。

あと、役者さん。ヒトラー役を演じているオリバー・マスッチさん。この人は舞台俳優でほぼ無名みたいな方らしくて。しかも、背格好も顔立ちも実は全然ヒトラー本人と似ていないんですよこの人。全然似てないんだけど……ただね、あんまり似すぎてないからこそ、ドキュメンタリックパートを撮る時に、街の人もちょっとシャレで済む感じの接し方をしてくれているのはたぶんそこまで似すぎていないからってバランスもある気もするんですけどね。あんまり似てないんだけど、要は何よりもこのオリバー・マスッチさん。アドリブ力、即興対応力を買われての抜擢らしいんですよね。

で、たしかにこのサシャ・バロン・コーエン的な半分ドキュメンタリーみたいな手法は、ヒトラーが現代でも結局受け入れられていくっていう物語展開に、要は100%フィクションでやった時に「そんなわけあるかい!」っていう風に取られかねないところを、圧倒的な現実味を持たせられているわけです。「だってほら、人気者人気者」って見せることができる。そういう意味で、この話を映画化するのに面白いなという風に思う狙いなわけですけど。ただ、この狙い、どうも作り手のみなさんの予想を超えてドンピシャすぎたようで、これは喜んでいいのかどうかっていうところなんですけど。要はとにかく、思った以上にみなさん、割とすんなり現代に再び現れたヒトラーっていうのを受け入れてしまうっていうことが判明したと。

もちろんね、そこはドイツですから。本当に真面目に怒っている人とかも現れたりするし。あと、そもそも登場する人たちがバイアスかかっているんじゃないか?っていう。つまり、そもそも「顔出しOKです」って躊躇なくヒトラーのそっくりさんと絡んで話をするような人たちっていう時点で、その意見とかスタンスにバイアスがかかっているからそういう意見が多くなるんだっていう面は、まああるだろうけど。ただ、それにしてもそういう人たちが思った以上に多かったっていうことに、たとえばそのヒトラー役を演じたオリバー・マスッチさん、インタビューなどで「非常にショックを受けた」というようなことを答えられています。

で、さっき言ったような、日本を含め世界的にある意味共通する最近の右傾化傾向と言いますか、排外主義とかね、そういうの。特にここんところ、たとえばフランスでテロがあって、あるいはシリア移民問題なんかも持ち上がって、本作が制作された2015年。原作が書かれた2012年よりもっと、描かれている状況と悲しくもフィットしてしまっているという問題もあって、余計この手法が効果的になっちゃったということはあると思います。で、それがいちばん強調されるのは、当然エンドロール。ラストのラストで出てくる、まさにいま、こういう状況とのシンクロっていうのが示されるという、非常に暗澹たる気分にさせられるエンディングなんですけども。

とはいえ、ここが僕、この作品のドキュメンタリー的醍醐味があるところだと思うんだけど、要は人々の反応というのは、とはいえよく見てみると、たとえばいわゆる右的なというか、非常に右傾化というか、排外主義的なというか、本当に人種的偏見にまみれたようなことを言っている人たちの中でも、単純に右、左、ノンポリって色分けできるほど一律じゃなくて。その中でも、いろんなフェイズというか、いろんなニュアンスがある人がいて。そこがやっぱり面白かったりもするなという風に思いました。この手法のね。

でもとにかくですね、これははっきりしている。ヒトラーという人がいかに社会にくすぶる、ある意味普遍的な……つまりどの社会にもあるような、日本にもいまあるような不平・不満を的確にすくいあげていくか。そして、いかにそれを徹底した欺瞞のなさ、ブレなさ故の否定しがたい説得力でみんなに説いていくか。そして、それも込みで、いかに人をひきつけるカリスマ性、もっと言えばチャーミングささえたたえているかというあたり。これを、これは映画版ならではの長所として、要はそれをまさに目の前、本当にそこにいる実在感で描き出していくわけですよ。実際に演じているわけだから、ああ、これは確かにちょっとひかれちゃうのもわかるな、というような感じで描き出していく。

その意味で、やっぱりなによりもこのオリバー・マスッチさん。この俳優さんがすごいです。この作品は。っていうのは、大変なことをやっているんですよ。よく考えると。要はどっきりカメラ方式なんだけど、臨機応変に、いかにもヒトラーが言いそうな……基本は極めて歪んだ思想なんだけど、いかにもヒトラーが言いそうな、歪んだ、でもブレないがっちりしたヒトラー的思想を、でも同時に圧倒的説得力と、あとヒトラー的ウィットを込めた発言で瞬時に返さなきゃいけないわけですよ。しかもその相手っていうのは、そのオリバー・マスッチさんは内心ね、「こいつら、大丈夫かよ? なんだ、こいつら?」って思うような連中の差別的な発言とかに、ずーっとヒトラーになりきったまま付き合い続けなきゃいけないわけですよ。で、場合によってはもちろん、身の危険の覚悟もしなきゃいけないという状況の中で、その即興をやってのけているわけだから、この胆力とスキルたるや……ってことですよ。だからオリバー・マスッチさん、これはすごい。本作のMVPだと思います。この手法を思いつくところまではできても、実際にやり切るのは本当に大変だと思う。

途中さ、リンチを扇動するようなシーンが出てくるじゃないですか。あそこはさすがにある程度、仕込み、やらせなんだよね?って思いつつ……あそこがね、いちばんフィクションなのかの判断がしづらくて、なおかついちばんショッキングなところなので、ちょっと気になるところではありましたけどね。はい。あの文句を言っているロック風の若者だけは仕込みなのかな? とかね。わかんない。でも、危ないじゃん。あんなことしたら。まあいいや。とにかく、要はヒトラーの、これですよ。危ないのは。「言ってることは一理ある感」に観客を含めみんながまんまと乗せられていく感じ。つまり、要はヒトラーのような人物が結局、割と広く受け入れられ、合法的に権力に近づいていってしまうプロセス。要はファシズムの素地ができていくというあたり。さっき言った現実社会、現実のいまの世界とのシンクロもあって、「なるほど、これは怖いしマズいな」という説得力を持って迫ってくる。笑えるんだけど、だからこそ怖い。これは本当に狙いとして上手くいっているところだと思います。

ちなみにですね、言うまでもなくヒトラー、ナチスね、じゃあどんなひどいことをしたか? みたいなそういう歴史的事実に関してはこの作品の外側の常識としてある作品なので。それはもう『サウルの息子』とかを見てくださいっていうことなんで。その意味で当然のように一般的な良識を備えていて、なんならここで描かれているような社会の傾向にもともと危惧を抱いているような人向けではあると思う。はっきり言って。要は、度を越したアホはそもそも想定していない作品ではあると思います。あとですね、音楽がところどころ、明らかにキューブリックの『時計じかけのオレンジ』オマージュであるあたりも作り手のメッセージが明白なあたりだと思います。要するに、非常に危険な最低最悪の破壊者・犯罪者なんだけど、魅力的。だから余計危険なんだというキャラクターが最終的に権力と結託するというね。そういう意味で『時計じかけのオレンジ』オマージュしてきているわけですけど。

まず、オープニング。空撮ね。雲からドイツの街並みが見えてっていうあの空撮からドイツの街並み。あそこは劇中でも名前が出ていましたけども、レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』っていうね、ナチのドキュメンタリーのオープニングのオマージュなんですけど。そこにかぶさる音楽がロッシーニの『泥棒かささぎ』。これを聞いたらやっぱり『時計じかけのオレンジ』を連想しますし。これは偶然じゃない証拠に途中でエドワード・エルガーの『威風堂々』が。これも『時計じかけのオレンジ』で出てきますね。ラストのラストではもうダメ押しのように、ヘンリー・パーセル作曲の『女王メアリー二世のための葬送音楽』のウェンディ・カルロス風シンセバージョン。これ、もう完全に『時計じかけのオレンジ』のテーマに聞こえるような感じですから。まあ、『時計じかけのオレンジ』オマージュみたいなのが作り手もメッセージを込めているっていうのは明らかじゃないでしょうかね。

一方、フィクション部分。いままではドキュメンタリックなアプローチとかその部分を話して来ましたけど、フィクション部分のアレンジも映画ならではのいいところがたくさんありました。特に僕、「ああ、いいな。これは映画版の方がいい」と思ったのは、家族を強制収容所で皆殺しにされたっていう老婆がいましたね。で、普段はアルツハイマー。認知症を患っていて……ということなんですけど、ヒトラー本人を見るなり、「こいつ、ヒトラーじゃないか!」って。あそこは原作と違って直接対峙するという設定に物語的になっていて、より、そこはエモーショナルになっているし。いままでこっちはなんかヘラヘラ見ているわけです。観客を含めて。要は、ここですよね。小説にもあるセリフですけど、老婆がこんなことを言う。「いや、この人はお笑いの人で、これは風刺なのよ」と諭されたのに対して、「昔と同じだ。みんな最初は笑っていたんだ」。これは、現に笑って見ている我々にものすごい刺さるセリフですよね。俺、ここはすごい、うわーっ!ってなりました。おばあさんの演技も素晴らしくて。ここは完全に映画のすごくプラスなところだったと思います。

あと、この劇中で小説を出すと。そうすると、その小説がヒットする。この劇中で出てくる小説の表紙とか、あと1933年に引っかけた19.33ユーロという価格設定も含めて、現実の小説版と設定が同じなんですよ。で、それが映画化されて……っていう、つまりメタ構造が今回の映画版は付加されている。で、それによってヒトラーなるものは我々の内側にも、中にもいるという。つまり、ヒトラー本人を肉体的に殺したところで、決して死なないんだという警告。これがこのメタ構造の中でより映画的にわかりやすく示されている。これもまあ、今回のプラスじゃないかと思います。

ただですね、先ほど言いました映画版、大きなアレンジポイントその2の方ですね。「普通の人の視点の導入」と言いました。小説の方はヒトラーの視点でずっと進むんだけど、今回は要するに、ヒトラー視点でずっと映画を進めるのはちょっとヤバいと思ったんでしょうね。要は、小説版では完全に脇役だったテレビディレクターのサヴァツキさんという青年を主役に据えて。要は彼という普通の人視点を中心に据えることで、よりエンターテイメントとしての飲み込みやすさを狙った。まあ、この狙いとしてはわかりますよ。あと、ドッキリ部分を撮影するために……要するに、ヒトラーをずっとドイツを横断させていろんな人と交わらせるというために、やっぱりテレビディレクターというキャラクターは役柄として大きくなる。なぜそれを撮るんだ? というその話の説明も担う。これもわかります。

ただ、このサヴァツキさんのパート。要はフィクションパートですね。もうヒトラーと関係ないパートが、ヌルい、ダサい、面白くないという感じだと思います。ぶっちゃけ僕、見ていてそのサヴァツキのパートが始まるたびに、「うん、ぶっちゃけお前の話には、マジ興味ねえ! 俺が興味があるのはヒトラーの方の話であってお前の……しかも関係ねえし!」みたいな感じで。うーん……コメディーとしての垢抜けなさ、クオリティのそんなに高くなさもちょっとアレでしたけど。でも、それもさることながら、このサヴァツキさんというキャラクターの思想的立ち位置、視点が実は非常に曖昧で。そこが見ていて、特に終盤に行くにつれて気持ち悪くなってくるあたりで。

要は終盤、「えっ、こいつひょっとして本当のヒトラーなのか?」みたいなことで、急に倫理的に目覚めて行動しだすんですけどね。サヴァツキさん。いやいや、お前、そういう問題か? お前、ずーっとヒトラーの横について、人々の実はエグい反応。非常に極右的なことを言い出したりとかとんでもない……それこそ、「強制収容所? 賛成だね!」なんてことを言ったり、とんでもないことを言っているすぐそばに彼はいるんだけど。たとえばそこで、サヴァツキが何もわかっていないバカっていうことだったら、手を叩いて笑っているとか。そういう描写でもないんですよ。なんかね、神妙な顔をして傍観しているだけなのね。「なに、お前?」っていうね。なんか、不自然な上になにを考えているかよくわかんない。スタンスがよくわかんないですし。

これ、原作だとこのサヴァツキというキャラクターは完全にヒトラーに心酔して。なんなら、新しいゲッベルスみたいになっていくキャラクターなので、そのキャラクターの中では矛盾はないんですけど。このね、「本物なのか? お前、本物だとしたらこれはヤバいぞ?」みたいなことを終盤に言うんだけど、そういう問題じゃないでしょ。もちろん、最終的にはヒトラー本人を肉体的に倒しても意味ない。そういう着地になるからまだいいんだけど、本人かどうか?っていうのは実はこのお話にとってあんまり本質的な話じゃないですよね。そこにこだわりすぎると、この問題の矮小化にもなると思いますし。あと、なによりさっき言ったように、「じゃあ、本当に生き返ったんならヒトラーはやっぱりすげーじゃん!」ってことになりかねないから、あんまりそこを物語的に突っ込まない方がいいと思うよというところだと思うんですけどね。

で、彼が最終的にたどる末路っていうのも表現としてちょっと陳腐すぎじゃないでしょうか? 手前のどんでん返し含めて、まあ『未来世紀ブラジル』感なのかな? とは思ったけど。ちょっと今時陳腐な結末じゃないでしょうかね。ヌルいと言えば、これは本作に限ったことではないけど、途中でヒトラーがね、旅の途中でしでかした失態が露見するっていう映像が流れるんですけど。これ、よく他の映画でもあるんだけどね。「こんな映像が撮られているんですけど」って、その映像が、さっき我々が映画で見ていたカットの切り返しとかまんま……そうするとさ、「なに? この犬側の視点、誰が撮っているわけ?」っていうさ。ああいう徹底のされなさって僕、すげーシラケるんですけどね。まあ、ものすごくうがったフォローの仕方をすれば、この映画全体が作中で作っていたあの再現映像みたいなものだからっていう。でも、それはちょっとなんかフォローしすぎかな? という気もしますし。

あと、細かいところで言うと、これはちょっとミスの類だけど。クライマックス。エレベーターの中でサヴァツキさんがヒトラーにピストルを向けているっていうような場面なんだけど。鏡越しで会話している。これは演出だからいいんだけど。サヴァツキさんね、鏡の自分の側に向けてピストルを向けていて。あれはたぶん鏡を使った……たぶん位置関係的にそういう風に向けてって言われたんだろうけど。あの、こっちも映っちゃっているから(笑)。あれはカット失敗だと思います。はい。

とにかく全体にフィクション部分は、キャラクターの配置や描写があまりにも図式的すぎるきらいがあって、やっぱり事の矮小化につながっているなという風に思います。副局長のね、ゼンゼンブリンクさん。この人はもともと原作のオーディオブックでヒトラーを演じていて、途中でちょっとヒトラー化するところがあるとかっていう、これはあんまり今回の映画版のストーリーに効果的に絡んでいるとは思えなかったですし。全体にちょっとフィクション部分、決して手放しで褒められるクオリティーではないと思いますね。

それだけ、でもやっぱりさっきのドキュメンタリックパートの部分ね。現実の人々の反応の方が、そっちの方が決してステレオタイプな枠に収まりきらない幅とか複雑さ、なんなら豊かさっていうのをちゃんと捉えていてやっぱり面白い。そっちがすごく面白いからなんですよ。たとえば、ネオナチ。極右集団みたいな、チンピラっぽいネオナチっぽいやつらと飲み会やってるじゃないですか。で、その飲み会の中でもさ、思いっきりヒトラーに乗っていく人もいれば、「いやいや、こんなやつの話……」っていうやつもいれば。なんかノリで乗っちゃっているやつもいたりとか、懐疑的な人がいたりとか。あと、途中で対話する親子、いましたね。あの親子の間でもちゃんと意見の対立があって。息子さんですかね? 結構不良っぽい感じなんだけど、「過去にとらわれちゃダメだ」ってヒトラーが言うのに対して、「いや、それは違う。過ちを繰り返さないためには、過去に学ばなきゃいけないんだ」っていう、とってもちゃんとしたことを言うというあたりもあって。その幅があるのは素晴らしいあたりだと思いますが。

ということで、特にフィクション部分の改変というか、その描き方というか、クオリティにはちょっと言いたいことはないわけではない作品でしたが、やっぱり作品全体が発している狙いどころ、メッセージは非常に鋭いですし。全体として非常にわかりやすく——この言い方は語弊があるかもしれませんが——「面白い」です。面白い映画です。わかりやすく面白いです。特にやっぱり、「“サシャ・バロン・コーエン”メソッド」ものとして、現実とのシンクロ部分はスリリングというか怖い作品でありますし。ドイツの社会状況をもっと知っていれば……っていうのももちろんあるんだけど、それより、やっぱりいまの日本の、この国とのシンクロっていうのはやっぱり気になるあたりということで、先ほどのメールにもあった通り、選挙タイミングのいま、それこそ、ぜひぜひ劇場でウォッチするのは非常に価値のある作品ではないでしょうか。

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『日本で一番悪い奴ら』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。