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宇多丸、『家族を想うとき』を語る!【映画評書き起こし 2020.1.10放送】

アフター6ジャンクション

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今週評論した映画は、『家族を想うとき』(2019年12月13日公開)。

オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞して評論する週刊映画時評「ムービーウォッチメン」。今夜扱うのはこの作品、『家族を想うとき』。これ、今のはたぶん仮で流れているBGMで、音楽は……ああ、映画のサントラか。あのね、でもすごく控えめなところでね、途中からやおら鳴り出すところが2ヶ所あるぐらいで、すごい音楽の使い方が控えめな映画ですけどね。ああ、これはエンドロールで流がれるやつっていうことか。

2006年の『麦の穂をゆらす風』、2016年の『わたしは、ダニエル・ブレイク』でカンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した、ケン・ローチ監督の最新作。マイホーム購入を夢見るひとつの家族が、労働問題など現代社会の歪みに翻弄されていく。出演は父・リッキー役のクリス・ヒッチェン、母・アビー役のデビー・ハニーウッドなど、オーディションで選ばれた新鋭キャストが揃った。脚本はケン・ローチ作品に欠かせないポール・ラバティが務めた、ということでございます。

■「エンドロールが流れ出した時、『この先は宿題です』と言われているようでした」(byリスナー)

ということで、この『家族を想うとき』をもう見たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、普通。まあでもね、そんなにドカンっていう公開の仕方じゃなくても普通、っていうのは、なかなか健闘なんじゃないでしょうか。賛否の比率は、ほぼ全員が褒め。否定的意見はほぼなし、圧倒的高評価。褒めている人の主な意見は、「新年早々辛い。けど、本当に見てよかった。傑作!」「他人事とは思えぬ主人公の境遇。閉塞感と絶望感で胸が苦しくなる。だが家族同士が思いあってるのが救いだった」とかですね。「見終わった後もずっとこの映画のことを考えている」とか。「クスリと笑ってしまうようなシーンもあり、奥深い作品だった」などがございました。

ということで、代表的なところをご紹介しましょう。「三島駅から徒歩5分」さん。「見ている時は非常に辛く、胸を揺さぶられ、心が震えました。本当に見てよかったです。私はどちらかというとつまらない日常からの逃避を目的に映画を見るタイプです。魅力的な主人公が何か困難に直面し、それを克服する中で周りの人を巻き込んで人間的成長を遂げる。そういった物語に救いを求めているのです。それに対し本作では様々な問題の根幹となる貧困、労働問題に対して具体的な決着、いわゆる物語的回答が提示されることはありません。

エンドロールが流れ出した時、『この先は宿題です』と言われているようでした。帰り道はこの映画のことしか考えられませんでした。一発目にこの作品を見た2020年を意義ある年にしたいと強く思いました。余談ですが、私はドライバーではないものの、物流業界の末端で働いています。程度の差こそあれ、配達所の細かな描写に他人事とは思えない既視感を感じました」というね。これはでも、ケン・ローチさんも本当に作ってよかったと思うような、手応えある感想じゃないですかね。

ちょっとこれは否定寄りの感じなのかな? 「スパイラーメン」さん。「『家族を想うとき』、武蔵野館で見てきました。こういう映画に賛否を付けるのは難しいですが、生活水準が彼らに近い私には辛すぎたので否です」。ああ、なるほどね。「一緒に車に乗るくらい、いいじゃないですか」。これは劇中に出てくるあるくだりなんですけども。「鑑賞後、メンタルケアのため『ジュマンジ』を見て帰りました」。フフフ、まあそのバランスね。そのやっぱり逃避的なエンターテイメントとのバランス、というものはあると思いますが。はい、皆さん、ありがとうございます。

 

■観客の誰もが「ああ、これはまさに私たちの問題だ!」と胸を痛める

ということで私も『家族を想うとき』、まず私ね、『週刊文春エンタ!』という去年の末に発売されたやつの星取表のために、一足先に拝見をしまして。あとヒューマントラストシネマ有楽町で2回、見てまいりました。ちなみにヒューマントラストシネマ有楽町、平日昼だけど、結構埋まってましたね。まあその『週刊文春エンタ!』に書いた寸評がですね、80字以内規定でまとめるとこうなる、という感じで簡潔にまとまってますので。もうここだけを聞けばいい、というぐらいにまとまってますので(笑)。「お前、こんなに短くできるじゃないか!」って思うかもしれませんけど、先に言うと、こんなことを私、書きました。

「利便性の裏で悪質化した」──これは「巧妙化した」と言い換えてもいいんですけども──「搾取構造の下、『家族のため』がかえって家族関係を破壊する。他人事ではないこの負のサイクルを、しかしあくまで飄々と描き出す、巨匠の手際!」という、こんなことを書きました。私も非常に高評価をさせていただきました。ということで、巨匠ケン・ローチ監督がですね、前作にあたる、これまた大傑作『わたしは、ダニエル・ブレイク』での引退宣言を再度撤回してまで作った一作、ということですね。

その『わたしは、ダニエル・ブレイク』自体も、2014年の引退宣言後、その翌年の2015年にイギリスの保守党が選挙で圧勝して、福祉予算をバンバン削り始めたというのを受けて作られた、渾身の一作だったわけなんですけど。その『わたしは、ダニエル・ブレイク』、これもう本当に、ご覧になったことがない方がいたら、ズシンと来る一作なので……でも、ちゃんと面白い、というね、その『ダニエル・ブレイク』が、2006年の『麦の穂をゆらす風』以来のカンヌ映画祭、パルム・ドールを見事獲得して、まあまさに有終の美。「引退作」って言ってましたから。

引退作でパルム・ドール、有終の美を飾ったかに見えた、さらにその後、「やっぱりこれを作らねば」ということでできたのが、今回の日本タイトル『家族を想うとき』という……これ、『たまむすび』で町山智浩さんもおっしゃってましたが、その『家族を想うとき』という邦題が非常にふんわりしてて、中身がちょっと伝わりづらい感じがあるかもしれません。原題は『Sorry We Missed You』という、要するに宅配業者が置いていく、不在票に書かれた言葉。「すいません、お会いすることができませんでした」というね、不在票の言葉。『Sorry We Missed You』というね。

で、それは同時に……映画を見終わると、僕は思ったんですけど、その過酷な労働条件のもと、すれ違いを重ねていく主人公家族の姿を、そこはかとなくダブルミーニングしてるタイトルでもあるなと。会えませんでしたね、会えなくて残念です、っていうね。で、とにかく日本でも近年、本当に問題にされることも多くなってきましたよ。個人事業主、フランチャイズという名前の下に……まあ新しい搾取・抑圧構造と言っていいでしょう、それに翻弄される家族の姿を描いた作品。日本でも本当にね、それこそコンビニエンスストアが「24時間営業が回らなくなった」って言ったら、「じゃあフランチャイズを外しますよ」って言われるような件とか。

他にもいろいろ、もう次から次へと出てきてる問題ですよね。そういうね、今ある種流行りの事業形態というか、個人事業主、フランチャイズといった形でのビジネス構造に、翻弄される家族の姿を描いている。つまりですね、このおかしな世の中というのが、ケン・ローチに引退をなかなかさせてくれない、というような感じがするぐらいですね、まさしく今、作られるべき、我々日本の観客を含めて世界中の人々が「ああ、これはまさに私たちの問題だ!」っていう風に、胸を痛め、あるいは頭を抱えざるを得ない……というのは、自分たちも、自分たちの生活も、ある種の加害者的な当事者でもある、という面もあるからなんですね。という、83歳にしてますます鋭利さを増した巨匠の、しかし相変わらず軽やかさ、ユーモアも欠かさない、さりげなく、本当にあらゆる意味でさすがの一作、ということだと思います。

■社会に対する鋭い批評性を持つケン・ローチは、作品の作り方そのものとテーマを一致させようと試みる

ケン・ローチ作品、僕のこの映画時評コーナーでサイコロなりガチャなりが当たったのはこれが初めてなので、ご存じない方に向けて、どんな作家なのか、ざっくりと概説しておくならば……1939年生まれの現在83歳。とにかく60年代から、最初はBBCのテレビシリーズで名を上げて、もしくは物議を醸して。

最初から物議を醸して。で、途中でいろいろそういうのもあって、叩かれたり……要するに社会的問題を扱っているということで、右派とか保守派から叩かれたりなんかして、途中なかなか映画を作れない時期とかもあって。その間はやむなくね、「俺はこんな映画を撮っているのに、マクドナルドのCMとかを撮っている時期もあって。人に偉そうなことを言っていたのにあんなことをやって……」とか、自嘲的にインタビューとかでおっしゃったりもしていましたけども。

そんな時期もあったんだけど、90年代以降、世界的なその時勢の変化、社会問題に対する意識の変化とかもあって、特にイギリス本国以外のヨーロッパで高く評価されるようになり、とにかくちょっといちいちタイトルを挙げてられないほど、数々の傑作・名作を世に送り出してきた人、ということですね。で、作風はもう本当に、最初のテレビシリーズの時から一貫しています。

常に労働者階級……それまでの、特にイギリスのエンターテイメントでは、そういうその労働者階級の実像というのが、モロに、言葉遣いとかそういうのも含めて描かれることはなかったし、なんならその描くことそのものがショッキングだった、という時代、1960年代。その時から常に、労働者階級、あるいはその持たざる人々の目線に、ドキュメンタリックな生々しさで寄り添いつつも、社会の不公正、矛盾、理不尽を浮き彫りにし、暴き出していく、という。そういう作風で完全に一貫しているわけですね。

なので、その社会に対する鋭い批評性ゆえに、特にイギリス国内、本国では、物議を醸したりとか、あるいはアンチを生んだりとかね。「見もせずにまた批判されているよ」みたいにインタビューとかでもぼやいたりしてましたけど。みたいなことがあるようです。で、とにかくそのケン・ローチ、いろいろとすごいんですけど、僕がすごく感心してしまうのはですね、その徹底したリベラルさ(※宇多丸註:ここに関して、ケン・ローチの政治的スタンスは“社会主義”であって“リベラル”ではないのではないか、という指摘を知人から受けました。確かに、言葉の定義をきちんと意識しないままぼんやり使ってしまっていました! お恥ずかしい限り、訂正してお詫びいたします)が、映画としての語り口と、思想的に本人の中で完全に一致している、っていうことなんですね。

これ、どういうことかって言うと、たとえばですね、これは『麦の穂をゆらす風』のDVD特典ディスクに日本では入っている、『ケン・ローチのすべて』というドキュメンタリーで彼自身が言ってること、これ、ちょっと長いですけど超面白いので引用しますけど、彼はこんなことを言ってます。これ、彼の言葉ね……「政治は映画の美学に現れる」「人間をどう撮るか決めるからだ」「たとえばワイドレンズで近距離から照明を当て、クローズアップで人を物のように撮る」「これは右翼的だと思う。なぜなら人を物として見ているからだ」「人に戦争をさせたり、搾取したり、異教徒と呼んで追放したり。人を敵意で見る撮り方だ」っていう。

ここまで言い切る人も本当に珍しいと思うんですよね。映画の文法そのものに思想性が現れる、という。人を物として見る、右翼的な撮り方だ、と言っている。それに対して彼自身は、こう言っています。「もっと遠くから望遠レンズで優しい照明を当て、彼らと気持ちを共有し、共に泣き、共に怒る」「そうすれば観客との間に連帯が生まれる」というね。ということで、いやー、本当にね、世に社会的なテーマを扱う作り手というのは多しといえど、ここまで厳格に、ストイックに、作品の作り方そのものとテーマを一致させようとしてる人って、なかなかいないと思うんですね。すげえな、ケン・ローチ。すげえことを言うな!って思って。はい。ということです。

■「本当にそこにそうやって生きている市井の人々」感を重視したキャスティング

まあともあれ、この発言通りですね、とにかく劇中の人物たちを、生き生きと、ありのまま、それこそ本当にドキュメンタリー的な自然さで捉えていくのがケン・ローチ的な演出で。実際にですね、俳優たちに対する演出も……演出っていうか、それ以前に、そもそもキャスティングも、たとえばこの本作『家族を想うとき』でもですね、舞台となるニューカッスル出身の在住者とか出身者のみで固めつつ、お父さん役のリッキーを演じるクリス・ヒッチェンさんは、役柄通り、元々はマンチェスター出身という。「マンチェスターのレイヴで出会った」なんて話をお母さんがしていますけども。

だから年齢的にはそれこそ、セカンド・サマー・オブ・ラブ的な時代だったのかもしれないですね。マンチェスター出身。なおかつ、20年以上も彼、クリス・ヒッチェンさんは、配管工として働いていて、40歳から俳優を始めたという方。要するに、その労働者としての経験あり、という方をキャスティングしているという。あるいはですね、お母さん役のアビーを演じるデビー・ハニーウッドさん。この方も、教育サポートの仕事をしている。つまりやっぱり、福祉的なところで、奉仕する仕事をしている、というような方を選んでいるとか。

あるいは先ほどね、オープニングでも話題に出ましたけども、非常に威圧的な、マロニーという、宅配サービスの支店を仕切っている人。この人は、笑っちゃうんだけど、ニューカッスル近郊で働いている、現役の警察官の方。「えっ、なんでオレ?」っていう(笑)。たぶん、見かけたんですかね? でも、見事な面構えですよ。あとあの体格ですよね。体格そのものが壁のようで、非常に威圧的なんだけど、彼を配役していたりとか。とにかく、こういうことですね……「本当にそこにそうやって生きている、市井の人々」感をこそ重視してキャスティングしているわけです。だからもう、スターとかは使わないわけですね。

ケン・ローチ作品からスタートしてスターになった人はいるけども、スターだからといってキャスティングすることはしない。そこから始まってですね、彼らに対する演出も、あくまでもまずは順撮り。基本、順撮りです。場面の順番通りに撮っていく。普通の映画はそうじゃないわけですね。でもケン・ローチは順番に撮っていくし、先々の展開も教えない。つまり、脚本全体を渡さずに、その場その場で、今日何を演じるか、この場面では何を演じるかを指示していく。時にはその中で、サプライズ的な仕掛けもするという。だから「君はこういうことをしてね」って言うと、その周りのリアクション……周りにいる人が、その役者が知らなかったような何かを仕掛けてきて、その生のリアクション、つまり事前に準備した演技では絶対に出せない、生のリアクションとかを引き出していくという、そんな演出法を取っている。

あと、現場で、俳優たちが演技の最中は……つまり、俳優たちがその役柄で演じる、その場の現実に集中してもらうためにですね、監督もスタッフも目を合わせないように、そっぽを向いて。みんな壁の方を向いていたり、監督もなんか、壁にこうやって見えないように隠れていたり(笑)。とにかく、演技じゃなくて、そこが現実空間だ、というような場を作る。それで要するに、その俳優が演技してるところに直接は介入しないようにしている、みたいなね。俳優が、気持ち的にも監督を頼りにしないようにしている、というようなことも言ってましたけども。そんな感じなんですよ。

■悲劇と裏腹にあるユーモア。それは我々の人生や世界の在り方と同じ

そういう、徹底的に自然主義的な演出というのは、たとえばやっぱり是枝裕和監督にも大きな影響を与えた、ということでも知られていますね。今回のプログラムでもね、対談の記事が載ってたりしましたけど。

で、その自然さ、生々しさというところにも関係しますけど、非常にハードな、過酷な社会の現実、社会問題というもの、非常に大きな問題というものを常に題材としつつ、同時に、語り口はやっぱり、人々の生活に寄り添っていますから、むしろ軽やか、飄々としていて。笑っちゃうところ、ユーモアもふんだんにある。要するに、その市井の人の、本当に歯に衣着せぬ、ワーッと言っちゃうところとか。

たとえば今回でも、一番悲劇が高まったところ、一番家族の悲劇が高まって、「これはひどい! いくらなんでもこの社会のシステムはひどい!」っていうところで、お母さんが電話口で……で、それがつい、やっぱりちょっとつい笑っちゃうんだけど、でも同時に、お母さんがその後に「ああ……」って傷ついているところもあって。だから、笑いと悲しみと怒りとみたいなものが、渾然一体としてそこにある。つまりそれは、我々の人生とか、世界のあり方がまさにそうだから、ですよね。

まあ『この世界の片隅に』とかにも通じる世界観かもしれません。で、そうしたケン・ローチ一流の作家性というのは、もちろん今回の『家族を想うとき』でも、先ほどからもちょいちょい言っていますけども、ビンビンに健在です。脚本はケン・ローチ組の常連、ポール・ラバティさんが、リサーチとかもして、見事な脚本を練り上げていると思います。まずね、冒頭。最初のところ。最初は黒みのところでクレジットが出て、そのリッキーというお父さんが、自分はこれまで肉体労働者としていろいろな仕事をしてきて、真面目に働いてきた、っていうような経歴が語られてきて。

それでパッと画面が映ったところで、この宅配フランチャイズの、その支店を仕切っている、スキンヘッドでガタイが異常によくて、おだやかに話している時でさえも威圧感がゴリゴリの男から、お父さんのリッキーが、宅配フランチャイズの仕組みの、まあ主に美点と聞こえる部分のみの説明を受けている。まあここから画面が……要するに「ここから始まりです」っていう感じで、画がつき始めるわけですね。

曰くですね、「あなたは我々に雇われるのではなく、個人事業主として、あくまで対等な契約をするんですよ。なのでノルマもありません。タイムカードもありません。あるのは最低限のルールだけです。あなたは自分の責任で働く。自分の責任で、働けば働いた分だけ稼ぐことができるんですよ。上を見ればいくらでも見ることができるですよ」という。この「ルール」っていうのと、「自分の責任」というのが、非常に引っかけ問題のようにですね、後から効いてくるわけですけど。

まあとにかく、要はですね、大企業の宅配サービス……アマゾンでも何でもいいですけどね、宅配サービスの、下請けの下請けの宅配ドライバーとしてリッキーは働き始める、ということです。で、これはもちろん言うまでもなくですね、僕自身がその、たとえばもうアマゾンとかの、翌日には届くとかの利便性に──何ならその日に届いたりしますよね──その利便性にどっぷり浸かってる身で。はっきり言ってまあ、ガッツリ関係している。つまり、その責任も感じずにはいられない話でもあると思う。私が「◯時に届けて」って……で、たまにその「◯時に届けて」っていうのが上手くいかないと、イラっとしたりするじゃないですか。そういう自分っていうのに対して、「オレはなんて非人間的な、こんなちょっとした利便のために、そういう向こうにいる人のことを考えないなんて……」なんて。そこをちょっとやっぱり思い出させるような話でもある。

で、一方奥さんのアビーは、介護サービスの仕事。こちらもどうやら、非常にその末端がしわ寄せ、負担を強いられているシステムらしいというところ。それでまあ非常に仕事に忙殺されてて、2人の子供たち……思春期ならでは危なっかしさを抱えている息子のセブ、そして「いい子」ゆえにいろいろ内側に溜め込んでいるっぽい娘のライザっていうのと、ゆっくり向き合う余裕もなくなっている、というね。

■前半にはまだあるユーモアや優しさ。しかし後半は自分たちの加害者性も突きつけられ……とにかくキツい

で、その真面目に働きまくってるこの夫婦、家族が、どうしてこういう状況にいつの間にか陥ってるか?っていうと、そのひとつのきっかけとして、これは劇中ではやんわりと触れるだけなんですけど、2007年のサブプライムローン問題に端を発する……詳しくは2016年3月12日に『マネー・ショート 華麗なる大逆転』という作品の評を私、やっていますんで。これ、書き起こしがまだ読めますんで、こっちを読んでいただきたいんですが。とにかくサブプライムローンに端を発する、ノーザン・ロック銀行の信用危機という、これがどうやら関わっているらしい。「積立をしていたのに……」っていうね。

だからその、真面目に働いてきた者がバカを見る世の中の、まさに皺寄せ、その末端中の末端がこの家族、というわけなんですね。で、とにかく働けど働けど状態が続く中、次第に疲労といら立ちを累積させていくこの夫婦。その一方で、その子供たち。たとえば息子のセブは、社会の中に目指すべきロールモデルを見出せない状況なわけです。たとえば「あそこのお兄さん、大学を出たってロクなことになってないじゃないか」っていう。これも気持ち、分かりますよね。

だから、仲間たちとの、そのグラフィティっていうアート活動に、せめてもの情熱を注いでいるという。だけどそれも、もちろん親……特にお父さんには、理解されるはずもないし。内心想いを寄せていたっぽいあの子も、町を離れちゃう。なのでもう、フラストレーションを溜め込むばかり、っていう。これもまあ息子、この年頃でこんな感じだったら分かる、と。

で、そんな感じでケン・ローチの目線はですね、それぞれの家族の日々のもがきを、しかし前半はそれでもある種の人間らしさ、ユーモアを交えつつ、映し出していくわけです。このカメラマンのロビー・ライアンさん、ケン・ローチ作品はこれで四作目なので……それこそね、この方は『女王陛下のお気に入り』とかも撮っているんですけども、あのタッチとは本当に180度違います。あんなケレン味たっぷりのとは……もう淡々としたケン・ローチ的距離感を保ちつつ、描き出していく。

たとえばですね、お父さんのリッキーが、慣れない宅配ドライバー業に四苦八苦する、序盤のあたり。たとえば警官に駐禁とられそうになって、それで何とかごまかそうとするんだけど……のくだりとか。あとは、書かれている住所に行ってみたんだけど……のところとか。あとは、ひいきのサッカーチームのことで言い合いをする件、とかは、まだ笑える範囲の話かもしれないし。あとね、そのアビーの介護業での、それぞれの人との思いやりあるやり取りとか。あと、そのリッキーも宅配業で、たとえば身体が悪そうな人が出てきたなと思ったら、「荷物を奥に運びましょうか?」とか、そういう人間的なやりとりはちゃんとしてるし。

あとは、せっかくの家族団らんを台無しにしかねない、突然の介護の呼び出しなんかも、これは息子セブの素敵な提案で、久々に家族らしいひと時を……ここね、家族で、子供たちと一緒にお父さんが、あのYoung MCの曲をね、キャッキャキャッキャと……あれはたぶん、マンチェスターでクラブ遊びをしている頃に覚えたんですかね? ラップを、一緒にこうやってやって楽しんでるところとか、すごく微笑ましかったりする。あるいは、「娘と一緒に宅配を回れば一石二鳥じゃん!」のところとか、前半はまだ人間的なやり取り、ユーモア、優しさで、「ああ、この世知辛い世の中、なんとかみんな支え合って生きていくこともできる、のか?」みたいな感じも見えるわけです。

しかし、そもそもやっぱり、リッキーが働いているこの宅配フランチャイズという名の下請けの下請け業にせよ、アビーが働いてる、やはりその時間単価で細切れにされ、それ以外のフォローは全くない介護サービス……あれもたぶん、上から何かしらの下請けを受けての介護サービスでしょうけど、それにせよ、そのマロニーという上司が言い放つ通り、そうした各々の人間的な事情など、知ったことか!と切り捨て、あるいはその顧客側からはブラックボックス化することで、ひたすら効率化するためのシステムなわけですね。

なので、どんな事情があろうと、休めば稼ぎが減る、だけでなく、ペナルティー料金を取られ、さらに暮らしを圧迫されていく。要するに働けば働くほど身体を壊し、借金は増えていく、というシステム。そしてその駆動力となっているのは、「家族のため」という、これ以上ないほど人間的な動機なんですよ。にも関わらず、それが結果的に、どんどん家族関係を破壊していく、というこの痛ましさ。僕自身、たとえばさっきも言ったようにフリーですから、「休めば職を失うかも」という恐怖に追い立てられるように、ギリギリまで働いてしまう感覚。体壊すまで働いてしまう感覚。まさに僕は自分ごととしてある。

それと同時に、宅配サービス含め、今の社会の利便性、その背後にある巧妙化した搾取のシステム、そこに無自覚に……つまり向こう側に働いている人々に想像力をろくに働かせることもせずに加担してきた責任、というのも同時に感じる、みたいな感じで。とにかく両方の面でキツい!っていう。

誰もが自分ごととして感じる映画としての力。それがケン・ローチの映画のすごさ!

とりあえずやっぱり見ていて思うのは、労働者同士を分断させるシステム、こんなことやってると、目先の効率はよくても、いずれ社会全体が破綻するんじゃないか? 実際にそう予感せざるを得ない、出口なし!の終わり方なんですね。

終わり方は、「こんな人たちがみんないるんだったら、上手くいくわけないじゃん!」っていう予感がする。で、ケン・ローチがすごいのは、こうした要するに大きな社会問題を扱っていながら、さっきも言ったように、あくまで市井の、国とかは違っても我々と同じ、普通の人々、家族の、どこにでもあり得る悲喜こもごもを通して、観客に自然に「こんなシステムは間違っている!」って実感させる。決して上から目線の説教じゃなくて、実際にある人々の苦悩を通して、社会の問題を、しかも生き生きと、「面白く」伝えてみせる。

誰もが自分ごととして感じる、映画としての力。それがケン・ローチの映画のすごさなんですね。ラスト、そのボロボロの身体で、泣きながらトラックを運転するあのリッキーの姿。あれは明日の我々、自分たちの姿かもしれない。だってリッキーも、最初は同僚の男がですね、文句を言っている様を、それが何なのか、意味は分かっていなかったわけですよ。つまり、明日は我が身……みんな、「明日は我が身」とは思わない社会。だからこそ弱者に思いを寄せなかったりとか、福祉とかの重要性とかがわからなかったりするわけじゃないですか。「明日は我が身」と思わせる力。しかもそれが、ちゃんと笑えて、面白いホームドラマでもある、というね。

あのバンが……大事な、仕事用に使う車、バンの、鍵の行方。あれがわかった時。あそこで出てくる、「正しさ」を越えた愛、思いやり、人間的なるもの。そこにこそ、やっぱり涙する人間でありたいという思い。それがやっぱりこのケン・ローチの作品が伝えてくるすごさ、というか。ぜひぜひ、ケン・ローチ作品を見たことがない方も、本当に素晴らしい作品……辛いですけどね。正月早々、世知辛いですけども。まあ『ジュマンジ』とセットでもいいんで(笑)、ぜひぜひ映画館でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『フォードvsフェラーリ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

(ガチャパートにて)『家族を想うとき』、あの威圧的なマロニーだって、ある意味中間でがんばっている人だから。つまりやっぱり、搾取したもん勝ちっていうこのシステムこそが間違いなんだ、と思わせてくれる。それも自然に……という。すごい映画でございましたね。

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