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宇多丸、『アリー/スター誕生』を語る!【映画評書き起こし 2019.1.4放送】

アフター6ジャンクション


宇多丸:

ここからは私、宇多丸がランダムに決めた最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜はこちらの作品です。『アリー/スター誕生』。

(曲が流れる)

プロのシンガーになることを夢見ながら、ウェイトレスとして働いていたアリーが、ロックスターのジャクソンに見出され、スターダムへと駆け上がってく様子を、2人の歌とともに描いていく。アリーを演じるのは、これが映画初主演となるレディー・ガガ。ジャクソンを演じるのは、本作が監督デビュー作となる俳優のブラッドリー・クーパー、ということでございます。だいぶ前からね、予告もやってたりとか、話題になっている作品で。いまも劇場にもかなり人が入ってる感じございましたけど。

ということで、もうこの『アリー/スター誕生』を見たよ、というリスナーの皆さま<ウォッチメン>からの監視報告(感想)を、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、いつもより「ちょっと少なめ」。まあ、ちょっと年末年始で皆さんね、いろいろ感想を書いている場合じゃないとかあったのかもしれない。あと、ランキングが終わった直後で、ちょっとテンションが下がっているとかもあるかもしれませんけどね。

なんですが、賛否の比率は、褒めの意見が7割以上。非常に好評です。主な褒める意見としては、「曲よし、歌よし、演技よし。ブラッドリー・クーパーとレディー・ガガ、これが初監督と初主演って凄すぎない?」「アリーというよりもジャックの物語として見た。そして泣いた」「『ボヘミアン・ラプソディ』よりもこっちの方が好き」などなどありました。一方、否定的な意見は「前半はいいが後半から失速。演出や話が散漫になるし、ラストの展開を受け入れられない」とか「途中からアリーがただのレディー・ガガにしか見えなかった」。たしかに、音楽性がどんどん(レディー・ガガ本人のそれに)寄っていく、っていうのがあってね。でも、ある意味ちょっと、「レディー・ガガができていく過程」を見れる、というところもありましたけどね。ダンスレッスンなんか、なかなか見れないからね。

ただ、賛否どちらのサイドからも、ブラッドリー・クーパーの監督としての力量と、あとはその歌唱とか演技、演奏とかそのあたり……それからレディー・ガガの演技と歌については、絶賛の声しかなかった、ということでございます。

 

■「よくできすぎているのが欠点なほど、よくできている」(byリスナー)

ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう。「ぽいずみとりかぶこ」さん。「『アリー/スター誕生』、見ました。四度目のリメイクの意義を与える現代的なチューニングがしっかりなされている。レディー・ガガの話題性に準じず、本懐の歌唱力一発で持っていける地肩の強さは想定内でしょう。何に驚いたかと申せば、ブラッドリー・クーパーのミュージシャン上がりの俳優としか思えない、デ・ニーロもかくやの姿。書き下ろした曲もねっとり骨太。彼の兄貴サム・エリオットの好演も光り、大変に画面が締まる」。

で、いろいろと書いていただいて、「……よくできすぎているのが欠点なほど、よくできている。ワンカットも捨てカットがない。冴えわたる才気。曲がその後の物語に一抹の影を落とすのも好ましかった」。全ての曲の歌詞が、その時その時の物語の展開にちゃんとリンクしている。この、いまかかってる曲とかも、ブラッドリー・クーパーは自分で書いているわけですから。作っているわけですからね。何を考えてるんだ!っていうね(笑)。曲を作れるところまで持っていくって! 「個人的には似たテーマを扱う『ボヘミアン・ラプソディ』よりも断然こちら派です」という。どちらもね、ぜんぜん違う映画だとは思いますけども。

一方、ダメだったという方。ラジオネーム「スナッチ」さん。「すいません、正直イマイチでした。というより後半がダメでした。100点満点で言うと前半で90点出ていたものの、後半で50点ぐらいの作品になり、トータルでは60点になってしまったという印象です。まずアリー。自分に自信が持てない地方のウエイトレスである彼女がサクセスしていく様に共感していたのに、アリーは途中から完全に圧倒的なカリスマ、レディー・ガガ以外の何者でもなくなってしまい、その激しい落差に気持ちが置いてけぼりにされたようでした。

光と闇を対比させないといけないのに、あんな唯一無二のところに行かれたら、全然『スター誕生』っていう気持ちにはなれませんよ。同じようにジャックの凋落ぶりも極端すぎます。ラストの強い展開に至るためにはそれだけの強い説得力、丁寧な心理描写が必要だったと思います。また後半は撮り方や脚本にも明らかにムダが多かったような気がします」というようなご意見でございました。

 

■オリジナル含む過去四作の中でも今回が最高傑作!

ということで皆さん、メールありがとうございました。『アリー/スター誕生』、私もバルト9のファーストデー、1月1日の深夜と、TOHOシネマズ日比谷で見てまいりました。どちらも、特に日比谷なんかは正月ということもあってか、外国人の方も含めてかなりのお客がいました。はっきり言ってかなり混んでましたね。

で、先にちょっとまず『アリー/スター誕生』、結論っぽいことから言ってしまおうかと思うんですが……先ほどからも言ってますね、映画ファンならご存知の方も多い通り、『スター誕生』という話の、これで四作目となるリメイクであるこの『アリー』。その過去の三作や、後ほど詳しく言いますが諸々の関連する先行作というのがあるんですが、それらの文脈を踏まえ、敬意を払った上で……この、明らかに古典的と言える物語的な枠組み、そこに独自の解釈や掘り下げ、ブラッシュアップなどを加えて。結果、見事にアップデートして、新たな価値を創造してみせたという、まさにリメイクの鑑的な一作であり、少なくとも僕は――これは僕の個人的な意見ですが――これまであった『スター誕生』四作の中では、これが最高傑作だと思います。

同時に、やっぱりブラッドリー・クーパー主演兼監督の第一作目としても、真に感服するしかない……「ああ、これはたしかにクリント・イーストウッドの後継者と目されるのも当然だな」と思えるほどに、まあ堂々たる出来だ、という風に言えるんじゃないでしょうかね。どういうことなのか?っていうのを、改めて順繰りに話していきたいと思うんですけど。

まずその1937年、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー主演の、最初の『スタア誕生』。これはアカデミー賞第10回で原案賞というのを取っているんですけども。1937年のその一作目の前に、さらにその元ネタとして、後にその1954年版の『スタア誕生』リメイクを手掛けるジョージ・キューカー監督の、1932年の『栄光のハリウッド』っていう作品があって。ちょっとややこしいですけどね。もっと言えば、さらにその源流には、皆さんご存知の方も多い通り、ジョージ・バーナード・ショーの、1913年に初演された戯曲『ピグマリオン』というのがあるわけですね。

要は、「権力を持った年配の男が、若くて才能ある女性を見出して開花させ、その結果追い抜かれてしまう」というような、そういう構造のお話ということですね。で、まあその1937年版の『スタア誕生』、そして1954年のジュディ・ガーランド版……僕、これをリバイバルで見たのが『スタア誕生』ははじめてでしたけども。それと、1976年のバーブラ・ストライサンド、クリス・クリストファーソン主演版……要はミュージシャン版というかね。ここではじめてミュージシャン、という風な話になりました。1976年版の『スター誕生』。

それ以外にも、さっきから言っている『ピグマリオン』構造のお話っていうと、それこそその『ピグマリオン』を原作に持つ、やっぱりこれもジョージ・キューカー監督ですね、1964年の『マイ・フェア・レディ』と、あとはその現代版、ご存知『プリティ・ウーマン』、1990年。言うまでもなく、今回の『アリー』の劇中、グラミー賞のシーンの中で、ロイ・オービソンのね、『Oh, Pretty Woman』のトリビュートシーンっていうのがありますけども。これはもちろん、同じく『ピグマリオン』型ストーリーの先行有名作、『プリティ・ウーマン』への目配せ、っていうことなんですね。

 

■名作『クレイジー・ハート』超えを目指した? ブラッドリー・クーパーの挑戦

あとはたとえば、皆さん覚えてますかね? 2011年、その年のアカデミー賞の作品賞を取りました、『アーティスト』というね。あれはもうモロに、まんま『スター誕生』オマージュの話でしたよね。とかですね、あとこれは、男側が権力者っていうわけではないところでちょっと違うかもしんないけど、ただあの『ラ・ラ・ランド』も、女性が才能を開花させて男を追い抜いていく、という構造では同じですよね。なので、とにかくその「『ピグマリオン』発『スター誕生』経由」的なお話っていうのは、近年に至るまで、繰り返しいろんな形で作られ続けている。変奏され続けている。そしてそこには、その時代その時代の、特にやっぱり社会における女性の地位の変化っていうのが反映されてもきている、っていうことなんですよね。

そしてもちろん、当然ながらそれぞれの、その時代その時代の作品の良さがある、ということなんですけども。加えて今回の『アリー』に関してはですね、主演・監督のブラッドリー・クーパー……まあ、実はこの『スター誕生』のリメイクって話は、ずいぶん前からあって。で、いろんな監督……それこそ、クリント・イーストウッド監督っていうのもありましたし、あとはビヨンセ主演でやるなんていう話もありました。ちなみにビヨンセ主演といえば、『ドリームガールズ』も、才能を開花させた女性が男を追い越す、っていう構造がやっぱり入っていたりしますよね。

まあいろんな経緯があってからの、主演・監督ブラッドリー・クーパーなんですけど。まあ自らがカントリーロック歌手を演じる。というよりも、リアルに「体現」してみせるというのにあたって……やっぱりいまどきの映画は、ちょっと嘘っぽいとすぐにバレちゃいますから。ちゃんと歌える人が自分でやる、みたいなのが結構最近のデフォルトになりつつありますけど、それにあたって、たぶんこれが念頭にあったんじゃないか? 2009年、ジェフ・ブリッジスが、やっぱり似たような感じ、つまり「アルコール依存症のカントリー歌手」を見事に体現しきって高く評価されました、『クレイジー・ハート』。あれはいい映画でしたね。

あの『クレイジー・ハート』のアプローチっていうのは間違いなく、先行作としてブラッドリー・クーパーの念頭にはあったんじゃないかな、と思います。何なら、「『クレイジー・ハート』のジェフ・ブリッジスを超えるんだ!」っていう意思があったと思うんですよね。だからこそ、今回のブラッドリー・クーパーは、それまで人前でギター弾いたり歌ったりっていうことをそんなにやってきた人じゃないらしいんだけど、ルーカス・ネルソンっていうウィリー・ネルソンの息子さんと演奏・歌唱の訓練を重ねて、まあ実際に演奏・歌唱をそのルーカス・ネルソン&プロミス・オブ・ザ・リアルと一緒にしてみせる。

そしてなおかつ、本当のフェスの会場……それこそコーチェラとか、その本当のフェス会場の、本当にそこにいるオーディエンスの前で演奏して歌って、それを撮影してみせる、ということもやっている。

で、いちばんすごいと思うのは、最初の方でも言いましたけど、そのルーカス・ネルソンとかレディー・ガガの手助けを得ながら、要するに「“ミュージシャン”ジャクソン」として、自分で曲作りをする、というところまで役作りというものを高めている、っていうことなんですよ。

そんなことをした話は聞いたことない。だから、ついに……要は『クレイジー・ハート』のジェフ・ブリッジス超えっていうか、自分で曲を作るところまで持っていった、っていうことですよね。まあでも、とにかくそんな感じで、脈々と連なるそういう文化史的というか映画史的流れの延長線上で作られてることは間違いない、この『アリー』。作り手も、たとえばその『スター誕生』ほか諸々の過去作へのオマージュをちょいちょい挟み込んでいたり。そのへんは明らかに意識的なわけですね。たとえば、『スター誕生』に限らないんだけども……あの超かっこいいオープニング。今回、タイトルが出るところ、めっちゃかっこいいですよね。『A Star Is Born』っていうところ。

あそこ、バイト先でアリーがゴミを捨てました。で、手袋を取って投げ捨てました。そのアリーを、ずーっとカメラが右から左へ追っていく。すると、アリーがその廊下の奥の方へと歩いていくショット。あれは要は、『オズの魔法使い』オマージュ、っていうことらしいんですよね。鼻歌で歌っているのも『Somewhere over the Rainbow』だったりして。ということで当然、『オズの魔法使い』といえばジュディ・ガーランド、なわけで。1954年版へのオマージュであり、同時にその、「魔法使い」と憧れていた男はそうではなくて……とかね。結局その女性がいずれ自立していく話として捉えるならば、そういう話の、構造上のオマージュとも取れる。そういうのが周到に入っていたりするというね。あのオープニング、めちゃめちゃかっこいいですよね。

まあそんな感じで、その過去作へのオマージュを、非常にある意味優等生的に、要所要所に配している作品ではあるんだけども。同時に、やはり今回の『アリー』。同じ物語的な枠組みを使ったどの先行作とも違う、非常にオリジナルな解釈と語り口に到達してる、という風に僕は考えています。

 

■スターである前に生身の人間、ということを伝える演出とキャスティング

まず、ご覧になった方は非常に印象に残ると思うんですけど、やっぱり撮影、カメラですね。これね、非常に人物に近い、極端な「寄り」のショットが多い作品だな、っていう風な印象を持たれた方は多いんじゃないかと思います。これ、偶然にも、先週扱った『暁に祈れ』とも、実はとっても近いアプローチなんですね。

要は主人公たちの、一人称的というか、主観的視点というんですかね。「彼とか彼女たちに見えている」範囲で、ずっと映像が進んでいく、っていうことですね。しかも、『暁に祈れ』との共通点で言うと、主人公が家族、特に父親との関係、そこでの育ち方をトラウマとして抱えていて。それゆえ、ドラッグに逃避しがち、っていうところも、『暁に祈れ』とすごく、偶然ですけども共通してる、っていうところはあると思います。で、まあとにかくこの『アリー』でもですね、たとえばいちばんド派手なはずのライブステージのシーンでも、彼らのパフォーマンスを、客席側からの引きとか、俯瞰の広い画で撮ったりとかはしない。とにかく彼ら側の……彼らが見て、彼らが感じる範囲の、生々しい寄りの画でずっと見せるわけです。

で、客観的な、客席側から見たような画は、たとえばモニター内の画であるとか、ネット動画の中であるとか、そういうなにかメディアを通した、ちょっと間接的なものとしてしか出さないという。もっとも華々しい、派手なはずのライブシーンでさえこう感じるぐらいなので……とにかくこういうことですね。スターっていう、とかく我々一般人には、人ではない「アイコン」として扱われがちな……たとえば(劇中に出てくる描写で言えば)、「何で有名人になるとフルネームで呼ぶんだよ?」とかね(笑)。あとはやっぱり、いきなり写真をバシャッて撮られたり。いろんな不躾な大衆の反応っていうのも描かれますよね。序盤でね。

とかく「人ではない」みたいな扱い。アイコンとして、記号的に扱ってしまわれがちなスターという存在の、要は生身さですよね。生身の人間、1人の苦悩する人間なんだっていう、その温度感が感じられる、非常に「親密な距離感」の目線ですよね。それをずーっと、カメラを通じて……「スターも、人間なんだ」っていう親密な目線を、この作品は貫いてみせる。これはまさにレディー・ガガ自身がそう(現実にスター)だし、ブラッドリー・クーパー自身がそうだから、っていうのは当然、ありますよね。

だからこそ、「いや、俺たちは人間なんだ!」っていう叫び……で、ここでやっぱりレディー・ガガっていうチョイスが絶妙で。どちらかといえばレディー・ガガって、作り込みぬいたビジュアルイメージ、みたいなのが強いアーティストじゃないですか。それを、やっぱり彼女に(ブラッドリー・クーパーが)会った時に、彼女の中にある、芯にあるその素顔の輝き、みたいなものを見抜いたブラッドリー・クーパーが、メイク落としを持参してまで……会った時に「はい、メイク取ってみて」って(笑)。あえてノーメイクで、素の姿を晒させること。それはレディー・ガガにとっては、ひとつの恐怖なんでしょうけども。あんだけビジュアルを作り込んでいる人にとっては。しかしその、やっぱり芯にある輝きっていうのを改めて際立てて見せる、っていうブラッドリー・クーパーの、演出家としてのたしかな眼力ですね。だって映画会社は、レディー・ガガの起用をずっと反対をしていた、っていうんだから。彼がそれを押し通した、ということだから、本当に感服するしかないあたりですね。

で、ですね、この非常に親密な目線ゆえに、要は極めて個人的な話、っていう印象が強まっていると思うんですね、この『アリー』は。本来はスターの、はるか上空で繰り広げられる華やかな話であるはずなのに、非常に個人的な、「小さな」お話である、っていう風な印象を、みなさん見終わった後には持たれるんじゃないかと思うんですね。

 

■今回の主役ふたりは「“歌”を通じた<対話>で、唯一理解し合える関係」

そんなこの『アリー』なんですけど、その語り口と不可分に……この今回の『アリー』は、『スター誕生』という古典的な物語の枠組みに、ある特徴的な解釈を加えている、という風に僕は思っています。そして、こここそが本作最大の魅力でもある、と思っているんですけど。

それはですね……これはもう僕の解釈であり、僕の表現なんですけど。アリーとジャクソン……これ、過去作では「エスターとノーマン」という風になっていましたが。とにかくその、主人公の男女2人の関係が、今作では何よりも……こういうことですね、「“歌”を通じた<対話>で、唯一理解し合える2人」。だからこそ……この2人は、歌で<対話>ができる。それ以外の人には理解されない2人が、歌を通じてのみ、この2人だけは、理解し合える。だからこそ、この2人は決定的に惹かれあっているし、そしてその歌を通じた<対話>ができなくなった時に、すれ違いもする、という風に描かれている。

つまり、これまでもアーティスト同士のカップル、という設定はありましたけど、アーティスト同士のカップルであるという意味を、過去作以上に、より深く掘り下げているわけです。なんでこの2人はこんなに深く結びついているのか? なぜならこの2人は、お互いの表現を通じてのみ、理解し合えた、という感覚を得られる2人だから、っていうことなんですよね。で、なおかつそれが、映画的な表現、映画的なカタルシスにも昇華されている、というところ。こここそが、今回の『アリー』のもっとも素晴らしいところだ、という風に僕は思います。たとえば、序盤。アリーとジャクソンの距離が縮まっていくプロセスの、それはそれは丁寧な描写の積み重ね。

ちなみに皆さん、ジャクソンがアリーがいるバーを見つける直前……彼はリムジンの中にいますね。そこで、後の展開を暗示するような非常に不吉なものが、さりげなく、しかししっかりと画面の中に映り込んでるのに気付かれましたでしょうか? つまりここで……僕は二度目に鑑賞した時に思ったのは、ここからのアリーとの出会いは、彼の人生にとって何だったんだろう?ってこと。そういうことを改めて考えると、僕はもう二度目は、ここですでに落涙。まだ店に到達する前にもう泣いている、っていう状態になっていましたけども。

で、まあいろいろあって、あのガランとした深夜のスーパーの駐車場。名シーンですよね。ここに至る、という。

 

■“歌”を通じて<対話>し理解し合えたふたり。そしてその<対話>が出来なくなると……

ここ、ジャクソンがスーパーでお菓子を買ってるその意図が、さりげなく、セリフではなく示されるところ。これだけで彼の人となり、人柄がよく伝わる。これも非常に見事な演出。こんな感じで、セリフじゃない、非セリフ的な演出が、とても粋に、さりげなくも効果的にあちこちに散りばめられてるあたりも、本当にブラッドリー・クーパーは、演出家としてめちゃめちゃ上手い、と思うんですけど。あとね、その流れで言うと、ちょっと前後しちゃいますけど、セリフとか展開そのものは過去作でも印象的に、決め的に使われていた、「君の顔をもう1回見たくって」っていう、あのセリフね。

今回の『アリー』だと、そこにもうワンアクション、そのアリーが返すもうワンアクションが入ることで、いままでの過去作よりさらに、100倍泣ける仕掛けになってたりする、というあたり。これも見事だったですよね。本当に上手い。

で、ちょっと話は戻りますけど、その深夜の駐車場のシーン。アリーは、そのスターであるジャクソンの人知れぬ孤独に、彼女だけは気づいて。で、咄嗟にそれを“歌”という表現にして……要するに、「<対話>しましょうよ」という感じで、投げかけてみせる。それは彼にとっては、「はじめて、真の意味で<対話>できる人間が、ようやく見つかった!」ということでもあるわけです。

本当はジャクソンは、お兄さんとそれ(音楽を通した<対話>)をすべきだったのかもしれないけど、いろいろ感情的なすれ違いがあって、できなかった。誰とも<対話>できないまま何十年も過ごしていたジャクソンが、ついに、<対話>できる相手を見つけた。そこでのジャクソンの表情ですよね。アリーは後ろに……なんてことはないスーパーの電飾ですけどね。蛍光灯っぽい光を背負ったアリー。それを見上げるジャクソンの表情。この、世界の片隅で起こったもっとも美しい瞬間、みたいなこと。僕はやっぱり、『愛しのアイリーン』のキスシーンとかも連想するような……本当に、「ああ、なんて美しいシーンなんだ!」と思って、またここで落涙してしまう。

で、それを受け止めたからこそ、彼もまた彼女が抱えるものを、歌という<対話>を通して、投げ返してみせる。予告編などでもよく流れていたあの『Shallow』という曲のデュエットシーンが、本編で見るとより感動的なのはつまり、アリーの才能が世に出た、というそのカタルシスもさることながら、二つの、他の人には理解されなかった孤独な魂同士が、歌を、音楽を通じて、ついに対話し理解し合えた!という瞬間だからこそ、もうドカーンと感動が来るわけです。個人的、内面的な願望というかその成就と、世俗的な成功というのが、この一瞬に幸福に一致している、という……まあ『ボヘミアン・ラプソディ』のクライマックスで言う「人生最高の瞬間」が、あの『Shallow』の歌の場面に凝縮されている。

ちなみに、パンフレットに松任谷正隆さんのコラムが載っていて、このシーンがいかに現実には音楽的にありえないかを身も蓋もなく書いていて、これはこれでめちゃめちゃ面白いんですけど(笑)。ということで、歌で、音楽でこそ対話し、唯一理解し合える2人、という風に、この『アリー』では主人公カップルを描いてる、と僕は思うんですね。だから、過去の『スター誕生』のように、のちに2人がすれ違って、その男側がダメになっていくメインの理由が、いままでの過去作では「女性の成功とか才能に対して嫉妬しているから」っていう風に描かれていたんだけど、今回は、実はあんまりそういう感じでもなくて。今回はむしろ、「歌で、音楽で、<対話>することができなくなってしまった……と、ジャクソンが感じた」っていうことなんですよね。

要するに、彼はそうなるともう、誰とも上手くコミュニケートできなくなってしまう人間なので。途端に、孤独で不安な状態に陥ってしまう。しかも、ジャクソンのその不安定性っていうのの根本には、実は生い立ちをめぐる、おそらく劇中で語られていることを超える何かが本当はありそうでもある。そんなトラウマを抱えている……というキャラクター的掘り下げも、今回の『アリー』は、過去作とは段違いでしていると思いますし。そうしたジャクソンとちょうど対照的に、レディー・ガガ自身の父との関係も反映されているという、アリー側の家族像、っていうのが配されているのも面白いですよね。

で、対照的に配されているといえば、もちろん最初に『Shallow』を歌う一連のくだりと、後半、逆の構図で今度はアリーが『Shallow』を歌いましょうよ、って誘うが……っていうくだりも、構成がきれいにされていますよね。あと、「晴れ舞台での失態」っていうのも、もう過去作のどのシーンよりも、容赦ない失態になっていて。これも本当に見事なもんだと思います。

 

■ラストで示されるこの話の本質、そこから分かるブラッドリー・クーパー監督の恐るべき力量

で、『スター誕生』の各作品の特徴が、いちばん如実に現れるあたりはやはり、ラストなんですね。ある悲劇が起こってからの、ラスト。主人公の女性がどうするか? 一作目、二作目は、最後に「ノーマン・メイン夫人です」って言って、要は「夫を立てる(拍手)」っていう。まあ、時代ですね、っていう感じの終わり方をしているんですけども。

で、三作目は、「バーブラ・ストライサンドがひたすら熱唱する」。それをずっとアップで撮る、という。まあ70年代フェミニズム的なというべきか、自立した女性像、独立独歩の女性像、という感じですかね。なんだけど、ただ同時に、バーブラ・ストライサンド自身のアーティストとしてのナルシシズムが全開!っていう感じもしちゃう終わり方でもあるんですけど。で、今回の『アリー』はじゃあどうか?っていうと……その第三作と一見、近いんですよね。『I’ll Never Love Again』というこの曲を熱唱する姿を、ひたすら長回しでずーっと撮る。三作目のバーブラ・ストライサンドのラストと、非常に近い感じがする。

と、思いきや……ですよね。なるほどここでひとしきり歌って、その盛り上がりで泣かせるんだな、と思っていたら……虚をつかれるような、まさに「映画ならでは」の、もうひとひねりが最後にある。で、ここでですよ、同じ歌が「反転」する……歌い手が変わることで、同じ歌が反転して<対話>になる。これも前半の『Shallow』と同じ構造を持っていますし。そして、ここに至って改めて……やっぱりこういうことですよ。このカップルは、やっぱり歌でこそ<対話>してきた。そしてこの歌でこその<対話>によって、この2人にしか理解しえないものを共有してきたんだ、っていう。文字通り、唯一無二の「対」だったんだ、っていうこと。

つまり、終わりになってみて、これはとても個人的な、小さな恋の物語だったんだっていうことが、おそらくアリーだけには……そして観客だけにはそっと伝わる、というこの着地。この見事な締め方、落とし方。この切れ味。もう「ブラッドリー・クーパー、すげえ!」って。この終わり方に唸らされました。

もちろん、ブラッドリー・クーパー自身の歌唱・演奏・作曲までやってこなすすごさもそうですし、レディー・ガガの、特に前半、あの恐れ混じりの初々しさ。あれも本当にすごいですね。完全に演技なわけですから。もちろんあと、超一流作家陣が揃っての、まさに歴史的名曲の数々を含め、これはさすがに褒めないのは難しい、っていうぐらい、僕は大変に堂々たる傑作だと思いました。ぜひ、このお正月に、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は、宇多丸プチ正月休みのため未定!

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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