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宇多丸 『太陽』を語る! by「週刊映画時評ムービーウォッチメン」2016年4月30日放送

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

映画「太陽」図版

宇多丸:「映画館では、今も新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

毎週土曜日、夜10時から2時間の生放送のTBSラジオ AM954+ FM90.5『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』。その中の名物コーナー、ライムスター宇多丸による映画評「週刊映画時評ムービーウォッチメン」(毎週22:25~)の文字起こしを掲載しています。

今回紹介する映画は、入江悠監督の『太陽』(日本公開2016年4月23日)です。

Text by みやーん(文字起こし職人)

▼ポッドキャストもお聞きいただけます。

 

宇多丸:
毎週土曜夜10時からTBSラジオをキーステーションに生放送でお送りしている『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』。

ここから夜11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。しかも先週は『レヴェナント』が当たったのを……もうね、1万円払ってガチャを追加で回すのは、しばらく熊本地震の「義援金枠」として積極的にやっていきたい! そんな感じで毎週の<監視結果>を報告する、赤字型映画評論コーナーとなっております。

今夜扱う映画は、先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を2回まわして当たったこちらの映画、『太陽』

(BGM:テーマ曲『モルダウの流れ』が流れる)

数々の賞を受賞している前川知大作、劇団イキウメの同名舞台を『SR サイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督が映画化。21世紀初頭、ウィルスによって人口が激減した世界で、夜しか生きられなかった新人類<ノクス>と、貧しく生きる旧人類<キュリオ>たちの対立と葛藤を描く。主演は神木隆之介、門脇麦らに加え、古舘寛治、高橋和也、村上淳ら。ムラジュンもね、荒れた役が本当に板についてきたという感じですけどね。

ということで、この『太陽』を見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告をメールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、普通……よりちょっと多めということで。作品としての知名度や公開規模に比べると、多い方なのかなという感じじゃないでしょうかね。感想は、賛否で言うと賛が7割。「作品のテーマにとても考えさせられた」「暗いけど希望もあるラストがいい」「終盤の長回しシーンがすごい」「撮影が美しかった」など賞賛の声が多かった。

一方、否定的な意見としては「主人公たちがギャーギャー騒ぎすぎ。取る行動もイライラした」「演劇っぽい仰々しさ、SFとしての設定のユルさに萎えた」などの声もありました。代表的なところをご紹介いたしましょう……

(メールの感想読み上げ、略)

……ということで、『太陽』。私、なかなかあんまり試写とか行かないんですけど、この組み合わせならそりゃ行くでしょうってことで、試写に行っていち早く見てまいりました。『映画秘宝』の昨年度のベストの方にもう、いち早く入れたりなんかもしてしまいましたし、プラス、今週は丸の内TOEIに行ってまいりました。

映画で『太陽』っていうとね、アレクサンドル・ソクーロフの2005年の、イッセー尾形演じる昭和天皇の映画『太陽』。同じタイトルの映画がありますけど。もちろん、そっちではなくて。この番組のオープニングトークなどでも舞台を拝見するたびに、ちょいちょい話題に出させていただいている、劇団イキウメ……劇団を率いている前川知大さんっていう方は、番組リスナーでもございまして、その縁で何回か見ているんですが、その2011年の舞台を映画化。

今回の映画化に、その前川知大さんも原作・脚本としてクレジットされている。しかも、それを映画化しているのが『SR サイタマノラッパー』シリーズや、なにより『タマフル THE MOVIE』! 2012年。これね、Wikipediaの入江悠さんの項目にも載っていないという黒歴史作品。そんな『タマフル THE MOVIE』の監督でもお馴染み入江悠さんの脚本・監督で映画化ということで。まさに、誰得? 俺得!っていうかタマフル得!っていう。そういう映画作品企画なわけですよね。

ただですね、イキウメの舞台を一度でもご覧になった方はわかると思うんですけど、お話はそれこそSF的だったり、ホラー的だったり、映画っぽい題材が多かったりもするんだけど、舞台としては抽象的なセットの非常に効果的な使い方とか、あと、時間の重ね方とかを含めて、非常に純演劇的というか。演劇という形でなければ表現し得ない何かっていう感じなんですね。だからこそ、僕はすごく高く評価する。いいな!って思うんですけど。

これを、お話がちょっとSFっぽいからって劇映画として映像化するっていうのは、意外とハードルが高いんじゃないかな? 一体どうするのかな? と、見る前にちょっと心配していたところではあるんですが……ただ、結論から言えば、今回の映画版『太陽』。見事なまでに入江悠の映画だな! ザ・入江悠映画になっているな! という風に思いました。それはどういうことなのかというのは、これから言っていきますけども。

たとえばですね、ヴァンパイア的な突然変異種と旧人類との力関係、価値観の逆転劇。これは古くはリチャード・マシスン(の小説)『I Am Legend』。『地球最後の男』なんてタイトルで映画にもなっていますしね。『オメガマン』とか『アイ・アム・レジェンド』にもなっていますし。あと、藤子・F・不二雄の『流血鬼』っていうね、さらにもう一アレンジ加えた素晴らしい短編とかになっている。あるいは、たとえば『デイブレイカー』っていう、これはシネマハスラーで2012年12月に評しましたけども。……などなどに至る、そういうヴァンパイア的な突然変異種が、人間側よりもむしろ数が多くなっていて、支配しているような、そういうSF設定であるとか。

あるいは、今回の映画版『太陽』。ヴァンパイアものと言えば、ラストに『ぼくのエリ 200歳の少女』オマージュがちょっと入ったりするよね、とか。あと同時に、特に1997年の『ガタカ』でしょうね。イーサン・ホークとかが出ている。優生学的な差別が制度化されているディストピアSFものっていうジャンルにも当てはまるとか。あるいは、和製SF映画としても、新人類対旧人類。そっちは逆に新人類が旧人類たちに迫害される、反ファシズムテーマ映画なんですけど、岡本喜八監督、倉本聰脚本の1978年の映画『ブルークリスマス』なんていう、あの系譜に連なるな、なんて話ができたりですね。

とにかくそういう風に、過去の様々な作品の遺伝子が読み取れるようなSF的設定の面白さ、物語の面白さ。あるいはそこから浮かび上がる様々な寓意みたいな、そういう基本構造はもう、元の舞台版『太陽』から忠実に受け継いでいるんですが……ただ、この舞台版。僕は遅まきながら、DVDで初めて、このタイミングでオリジナルの舞台を拝見したんですけども。とにかくそっちと比較すると、よりはっきり今回の映画版、違いがあってですね。

今回の映画版、ある種明白に、本当に映画作家としての入江悠という人が、これまでも一貫して追求してきたテーマの方にググッと作品を引き寄せて作られている……っていうことが、比べると特にはっきりわかる。その一貫したテーマとは何か?っていうと、僕の表現で言うとこういうことですね。「村としての日本、村人としての日本人」。もっとはっきり言えば、こういうことですね……「オラこんな村、イヤだ!」っていうね。「オラこんな村、イヤだ! ……でも、我々はここで生きていくしかないのだから……」っていう、こういう話をある意味、入江さんは毎回やっていると言える。

それがむしろ、今回の『太陽』でよりはっきり際立った。はっきりした。「ああ、入江さんっていつもこういう話をやっていたんじゃん。そこで一貫してるんだ」っていうことが、よりはっきりしたと思います。それこそ、入江悠長編デビュー作『JAPONICA VIRUS ジャポニカ・ウイルス』という2006年の作品がありますけど、これ、まさに「村としての日本、村人としての日本人」を辛辣に、寓話的に浮かび上がらせるSF。その意味でほとんど、今回の『太陽』の前日譚みたいに今となっては見えるぐらい。ウィルスが蔓延する過程の話としてとるならば、特にね。

『JAPONICA VIRUS ジャポニカ・ウイルス』がそもそもそうだったし、『SR サイタマノラッパー』が「村としての日本、村人としての日本人」を描いているっていうのはもう、言うに及ばずでしょうし。それこそ、入江さんのフィルモグラフィー上では明らかに浮いているという風にも見える前作『ジョーカー・ゲーム』。要するに、メジャー資本のエンターテイメント大作でという、らしからぬ1本ということで。

まあ、はっきり言ってフィルモグラフィー上で、ちょっと意地悪な言い方をすれば、迷走しているようにも見えかねない、あの『ジョーカー・ゲーム』でさえ、「村としての日本」という補助線を1本引いてみると、まさにあの『ジョーカー・ゲーム』の主人公たちは、日本人的・村的磁場から脱していく話という風に言えるわけです。特にそのプロセスが描かれる前半の訓練シーンがいきいきしていたのも、これは道理だなっていうね。だから、見た目よりはずっと入江悠的な題材ではあったんだなというのが今回、「村としての日本」という補助線を引くと、『ジョーカー・ゲーム』ですら、「ああ、入江さんっぽい題材なんだ」っていうのがわかる。

あとは当然、バジェットの限界と映画としての見栄えのバランス計算っていうのが、『ジョーカー・ゲーム』での苦い経験が生かされているな、という風に思ったりもするわけですけどね。ただ、『ジョーカー・ゲーム』のように日本人的・村的磁場から主人公が脱していく話よりは、入江さんの本領というか、おそらく本当に描きたい側は、やっぱり村的な磁場から<脱する>側じゃなくて、村的な、旧日本人的な磁場に<取り残される>側。それがやっぱり入江悠さんの本当は描きたい物語、本領の方なんじゃないかなと思うわけですね。

で、元の舞台版といちばんバランスが違うのはここの部分だと思うんですよね。つまり、元のイキウメの舞台版だと、旧人類。作中で言う<キュリオ>という、元々の人間。我々と同じタイプの人間、日本人ですよ。こっち側の古い人類であることのポジティブ面。逆に、優れているとされている新人類。劇中で言うノクスたちにも重大な欠落があるんだと。つまり、ノクスたちにも全然ネガティブ面があるんだっていうことがよりはっきり、言葉にして打ち出されて終わるんですよね。

ノクス側がいいわけじゃないよという理屈としていちばん近いのは、高畑勲の『かぐや姫の物語』における、地上の世界と月の世界の対比と非常に近い理屈なんですけどね。要は、欠点だらけで醜いかもしれないけど、ここには真の<生>というのが充実しているという人間側の地上の世界。対して、欠点もない完璧な世界だけど、そこに真の<生>があると言えるのか? という、ほとんど死の世界の月の世界との対比、みたいな。そういう意味で『かぐや姫の物語』に近いんだけど。実際に舞台版の『太陽』だと、月と太陽のたとえでそういう問答というか議論が行われるシーンすらあるぐらいで。

それくらい、明快に<ノクス>がいいわけじゃないよって描かれている。また、今回の映画版だと、みんな大好き高橋和也さんが非常にクールに演じている金田という医師。もともとは旧人類(キュリオ)だったのが、後から新人類になったという金田医師の役柄が、舞台版だともっとエモいんですよね。で、彼の視点から、やっぱり<ノクス>になると人として大事なものが失われてしまう、みたいなことがもっと明白に描かれているし。

あと、主人公の鉄彦。映画版だと神木隆之介が演じてますけど、その鉄彦がラストではっきりある選択をする。この選択をするラストのラスト、ここを見て、ああ、鉄彦っていう役名、これは要は『銀河鉄道999』の鉄郎なんだ!って私は膝を打ったんですよね。機械の体を求め続けたあの鉄郎が……っていうことを考えるとね。とにかく、舞台版はもっとずっと人に優しい、ポジティブな終わり方。人間に優しいんですね。「人間は悪くないよ」っていう感じなんですよ。

それに対して、今回の映画版『太陽』は、やっぱりまずは人間たちの住む場所である、オラが村、村としての日本、村人としての日本人に対して、「オラこんな村、イヤだ!」。これをまず徹底して描くわけですよね。で、この「オラこんな村、イヤだ!」のイヤだぶり。ここで描かれる村としての日本が今回の映画版、いちばん近いのは……さっきいろいろ挙げた『デイブレイカー』『地球最後の男』『ガタカ』とかより、いちばん僕、近いと思ったのは、小説ですけど、村上龍の『五分後の世界』。みなさん、読まれたことありますかね? 1994年の『五分後の世界』。これがいちばん近いと思う。問題意識としても。

要は『五分後の世界』って、日本がもし第二次大戦で戦争を止めていなかったら、戦争を続けていたら……というSFなんですけど。で、村上龍による、「俺の考えた超カッコイイ日本、俺の考えたいちばんカッコイイ日本像」っていうことで、戦争を続けているアンダーグラウンドと呼ばれる日本の社会があると。で、ここではちゃんと合理主義も浸透していて、日本のカッコイイ可能性を追求しまくった社会がある。ところが、物語の後半になって、実は地上にも日本社会っていうのが一応残っている、地上に生きる人々っていうのがいて、それは「古き良き日本」の残骸にしがみついて生きているような退化した日本社会。で、ぶっちゃけ、現実の日本社会に近いのはそっちなんですよ、やっぱり……というSFなんですけども。

今回の『太陽』の舞台となる村っていうのは、まさにその『五分後の世界』の地表の退化した、悪夢的な日本社会。そちら側から描いた話がこの映画版『太陽』だというのが、実はいちばんしっくり来ると思います。たとえば今回、タイトルが出た直後にお葬式っていうか葬列の場面があるんだけど、これがいか~にも風習、因習然とした葬列の場面から始まる。いかにも日本の残骸感。『五分後の世界』におけるあの地表の社会。ああいう感じの、うわっ、未来のはずなのに……っていう感じになっちゃっている。

あるいは、同じく映画オリジナルの描写として、村人たちがノクスにウィルス対策として、「消毒しますよ」ってブシューッて白い粉を吹きかけられる。これはもう、明らかに戦後、占領軍によるDDTですよね。シラミ取りと称してDDTという白い粉をブシューッて散布される。我々も見たことがあるあのニュース映像の記憶。つまり、敗戦国日本の記憶。民族的に完全に打ちのめされているコンプレックスの象徴としてのあれを呼び覚まされるような描写を、今回の映画版はわざわざ入れてきているっていうことですね。

あるいは、たとえばこんな場面、ありましたよね。「その書類、なかったことにできない?」っていうのに対して、「それはできない」っていう理屈が、「“見られている”から」っていう。上位の存在に見られている時はおとなしくする……じゃあ、見られてない時は?っていうと、もう何でもやるわけです。たとえば、村八分体質。繰り返し描かれますよね。何かあったら焼き討ちにするとか、リンチにかけるとか、村八分体質がこれでもかとばかりに描かれたりとか。

一方で、ムラジュンさん演じるキャラクターに託されているのは、コンプレックスをこじらせすぎた結果、より極端な村的思考に行っちゃっているだけっていう人物であるとかですね。そういうのが非常に象徴的に置かれていると。で、ですね、僕がいままで言ってきたような村としての日本像っていうのとか、そう感じる劣等感、コンプレックス、屈辱、ねじ曲がった怒り。これ、いまの日本にある様々な格差構造のメタファーとして、なんでも置き換えることができるんです。

それこそ、これぞ入江悠的テーマの根源にあるものでしょうけど、地方対東京っていうことでもいいんですよね。地方人対東京人っていうものでもいい。それを言ったら、僕なんかあれですよね。「僕なんか、生まれてからずっと東京だからわからないなァ」なんていう立場に見えるのかもしれませんけど。あるいは、たとえば若い世代で、語学堪能で海外経験も豊富で、いざとなれば世界のどこででも臆せずに、物怖じせずに生きていけるような新しいタイプの日本人っていうのに対して、僕なんかまさにそうですけど、この日本という世界、日本的磁場でしか生きていけない、しがみつくしかないという、ある種の古いタイプの日本人像という構造……。将来、より色濃くなっていくであろうこの構造、みたいなことに僕はちょっと重ねちゃいましたけどね。「ボク、海外とかで暮らすことできないしなぁ……」って。しかも、そういう古い世代に限って、自分の子供世代には幼少時から英語を教えたりしてさ。要はもう、我々は<ノクス>転換手術を受けさせようとしているわけですよ! そういう社会ということですよね。

とにかくそういう風に、非常に苦くて痛い現実の日本という村問題をSF、フィクション、思考実験という形で容赦なく突きつけてくる。その面白さ、スリリングさ、そして切なさ、苦さというあたりが、今回の入江悠版『太陽』の真髄であると私、断言したいあたりでございます。

見事なのはですね、さっきチラッと言いましたけど、バジェット的なバランス感覚を意識させないぐらい、非常に映画としての見栄えが豊かなんですよね。これはやっぱり、撮影監督。当代随一の名手ですよね。近藤龍人さんの手腕が大きいんじゃないでしょうか。特に夜。闇のシーンが多いんですけど、見事な闇の感じじゃないでしょうかね。さっきの山の景色なんかもそうですけど。もちろん、ロケの上手さ、ロケハンの上手さ、場所見つけの上手さ。あのダムの橋をシンボリックに使うという使い方も非常に上手いですし。

それでいて、あの貧しい日本の退化した山村っていうのを映すだけで、そのままSF的にもなるという、便利な設定だというのもありますしね。すすきの原っぱがバーッと広がっているだけで、それ自体がある種SF的な舞台に見えるというのもあります。あとね、実はここがすごく気を使っているのが大きい。音の演出。音の演出にすごく気を使っている。車の音ひとつ取ってみてもね、これは『ガタカ』の演出からたぶん学んでいると思うんだけど。一見、ワーゲンのビートルなんですよ。見た目は昔の車なんだけど、走る音がフゥーーーン……「ああ、動力が石油燃料じゃねえな」ってわかるような音になっているとか。そういうところの1個1個の工夫。

あるいは、最初にノクス社会を見せるところがあるんですけど。どこのビルを映したのかわからないけど、とにかくそこの部分で、部屋から出てきてグーッと広間に出て、エレベーター(※宇多丸訂正:エスカレーターと言い間違えました!)に乗るまで、カットをできるだけ割らない。要は、都合のいいところだけ撮っているわけじゃないですよっていう。ごまかし感をあんまり感じさせないように、最初の1カットでできるだけ空間を広く撮るとか。ちゃんとそういう撮り方の工夫をしているあたりとかですね。

あと、細かいところですけど、プール。みんな大好き鶴見辰吾さんと、みんな大好き高橋和也さんがプールで泳ぐシーンで。細かいところなんだけど、ふたりとも息継ぎをしていないんですよね。クロールする時に。そういうところで、人間離れしたノクスの何かおかしい感じっていうか、何か人間離れした、こういう細かい演出の積み重ねでちゃんとリアリティーを出しているあたり、上手いなと思いますね。

あとね、いちばん盛り上がる日の出のシーンっていうのもあってね。あそこの、「一発じゃいかねえのか……」とか、あと「皮一枚でつながってるぞ、まだ!」っていう、あのヤダ味のあたり、さすが入江悠さん。ああいうあたり、上手いですね。あと、元の舞台版にはないレイプシーンがあったりして。これは要するに「オラこんな村、イヤだ!」っていうのをより強調することになっているわけですけど。

で、クライマックスね、入江悠さんお得意の、修羅場の1シーン1カットがあって。ここを「演劇的な演出だ」って言う人がいるけど、こここそ入江悠さんっぽいところなんですけどね。で、たしかにメールとかにもね、ちょいちょいありましたけど。みんなが大声で怒鳴り散らすような演技の感じとか、そういうのに拒絶反応があるのは正直、ちょっとわかる気がします。ここでこういう感じの演技をすると、すごい演技っぽいなって僕も思うところが何か所かあったんだけど。僕自身も日本映画の悪しき風習としてよく指摘するような感じが一見、するような感じなんだけど。

ただね、この『太陽』に関しては、それすらも、さっき言ったテーマと合致してしまうんですよね。ある必然性を持ってしまう。つまり、「オラこんな村、イヤだ! でも、我々はここで生きていくしかないのだから……」っていうのを強調するための必然というかですね。要は、入江悠監督の日本映画的なるものへの距離感、スタンスというか。大声で怒鳴ってワーワーやったりして、もういかにも、なんか安っぽい日本映画的な感じで嫌じゃない?っていうのが、この映画に関しては(テーマと)一致してしまうというパラドックスというか、嫌な感じがあるという。

あと、これは逆にイキウメイズムだなと思うところとしては、門脇麦さんが見事な演技でしたね。なにかとても大切なものが決定的に失われてしまった、でも、本人はそれに気づいていない……客観的に見ている人は、「あっ、なにか大事なものが失われた」っていうことがはっきりと伝わる。これはすごくイキウメ的な、『散歩する侵略者』っていう素晴らしい作品のラストにも通じる演技ですけども。「あっ!」っていう、その瞬間がものすごく切なく迫ってくる。

今回の映画版だと特に、古舘寛治さん演じるお父さん役の見事な演技もあって、より違った切迫感を持って迫ってくるし。まあ、いずれにしても、どれだけダメな辛い経験をしたとしても、それを丸ごとなかったこと、無意味なこととして割り切ってしまうのって、果たして本当にそれは豊かな生と言えるのだろうか?っていう。元の舞台版にもあるこの問いは、やっぱり考え出してしまわざるを得ない。素晴らしく深みのあるラストじゃないでしょうかね。

でも、誰かを断罪しているわけじゃないんですよ。特に今回の映画版だと、「いや、でもやっぱりノクスの方がたぶん正しいし……」っていうぐらいのバランスに留めているから、僕はより深みが出たと思います。それでいてラスト。神木隆之介くんとノクス側の青年、古川雄輝さんのあのふたり。要は、あのふたりだけは、お互いのいる場じゃない、ここではないどこかへ常に意識を持って、探究心を持っている。たとえ、多少愚かであっても、それを常に持ち続けている。そこだけに希望がある。

で、そのここではないどこかに探究心とか憧れとかを持つということは、ユニバーサルたりうるんですよね。立場が違っても、世界中どこにいても、若者なり何なり、そこは手をつなげるんですよ。そういう希望をしっかり残すラストはもう、本当に最高だと思います。あと、転換手術のところで、そこで急に照明がテラテラテラテラ、水面っぽくなったりして。要は、ちょっと怪奇映画風になるというか。やっぱりちゃんとヴァンパイアものにしてくれるあたりのあのケレン味なんかも僕は大好きですし。

たしかにね、「お前、それ手首だけ何かで覆えばいいんじゃねえの?」とか、「義手かなんかのあのオチは予算が低くてもちゃんと見せてほしかった」とか、色いろあるんだけど。僕は非常に面白かったし、僕の問題意識に一致するというか、非常に痛くて深いところをえぐられる作品でございました。入江さん的にも、ようやくキャリア的にネクストレベル―に行けた会心の1作なんじゃないでしょうか。素晴らしい1作です。特に暗闇表現が素晴らしいのでぜひ、映画館でご覧ください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は、『ズートピア』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。