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宇多丸、『ボヘミアン・ラプソディ』を語る!【映画評書き起こし 2018.11.30放送】

アフター6ジャンクション


宇多丸:

(『ボヘミアン・ラプソディ』キャストからの特別コメントを受けて)さあ、ということでキャストのみなさんからもコメントをいただきました。ここからは私、宇多丸が前の週にランダムに決まった最新映画を自腹で映画館にて鑑賞し、その感想を約20分間に渡って語り下ろすという週刊映画時評ムービーウォッチメン。ちょっとしたスペシャルバージョンでお送りしております。今夜はこの作品!

(20世紀フォックスのファンファーレ、ギターバージョンが流れる)

この特別バージョンの20世紀フォックスのファンファーレも非常に気が利いております。本日扱うのはこの作品! 『ボヘミアン・ラプソディ』。

(Queen『Don’t Stop Me Now』が流れる)

世界的人気ロックバンド、クイーンの知られざる姿を描いた伝記映画。バンド結成から名曲誕生の裏側、そしてライヴエイドでの伝説のパフォーマンスを描く。45歳の若さでこの世を去ったボーカルのフレディ・マーキュリーをラミ・マレックが、他も非常にそれぞれ激似のメンバーが演じられております。

ということでこの『ボヘミアン・ラプソディ』をもう見たよというリスナーのみなさん、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールでいただいております。感想メール、量はとても多いです。今年いちばん多かった級ではないでしょうか。賛否の比率は褒めの意見が9割以上。しかも熱のこもった絶賛メールが多かったということです。主な褒める意見としては、「フレディの苦悩と孤独に寄り添い、最後は彼の元に集った<家族>のもとに帰っていく姿に涙」「最後のライブシーンはただただ圧巻。このシーンを効果的に見せる、聞かせるための構成もお見事」「事実と違うようだが、劇映画として許容できる範囲では」などなどございました。リアルタイムからのクイーンファンや、クイーンのことはあまりよく知らないという若い世代まで年齢に関係なく支持されている模様。

一方、否定的な意見としては「ストーリーが雑だし退屈」「音楽の産みの苦しみが描かれず、孤独の寂しさもすぐ解消されてしまう」「フレディ以外のメンバーが書き割りっぽく寂しい」などなどがございました。

 

■「将来、『劇場で見た』と長く自慢できる一本」(byリスナー)

ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう。「銀色のファクシミリ」さん。「『ボヘミアン・ラプソディ』、本日2回目の鑑賞をしてきました。結論から書くと、最高! 『劇場で見た』と長く自慢できると思います」というね。で、まあとにかく劇場で見てよかったという。非常にエモーショナルに味わったということで。「事実との差異は、当時の関係者の人格や業績を貶めるものでもなく、映画の演出の範囲で十分収まっていると思います。自分が宇多丸さんのハスリングで聞きたい点は、実際にステージに立つ側としての感想です。ステージを見る側がほとんどになる監視報告と、必ず差が生まれると思いますので、楽しみです」という。

いや、実際にそれはすごいあるんですよね。めちゃめちゃそれを感じたんですよ。その「立つ」側の視点としての。それをだから、あんなに大観衆ではないけど、いま僕たちが普段味わっている気持ちとか、僕たちが見ている光景みたいなものをみなさんに追体験していただく映画でもあるかなっていう。

一方ですね、「最近ヒップホップも聞き始めたアンクラ」さん。「『ボヘミアン・ラプソディ』、期待値からの下げ幅では間違いなく今年ワーストどころか人生ワーストクラスだったため、重い腰を上げて初投稿に至った次第でございます。結論から言ってしまうと、脚本、テーマ、史実、クイーンの作品に対する向き合い方等々、あらゆる面でとにかく雑さ、他者不在、ステレオタイプ、一面的なイメージの押し付けが目立っていた作品だと思います。史実からの大きな脱線はすでに多くの方が指摘されている通りですが、むしろそこは本質ではないとも感じられます」という。

で、まあその描き方そのものに「ちょっとどうなんだ?」っていう問題があると。で、「孤独が解消されてしまうのも簡単すぎないか?」とか、「結論としては絶対にコケない過去の偉大な創造物である音楽に頼って、肝心の物語やテーマのディテールの雑さをごまかすような設計。創作として圧倒的にズルいと思いました。とにかく時代に逆行した凡作としか感じられず、自分には本当に残念な映画体験になってしまった次第です」ということでございます。

 

■完成までに紆余曲折、トラブルだらけだった労作

はい。ということで、ありがとうございました。『ボヘミアン・ラプソディ』、僕も本当はもっといろんなところに行きたかったんですけども。まずはTOHOシネマズ六本木でドルビーアトモス……音がいい状態で見たかったんで、ドルビーアトモス。あと、普通にバルト9でも見たんですけど、やっぱり音がいいところでできるだけ見たいということで、僕、川崎チネチッタのLIVE ZOUNDっていうシステムがすごく音楽に向いてるっていう話なんで、それをちょっとやっているうちにかならず行きたいなと思ってるんですけど。

ということで、故フレディ・マーキュリーを中心にしたクイーンの伝記映画、っていうことですよね。これ、ご存知の方も多いと思いますが、こうして実際に映画として出来上がるまでにですね、かなり紆余曲折……もっといえば、わりとエグめのトラブルがあった作品なんですね。企画そのものは2010年ぐらいからずっと進行していて、フレディ・マーキュリー、最初はサシャ・バロン・コーエンが演じるとか(の話もあった)。で、あとはその彼は方向性の違いから降板して、その後にベン・ウィショーがやるなんて話が持ち上がったりとか。でも、それも結局なくなって……とか。

監督もまあ、デビット・フィンチャーからトム・フーパーからデクスター・フレッチャー……この人は俳優でもある人なんですけど、後ほど言いますけど、このデクスター・フレッチャーさんが最終的には呼び戻されることにもなるんですけど……で、現状クレジットされているブライアン・シンガーさんが監督になって。まあ、それも二転三転。あとはまあ脚本も、当初のピーター・モーガンさんから、やはり伝記物に実績のある現状のアンソニー・マッカーテンさんへと、とにかくいろいろと二転三転したというね。どうも、主にクイーン側……要するに現在残っているオリジナルメンバーであるブライアン・メイとロジャー・テイラーの意向と、その作り手たちとの違いっていうのがどうしても出てしまう、というようなことで、ここまで難航したみたいなんですけども。

しかも、いざ2017年9月に本格的に撮影が始まった、その後にですね。まあ最初に撮ったのが、後で詳しく言いますけども、あのクライマックスのライヴエイドのコンサートシーンだっていうのも、まあすごい話なんですけど。12月になって、監督であるブライアン・シンガーが、感謝祭の休暇……要するに11月の終わりの方ですかね、そこから現場に帰ってこない、と。で、仕方なく撮影監督のニュートン・トーマス・サイジェルさんが、監督の代わりに現場をなんとか仕切っている、という異常事態が起こっちゃって。どうもそのブライアン・シンガーさんは、キャストとかスタッフたちとかなり折り合いが悪かったみたいだという。で、とにかくまあ20世紀フォックス的には、ブライアン・シンガー、クビ!っていう。いままでも『X-MEN』とかさんざん撮ってきたのに、もうブライアン・シンガーの会社とも契約解消!っていうところまで行っちゃって。

で、さっき言った俳優出身でもあり、一時は監督候補でもあったデクスター・フレッチャーさんが呼び戻されて残りを仕上げた、ということになっている。ただ、その全米監督協会の規定とかいろいろ踏まえた上で、結局クレジットは「ブライアン・シンガー監督」に、っていうことなんですよ。だから僕、ちょっととある番組で「ああ、ブライアン・シンガーがひさびさにホームランを飛ばしたんですね」なんて言い方をしちゃったんですけど、全然……ホームラン飛ばしたどころか、引退級のやらかしをしちゃっている、っていうことなんですね。まあ、大変だったのかもしれないですけども。

■制作のトラブルにもかかわらず、完成した映画は「圧倒的強度」で貫かれた一本

ということで、まあ立派なメイキングブックが出てるのに、「監督」という立場の人の発言が全くない、という奇妙なことにもなってるんですけど。でね、そんなこんなで普通だったらこれ、焦点のボケた凡作に終わってしまっていてもおかしくない制作事情を持つわけなんですけど……実際の出来上がりは、むしろ、異常なまでに焦点がはっきり絞れまくっている!っていうか。ここまで焦点が絞れてる映画も珍しいんじゃないかっていうぐらい、焦点に関してはすごく絞れている。それゆえに、こういうことですね……「圧倒的な強度を持つ映画」になっている、ということだと思います。いろいろと瑕疵について言うことはできるかもしれないけど、とにかく「強度」があるっていうか。そういう作品になっている。

監督交代劇を経てもなおブレなかった、この強力な芯とは何か?っていえば、おそらくですけども、まずはやっぱり、クイーンっていうグループが生み出してきた音楽、そしてその歩んできた道のり、それ自体のそもそもの圧倒的な強度、というのはこれ、もちろんあるでしょう。だし、あと一貫して制作に深くかかわってきた、当の本人たちですよね。ブライアン・メイとロジャー・テイラーさんの中の、「クイーンの伝記映画にするなら、こういう風にしたいんだ!」っていう明確なビジョンと、それを最大の指針として正しく体現しようと全力を尽くしたのであろう、ラミ・マレックさんをはじめとするキャスト、スタッフの気合い。まあ、ラミ・マレックさん、本当にまさしくフレディが憑依したかのような力演を見せていますけども。

で、ひょっとしたらそれがあまりにも強いから……監督交代ぐらいではブレなかった芯があるし、ひょっとしたらそれが強すぎて衝突も起きやすかった、っていうことなのかなっていう気もするんですけども。とにかく、結果的に伝記音楽映画として非常に「強い」1本に……僕はこの映画を表現するのに、とにかく「強度・強さ」っていうことをすごく感じました。「強い」一本が出来上がった、という風に思います。もちろんですね、歴史的事実をエンターテイメント向きに改変しているところは多々あると。で、まあ伝記映画っていうのはそういうもの、っていうのもありますよね。なんでもいいですけど、最近では『ストレイト・アウタ・コンプトン』とか素晴らしい映画ですけども、まあリアルタイムでN.W.A.を見ている身からすれば、非常に都合よく書き換えた伝記映画なのは間違いない、っていうのはあるんだけど。

特に本作の場合、そのフレディとメンバーが、いつ、そのフレディのエイズ感染を知ったのか?っていう点を、クライマックス、その85年のライヴエイド・コンサート直前、っていう風に改変していることが、一部で批判されてたりもする。で、それもちろん理解できる話ではあるんだけども、それもこれも、全てはさっき言ったような「伝記音楽映画としての圧倒的な強度」っていう、とにかくその1点を目指して作られている……っていうのは、僕はまるでクイーンの音楽やパフォーマンスそのものでもあるな、っていう感じもするんですけども。とにかくその、圧倒的強度という1点を目指した結果の作りである、という風に思います。

 

■ラスト20のライブシーンが泣けるのは、クイーンの楽曲の力、だけではない!

具体的には、とにかくまずやっぱり、さっきから言っているクライマックスの1985年7月13日、イギリス・ウェンブリースタジアムでの『ライヴエイド』チャリティーコンサート。その驚異的な再現シーン。その1点に向けて、作品中の全てのエモーションが集約され、そこで爆発する! というですね、非常に徹底した大団円構造ですね。この、クライマックスの音楽コンサートなりがその大団円的に、そこで全てのエモーションを集約させて爆発させる!という構造。たとえば、日本の『のど自慢』とか、あとはこの間のCGアニメーションの『SING/シング』とかはそういう構造を持っていて。僕はもうこの大団円構造が大好物なんですけど、それになっている。

まあ、この映画自体は、ともかく最初にそのクライマックス、「ここに来ますよ」っていうまずゴール地点、「ここに持っていく映画ですからね」っていうのを最初に見せてからの、そこに向けての積み上げをしていく、という構成なわけですけども。これ、本日「アトロク・フューチャー&パスト」にも来ていただきますコンバットRECがしきりと熱く語っていたところなんですけど、とにかくこれは、クライマックスと言いながら、やっていること、見せられることは、ただのコンサートなんですよ。20数分間のライブシーンなだけなんですよね。その間になにか、いわゆるドラマチックな出来事が並行して起こったりするわけではないんですよ。ただのコンサート。

なんだけど、僕なんかはちょっと「涙が前に吹き出してるんじゃないか?」って思うぐらい(笑)、ここでドボドボ泣かされるわけですね。それはなぜか?っていうことなんですよ。もちろんね、「そりゃあクイーンの音楽の力でしょ? 音楽がいいから泣いちゃうんでしょ?」って、もちろんその面もあります。クイーンの音楽の力っていう、それも当然ありきなんですが、でも、それだけではないのも明らかですよね。っていうのは、ねえ。クイーンの音楽だけを聞いてドボドボ泣く人が続出って、それはありえないですし。

たとえば実際のライヴエイド映像、YouTubeとかで見れますけども、それとかあとはそれこそクイーンのドキュメンタリーの流れで曲を聞いたりパフォーマンスを見たりしても、ここまで涙腺を直接的に刺激される、エモーションがいきなり高まる、みたいなことはないはずですよね。そんなことはないじゃないですか。つまり、ここぞやはり伝記映画たるところで、あのライヴエイドの圧巻のステージに至るまでの、やっぱり1個1個の積み重ねがあるから、っていうことですよね。

 

■クイーンというグループの歩みが重ねられた、ライブエイドでの選曲

たとえば、クイーンというそのグループの歩み。実際には1985年、その劇中で描かれているような活動休止状態では全くなかったんですよね。全然もう、大阪でもライブをやったばっかり、とか。そうやってライブ活動もしてるし、というのはあって、いろいろと状況もドラマティックに盛られてはいますが……ただですね、たとえば、これこそ今回の映画が全くなかったことにしているあたりなんですけど、本当はそのライヴエイド直前のクイーンはですね、むしろアパルトヘイト体制下の南アフリカで、サンシティという商業施設でコンサートをやったことで国際的に批難を浴びて、イメージ的にはかなり地に落ちた状態になっていた時期、という。そういうことなんです。

なので、こういうことですよね……グループとして落ち目感が漂い始めた、このままだったら右肩下がりなタイミングだった、というところは間違いないわけですよ。グループの置き位置としては間違っていない。そしてまさにそこでの、起死回生をかけた大舞台、大勝負っていうこのグループ側の物語が、あのライヴエイドのパフォーマンスの全てに……たとえば、その歌詞のひとつひとつとか、選曲のひとつひとつに、見事に重なる、っていうことなんですよね。たとえば、「Radio Ga Ga」っていう曲だったら、あれはもちろんラジオへの、ラジオ愛を歌った歌なんですけど。「古臭いと思われるものかもしれない」とか、あとは「君がいれば文句を言うし、いなければ文句を言う。そういうものだ」っていう、そのグループの立ち位置の話をしているように、「Radio Ga Ga」っていう選曲がやっぱり見える。これはクイーン側の選曲の意図でもあったのかもしれないけど。

っていうようなところで、1個1個、物語が重なる。だから、僭越ながら私も、プロのライブパフォーマーとして、そして音楽グループのメンバーとして長年やってきた端くれとして、もちろん規模は比べ物にならないけど、それこそ大きな音楽フェスとか、いろんなグループが出るショーケースのイベントで、やっぱりぼくらとしては、「ここで、オレらをナメているような……『ライムスターはもう古臭いだろ』とか、どうせ思われているかもしれねえよ。『大して売れてもいない』とか思われてるであろう中、なんとかねじ込ませてもらったよ。でもここで、この幕を開けて出ていく瞬間に……オレたち、この20分のステージで、全部持ってってやるんだ! あいつらをこのステージで見返してやるんだ!」っていうこの気概。本っ当によくわかる。

だからあのステージを開けて、バーッと観衆がいて、「行くぞ!」っていうあの感じはもう、僕たちがいつも味わっている――どんなに小さいステージでも――味わっていることと同じですし。実際にクイーンはこのライヴエイドの時、他のバンドはわりと「チャリティーイベントだし」っていうんで直前にやってきて、そんなに大した準備もなく演奏をした、みたいなことがメイキングにも書いてあるんですけども。まあクイーンはちゃんと、ヒット曲をメドレー的に並べた鉄壁のセットリストを組んで、リハーサルもきっちり重ねて、ちゃんとあそこで「勝ちに行っている」んですよ。と、いうことなんですよね。

 

■大舞台で「勝ち」に行き、そして見事に勝利を手にしたライブパフォーマンス

加えて、「勝ちに行っている」と言えば、劇中でもちょっとギャグ的にアレンジされて入っていたエピソードですけども、本当にサウンドエンジニアのジェイムズ・トリップ・カーラフさん……劇中ではマネージャーっていうことになっていましたけども、その方がPAの音量を、それまで、クイーンの前まではリミッターをかけておいて、クイーンになった途端に、リミッターを外してドーン!って、クイーンだけ最大音量にしてやった、という。それ、めちゃめちゃズルいんですけども……それだけはやっちゃダメだろう!っていうことなんだけど(笑)。要は、クイーンって普段はものすごく凝った舞台演出ありきでいろいろとライブをやっていた人たちなんだけど、やっぱりそういうのを使えないから、むき出しの実力勝負の場で、「だったら音を出してやる!」って、ドーン!ってやったりしているという。

ということで、見事にこの大勝負に打ち勝つ。まさしく「オレたちはやったんだー!」っていうこのストーリー。これが、ライブパフォーマンスそのもの、そして曲そのものと一致して、巨大なエモーションを巻き起こす、っていう作りになっているわけですね。あるいはもちろん、本作の主人公フレディ・マーキュリーを演じるラミ・マレック。『MR. ROBOT/ミスター・ロボット』っていうテレビシリーズで有名になりましたけども。ちょっとあの出っ歯はさすがにやりすぎじゃねえか?っていう気もしましたけど(笑)、まあ身のこなしから何から、次第に完全にフレディ・マーキュリーに「憑依」していく様……これはまさに、もともとは「ファルーク・バルサラ」っていう青年だった人が、「フレディ・マーキュリー」に「なっていく」プロセスそのものとも重なって。実に見事な変身プロセスを見せる。

 

■本当の自分を見つけ、肯定する。人生最高の瞬間、その歓びに溢れたライブシーン!

とにかくその彼の人生……もちろんですね、スーパースター、ロックスターであること、80年代に密かにゲイであったこと、そしてインド系であったこととかルックスへのコンプレックスとか、まあもちろんそのフレディ・マーキュリーならではの、非凡な人生の話ではあるんだけど。でも、それは同時に僕、こういう話だと思うんですよ。これは、「ここではないどこか」、いまの自分を超える何者かになりたいっていうのを夢見る若者が、社会の現実の抑圧とかと「本当の自分」探しみたいなところの間でもがきながら、ついにその「本当の自分」っていうのを見つめて受け入れてくれる<家族>、これはもう血族でなくてもいいんですけども、<家族>のもとに再び帰り……こういうことですよ、「自分が自分であることを本当の意味で誇る」。そういう段階に到達、たどり着くっていう。

これ、誰にでも当てはまる、究極的に普遍的な物語でもあるわけですよ。だから、あのクライマックス。ライヴエイドのコンサートシーン。クイーンというグループにとってはさっき言ったように起死回生の大勝負であると同時に、フレディ・マーキュリーその人にとっては、自分の人生、あるいは自分という存在を再肯定する場として、この劇中で扱われているわけです。そしてその物語が、さっきから言っているように、ライブパフォーマンスそのもの、歌詞ひとつひとつと重なる、というか完全に一致するわけですよね。彼の人生の肯定と。その、爆発するような喜びとエモーション。「自分の人生は間違ってなかった!」っていうことを、自分が作ったまさに名曲の数々に乗せて伝えるような構造になっている。

そしてここも大事。それを我々も、実際のライブ映像では容易に体感できない、ステージ上の彼らの視点とか感覚を伝えるような演出とかカメラワーク、編集を通して、追体験させられる。言ってみれば、非常に特別ではあるけども、同時に普遍的な、「人生最高の瞬間」っていうのを、疑似体験できるクライマックスなわけですよ。我々が生きていて、実際にはなかなか味わえない、究極のエクスタシーっていうか。人生最高の瞬間。これがこのクライマックス、ライブシーンの素晴らしさであり、すさまじさ、という部分だと思うんですよね。

 

■クイーン、そしてフレディ・マーキュリーの物語をより普遍化してみせた

で、上手いのはこれ、実際のライヴエイド映像を見ればわかりますけど、本当はあと2曲、やっているんですね。「愛という名の欲望」と「We Will Rock You」をやっているんだけど……なんだけどやっぱり、いまの映画の流れ。実際にはその(2曲を歌う)場面も撮ったらしいんですけど、(最終的には現状のように)「ボヘミアン・ラプソディ」の頭のところをやって、「Radio Ga Ga」をやって、コール&レスポンスをやってからの、「Hammer To Fall」をやって、「We Are The Champions」に流れる……という、タイトかつ、エモーションが途切れないメドレーに整理し直しているんです。実は映画用に。

これ、だからやっぱりこれは史実、事実の再現ではなく、「クイーンという物語」「フレディ・マーキュリーという物語」を一旦普遍化して……だからそのクイーンという物語、フレディ・マーキュリーという物語「全体」の映画化、全体の寓話化、普遍化、そして神話化、みたいなことを目指した作品だという言い方ができると思います。その意味で、前述した、エイズに関する時系列改変も、批難されている方の論理とか心情っていうのは重々わかりますけども、僕はまずこの(ライブエイドでの)パフォーマンスそのものが、後から振り返ると、「まるで死期を悟っていたかのような」集大成的なパフォーマンスだ、っていう風に後から見て思うところはあるわけだから、それを物語的に語るっていう意味では、そこまで筋を外した劇的改変ではないという風に僕は感じるし。

 

■事実の時系列の改変も、決してお涙頂戴的な使い方ではい

あと、そのエイズを知りながら……っていうのが、「病魔に冒されながらもがんばってやりました」的な、それこそお涙頂戴的な仕掛けとしては一切使っていないですよね? むしろここは、さっきから言っているように、人生や生の全面肯定っていう場面として描かれている。だから、「生は限られているかもしれないけど、それをいま肯定するんだ」っていうところに使っているので、僕は倫理的にもこれは全然ありな改変だ、という風に思うんですけどもね。とまあ、圧倒的な力技で鬼のように感動させられてしまうクライマックス。ここ中心の話ばっかりしちゃいましたけども、他も本当にキュートな映画で。

マジで似ている各メンバーたち。特にやっぱりブライアン・メイはそっくりですね。名曲レコーディング秘話っていうのも、あのクイーンというグループが、決してフレディのワンマングループじゃないんだなと。全員がスーパーヒット、名曲を作っているスーパーグループなんだ、っていうのも伝わるし。あと、本質としてやっぱりなんか仲がいいし、その仲の良さの本質に、彼らメンバー各人が、わりとちゃんとした人たちっていうか、ちゃんとした人間性の人たちなんだな、っていうのが伝わってくる作りにもなっている。

あとはやっぱりスタジオワークの楽しさっていうのも……まあ「苦しみの部分が描かれていないじゃないか」っていうのはそれはたしかに、私もいま現に(レコーディングで)苦しんでいる最中なので、非常に思うあたりですが!(バンバンと机を叩く) まあ、そこを描く映画ではない、ということだとは思います。ちなみに、「ボヘミアン・ラプソディ」のシングルカットを渋る、あのEMIの重役レイ・フォスターを演じているマイク・マイヤーズ。彼があそこで言うセリフはもちろん、あの「ボヘミアン・ラプソディ」が90年代に人気再燃するきっかけともなった、『ウェインズ・ワールド』を踏まえた楽屋オチギャグを言ってたりするわけですね。

 

■ラストでちゃんとアゲて終わる。「人生を肯定する映画」

あと、忘れちゃいけないのは、実際のフレディとも生涯の家族付き合いというかね、もうファミリーだったメアリー・オースティンさんを演じるルーシー・ボーイントンとの関係性。あの、お互いへの思いを「断念せざるをえない」局面……お互いのことを思っているのに、関係としては断念せざるをえないっていう局面と、それを越えてなおやっぱり思いやりあうその関係性っていうのが、すごく切なく、愛しい。これ、別にヘテロセクシャル同士でも全然ある場面だな、っていう風にも思うし。

やっぱり彼女との関係っていうのは、「人生は辛いけど、でもやっぱり、生きる価値があるよな」と思えるような関係性というか。後ですね、物語的には裏切り者扱いだけど、あのポール・プレンターさんっていう、あの関係も、僕は悲しく切ないな、と思います。彼は彼で、フレディがようやく見つけた「居場所」だったんだろうな、とも思えるから、っていうことですね。雨の場面での、「Under Pressure」が流れての別れのシーンとかも、僕は彼の立場としてもちょっと切ないな、という風に思ったりしました。

そしてなおかつ……でもラストが、この「Don’t Stop Me Now」でね、ちゃんとアゲて終わるのも、この映画全体の、人生の、生への肯定感っていうのに合っていて、すごくいいなって。もっと悲壮感あふれる、本当に文字通りお涙頂戴の作りにすることもいくらでもできたのに……やっぱり「人生を肯定する映画」「命を肯定する映画」になっている、っていうところだと思います。はい。

まあ、日本のファンとの関係がどうこうとか、あとはサンシティ問題を完全にオミットしちゃっていいのかな?っていうのはあるんだけど、まずはでもこの、クライマックスシーンに向けた構造の圧倒的な強さ、強度の部分。僕は音楽伝記映画の新しい傑作、古典になったんじゃないかな、と思いますけども。長く愛される作品に絶対になっていくはずだと思いますし、現にそうなりつつある作品だとも思います。音響のいいところで……これこそ本当に映画館で見ないと話にならない。音響のいい映画館で、ぜひぜひ、いまこの瞬間に、ウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『へレディタリー~継承』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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