TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。
12月23日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、レンガを使ったピザ窯の国内トップメーカー「増田煉瓦」の4代目社長・増田晋一さんをお迎えしました。石窯(レンガ製のピザ窯、パン窯、グリル)に特化した数少ない国内メーカーの増田煉瓦は、元々は1902年(明治35年)にレンガ建築の工事の請け負いとして開業したレンガ製造会社でした。創業100年のレンガ会社がどうして石窯メーカーとなったのでしょうか。

日本でレンガが本格的に普及したのは明治・大正時代。かまど、風呂、酒蔵といったものから、倉庫、橋、そしてもっと大きな建築物までレンガはあらゆるところに使われ、全国各地にレンガ工場ができました。

「レンガ会社は川がよく氾濫するところにあるんです。土石流が堆積するところは鉄分の多い良い土が豊富だからです。関東の利根川では、群馬では私たちの会社がある前橋がそうですし、藤岡、伊勢崎。そこから下った埼玉の本庄や深谷。こういうところはどこを掘ってもいい土が出ます」(増田さん)

群馬や埼玉で作られたレンガは利根川の水運を使って東京・飯田橋のレンガ問屋まで運ばれ、あちこちの土木や建築に使われました。レンガは絹と並んで日本の近代化を支えた産業でした。群馬はまさにレンガと絹の町です。明治の初め、富岡製糸場が建設されたときには埼玉県深谷から多くの瓦職人が集り、大量のレンガを焼いたそうです。そして富岡製糸場で作られた絹は貨物列車で横浜まで運ばれ、そこから海外へ輸出されるのですが、輸出前の絹を保管したのが有名な赤レンガ倉庫です。
「でも横浜の赤レンガ倉庫のレンガはアメリカ製なんです。当時、倉庫を造るだけのレンガを国内ではまだ量産できなかったので輸入したんです。そのアメリカ製のレンガは日本のレンガと大きさが違うんですよ。というのは、レンガの大きさは、職人の手の大きさで決まるからです。アメリカ人の方が手が大きいですからレンガも大きいんです」(増田さん)
時代が移って昭和に入るとレンガの需要は激減。1923年(大正12年)の関東大震災でレンガ造りの建物に倒壊被害が集中したことで、鉄とコンクリートが主流となっていったのです。さらに時代が下ると安価な輸入レンガが追い打ちをかけ、全国のレンガ工場が次々と姿を消していきました。
増田さんは1960年、斜陽のレンガ会社の4代目として生まれました。家業を継ぐ気はなく、神戸商船大学へ進学。エンジニア(機関士)として船乗りを目指したのです。ところが視力が悪かったため夢はかなわず、群馬にあった家電メーカー「東京三洋電機」(のち三洋電機と合併)に就職。
「船乗りになれないと、あとは就職先がだいたい決まっちゃうんです。お前、群馬県出身だったな。群馬にいいところがあるぞって。群馬から逃げたくて神戸に行ったのに結局、戻ってしまったんです。三洋電機では業務用の冷蔵庫やエアコンに使われるコンプレッサーの設計の仕事をやりました」(増田さん)

そのままエンジニアの仕事を続けると思いきや、増田さんは10数年勤めた三洋電機を辞め、父が3代目社長を務めていた増田煉瓦に入社したのです。1994年、34歳のときでした。どうして継ぐ気がなかった家業に入ったのでしょうか。

「エアコンの性能試験があるんですが、これが苦手だったんです。夏に冬の試験をやるんですが、防寒着を着てやるんです。その温度差がやせた私の体にはこたえるんです(笑)。それで辞めました」(増田さん)
増田さん、なかなか面白い方です。でもレンガ会社を継ぐ気になった理由はほかにもありました。エアコンの技術指導で訪れた中国の経済特区の様子を見て、中国の人たちが技術を身に着けたら自分たちの居場所は10年もしないうちになくなってしまうだろうということが分かったのです。そしてもうひとつは、その中国で改めて気づいたレンガの可能性。
「中国は今でもレンガ造りが多いんですが、レンガの性能って結構すごいということが分かってきたんです。そういえばうちはレンガ屋だったなと。それで親父に入れてもらいました」(増田さん)
でもその頃の増田煉瓦は安い輸入レンガとの競争が苦しく、レンガの製造を止めて委託生産になっていました。しかも廃業まで考えていたのです。そんな状況で増田さんが入社してきて会社は困惑。ところが増田さんは全く違うことを考えていました。「このまま安く大量にレンガを造っていても、低コストの外国製レンガにはかなわない。だったらレンガに付加価値をつけたもので勝負しよう」。そんなとき群馬県内のお店から「レンガの会社だからピザ窯は造れませんか?」と相談を持ちかけられたのです。ピザ窯を造ることは簡単ではありません。でも増田さんは増田煉瓦の新たな柱としてレンガを使ったピザ窯のオーダーメイド製造を始めました。

イタリアでは初めに砂でドーム型を作り、その上にレンガを載せて固める方法が一般的。増田さんも初めはその方法で造ってみました。でもそれでは完成後も窯の内側に砂が残ることがあるのです。砂がピザの上に落ちたら、イタリアでは「仕方ない」ですむかもしれませんが、日本では許されません。訴訟にだってなりかねません。そこで増田さんたちは空洞のままレンガをドーム型に積み上げる技術を開発したのです。ここでメーカー出身の増田さんのエンジニア魂に火が付きました。

「イタリアに行ってピザ窯造りを教わろうとはしませんでした。初めから誰かのやり方を見ちゃったら、それがお手本になっちゃうんです。それを越えられない。だから試行錯誤して、自分のやり方でピザ窯を造りました。技術屋っていうのはそういうものです」(増田さん)

増田煉瓦の石窯を見て、本場イタリアの職人も「これは真似できない」と舌を巻いたそうです。

ところで、ピザ窯とパン窯はどこが違うのでしょうか? ピザ窯は450℃という高温で1~2分という短時間で焼くため窯。窯内部で熱せられた空気はドーム型の天井まで上り、そこから真下におちるように設計されているのです。ちょうどパラボラアンテナに当たった電波が一点に集中するような感じで、熱が窯の中のピザの上に集まるのです。一方、パン窯は250~300℃くらいの熱で20~30分かけてじっくり焼くための窯。余熱で焼くのがパンなのです。だからピザ窯と比べて熱を長くためておくような構造に設計する必要があるのだそうです。

またグリルは、焼く対象が「肉」であるところが「粉もの」のピザやパンとは大きく違います。いかに炭や薪の熱を肉に与えるかが重要になってくるのですが、ここでもレンガが大活躍。レンガは熱すると遠赤外線を発します。波長の長い遠赤外線は食材によく浸透するので、中までよく焼けて、なおかつふっくらとします。鉄窯だと食材の表面に熱が集中して内側が固くなってしまうのですが、レンガの窯は食材の柔らかさやうまみを残すことができるのだそうです。
高い温度を長時間、蓄熱できる増田煉瓦の石窯は、100年の歴史を持つレンガ会社ならではの工夫がつまっています。今では年間200基ほどの石窯を製造し、全国各地のレストラン、ピザの店はもとより、日本料理の店からも注文が相次いでいます。なんと、大国魂神社(東京・府中市)や円覚寺(神奈川・鎌倉市)といった神社仏閣のかまどにも増田煉瓦の石窯が使われているそうです。さらに韓国、台湾、ベトナム、ロシアといった海外でも使われています。
レンガメーカーから石窯メーカーへと変貌した老舗レンガ会社、増田煉瓦。これからもっと若い職人さんが集まってくるような会社にして、石窯造りの技術も100年先まで伝えていきたいというのが増田社長の大きな夢です。
増田晋一さんのご感想

久米さんはすごく事前の準備をなさって、私たちのことを隅々まで調べていただいたおかげで、とても話しやすかったです。
どんな話をしたらいいのか、こちらに来るまでいろいろ考えたんです。レンガや石窯について学術的な話がいいのか、一般的な話がいいのか、それとも自分のことがいいのか、いろいろなパターンを考えました。そうしたら、うちの家内には「学術的なことだったら調べれば分かるんだから、たぶんあんたのことを聞かれるんじゃないの」と言われたんですが、その通りになりました。神戸商船大学のことも聞いていただいて、昔の仲間が聞いたら喜ぶと思います。
ピザ窯の話もよく引き出してくれました。ありがとうございました。
次回のゲストは、建築家・坂茂さん
12月30日の「今週のスポットライト」は「あのゲストのその後スペシャル!」と題して、建築家の坂茂(ばん・しげる)さんをお迎えします。阪神大震災の神戸、東日本大震災の宮城県女川、ルワンダ、トルコ、スマトラ、中国・四川など世界中の被災地で紙のパイプやコンテナを使った仮設住宅を建設するなど支援活動を続け、今年、マザー・テレサ社会正義賞を日本人で初めて受賞しました。