トークパレット木曜日「スタンバイ・ブックナビ」

2012年02月16日(木)
今朝は、書評家の岡崎武志さんにお薦めの本を紹介していただきました。


★銀座に本社がある化粧品メーカーが資生堂。創業は明治5年(1872)と言いますから、今年は創業140年。化粧品の売上げは日本一、世界でも五本の指に入るメーカーです。
★美意識の変容をテーマにして研究を続ける著者は、銀座という街と、この資生堂は共に成長してきたことを、この一冊で追っていく。

★そこには、いまの資生堂を作り上げた初代社長の福原信三のビジネス戦略が大きく働いていた。「銀座の資生堂でないと、今の人々にはピンと来ない程度銀座と資生堂は 離れ難い存在である」と経済誌が書いたのは、昭和16年のこと。いまでもそのまま通用してしまう。

★資生堂は福原信三の父・有信たちの手により、最初新橋で薬店として開業した。じつは、それから五十年近く、資生堂は新橋にあった。ただし、現在の銀座七丁目で、銀座と名のつくエリアを広げたのも信三ですが、それは後の話。
★店名の「資生堂」は、中国の古典「易経」から取った(「資生」はすべてのものはここから生まれるの意)というから、いかにも漢字だけ見ていると古くさい。
★これを化粧品メーカーに変貌させたのが、海外で仕事を学んできた信三でした。銀座という街に目をつけたのも信三。

★大正3年に東京駅ができて、新橋駅(いまの新橋駅ではなく、汐留にあった)は閉鎖され、大正年間に新橋および銀座は、丸の内の発展とともに凋落の傾向にあった。
★しかし、銀座という街の魅力に注目し、街全体の振興を自社の発展と結びつけたのが若社長の信三だった。カジノで何十億も使うどこかの御曹司とは大違い。

★彼は、銀座の本社ビルに化粧品部を新設し、パーラーとギャラリーを一緒に作った。本業とは関係ない分野に手を出すことは、当時珍しかった。
★ギャラリーは観覧無料だったから赤字。しかもパーラーでは一流のコックを雇い、本格的な洋食を提供した。ここに信三の斬新な経営戦略があった、と著者は見る。
★また、関東大震災以後、東京市長だった後藤新平が都市改造に乗り出した時、銀座通りを舗道の柳からイチョウに変え、レンガ敷きをアスファルトに変えると言った時、これに反対したのが信三だった。

★当時、化粧品メーカーとして平尾賛平商店(レート化粧料)と中山太陽堂(クラブ化粧品)が二大大手でしのぎを削っていた。資生堂は後発で名を知られていない。
★信三は、化粧品に縁のない男性や子どもも、パーラーを通じて資生堂に関心を持つと考えた。じじつ、詩人の村野四郎は、慶應ボーイ時代に、資生堂パーラーでシュークリームを初めて食べて、まんじゅうみたいにかぶりついたら黄色いクリームが出てきて驚いたと書いている。
★銀座に出て資生堂で洋食を食べたりコーヒーを飲んだ思い出を書いている作家や芸術家がたくさんいる。「ハイカラな資生堂」のイメージが定着していく。
★また、それまで男性の街だった銀座に、資生堂があるおかげで女性が足を運ぶようにもなる。大正時代に「耳かくし」という、洋装にも和装にも似合う女性の髪型が流行しますが、この「耳かくし」を仕掛けたのも資生堂。

★パーラーやギャラリーなど本業以外にチカラを入れる信三のやり方は「長期的には企業イメージの形成、美術界との人材交流、企業メセナの原型の確立など、資生堂の無形資産を形成していく」と著者は高く評価している。
★そのほか、広告宣伝の分野で、花椿の商標、資生堂独自の書体を作る、包装紙やラベルに使われた唐草模様など、「ひと目で資生堂とわかる」品位あるスタイルを作り上げた話など、どれも興味深いブランド戦略が次々と出てくる。

★生涯を通じて「美学」を貫いた。そこに経営者としての福原信三の真骨頂がある、と著者は結論づける。魅力あるトップでしか、魅力ある企業は育たないのだとこの本を  読んで思いました。

★なお余談。いま、資生堂の名誉会長を務める福原義春さんは、信三の甥にあたりますが、読書家で知られるなど一企業のトップという以外にも名を知られている。
★ぼくは、資生堂の広告部にいた山名文夫というデザイナーのファンで、写真家としても知られる信三の写真集も持っている。福原義春さんに取材したとき、そんな話をしたら、喜んでくださって貴重な『資生堂百年史』という昭和47年に出た分厚い立派な社史を下さった。いまでも大事に持っています。

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