トークパレット木曜日「スタンバイ・ブックナビ」

2011年10月20日(木)
今朝は、書評家の岡崎武志さんにお薦めの本を紹介していただきました。


★今年のプロ野球も、両リーグの順位が確定して、あとはクライマックスシリーズ、日本シリーズと、いよいよ終盤。今年は、パ・リーグのソフトバンクが圧倒的な強さを見せたという印象があります。「最強球団」と呼んでもいい。ところで、、、「最強球団」とはよく言われますが、「最弱球団」とはあまり聞かない。

★ところが、戦後プロ野球史に、この「最弱球団」と呼ばれたのが「高橋ユニオンズ」。パ・リーグに1954年から、たった3年だけ存在した球団。私も知らなかった。
★今回紹介する『最弱球団』は、三年で最下位二回という、めちゃくちゃ弱い幻の球団を描いたノンフィクション。

★この本で初めて知りましたが、セ、パともに7球団の時代があった。53年にセは現行の6つになるが、パは7つのまま。じつは、8球団の時代も3年だけあって、その8球団目が「高橋ユニオンズ」です。

★セ・リーグの人気に追いつくために、当時、大映スターズのオーナーだった永田雅一の案で、1リーグ増やすことにした。「日本のビール王」高橋龍太郎が、ポケットマネーでオーナーとなって生まれたのが「高橋ユニオンズ」。
★初代監督は浜崎真二。ところが選手は、ほかの球団で使われなくなった選手(言葉は悪いですが、ポンコツと飲ん兵衛)ばかりだった。有名選手では、あのスタルヒンがいましたが、すでに全盛は過ぎ、体重120キロとぶくぶく太り、相撲取りと言われた。

★どんなに弱かったか。三年間の通算平均勝率が342。負けっぱなしで人気がなく、本拠地の川崎球場は、チケットが29枚しか売れない日もあった。

★たとえば、六月十二日対西鉄ライオンズ(最強球団)戦。1対17で大敗しましたが、8回のマウンドに立った田村は、なんと1イニングに7つも四球を与える。
★これは球史に残る記録。あまりのことに、監督コーチ、選手も声をかけない。「田村頑張れ!」と声をかけたのが、サードランナーだった西鉄の大下だった。

★翌年1955年、結果的に現役最後の年となるスタルヒンは、300勝にあと6勝というこのシーズンに賭けていた。キャンプの目標は痩せること。キャンプの目標が痩せる事、というのがすごい。22キロ痩せて、9月4日、前人未踏の300勝を達成。
★しかし、いいことはこれだけ。開幕12連敗に始まり散々。4月にはコーチが千葉県船橋市議選に立候補するなど、やる気なし。54年から始まった勝率350以下のチームに罰金500万という制度が適用され、公務員初任給8700円時代に、500万を払う。すべて、オーナー高橋のポケットマネー。高橋は、渋谷の邸宅を売却。

★ただ、この年の暮れ、ようやく生きのいい新人を補強。慶応大学のスタープレイヤーだった佐々木信也。のち、「プロ野球ニュース」のキャスターで有名になる。彼の加入で「高橋ユニオンズは待望のダブルプレーができるようになった」と言います。
★しかし、この年もやっぱり負け続け、最終戦、これを負けたら二年連続勝率350以下で罰金が目前という試合、相手の毎日オリオンズは同情して、明らかに手加減したそう。
★来年こそ、と選手は思いましたが、翌年キャンプ中に、高橋ユニオンズは大映と合併、再び7球団となる。58年にセパともに6球団に統一され、この年、長嶋茂雄が入団。プロ野球全盛の時代を迎えます。

★著者は、当時の資料を調べるとともに、高橋ユニオンズに在籍した選手のその後を追い、取材。その後球界を去った選手も多いのですが、不思議と、みな高橋ユニオンズ時代の思い出を楽しそうに語る。いまだに年に一度、選手会も開かれている。
★著者は、高橋ユニオンズは「最弱」ではあったけれども、決して「最低」ではなかった、と言う。戦後の日本で、プロ野球をできる喜びが、当時若者だった彼らにあった。
★読み終わったあと、さわやかな感じが残る、そんな本でした。


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