トークパレット木曜日「スタンバイ・ブックナビ」

2011年06月30日(木)
今朝は、書評家の岡崎武志さんにお薦めの本を紹介していただきました。


★家は広ければ、広いほどいい、、、それが常識と思うが、そうではない、というのがこの一冊。
★著者は日本建築史が専門の学者ですが、「広さのみが豊さに通じるとはいえない」と提言。「狭さの意味」「狭さの価値」があるのでは、と文学者たちの住環境を例に考えています。
★内田百閒、夏目漱石、高村光太郎などが、じつは非常に狭い空間で住んでいたことがあったというんです。百閒、漱石はじっさい、二畳の部屋で生活。そこから、後世に残る仕事をなしとげた。

★まず内田百閒。漱石の弟子で、『百鬼園随筆』『ノラや』など、随筆で有名になり、亡くなって40年たつけど、いまでも高い人気を誇る。
★偏屈で知られ、芸術院会員に推挙されたときも「イヤだからイヤだ」という理由で断った。百閒は、昭和20年5月の空襲で東京・麹町の自宅を焼かれ、隣りに住む松木男爵邸の庭のすみに建つ小屋に、夫人と二人で住んだ。
★これが三畳間しかない小屋で、しかも一畳分が低い棚になっていて、実質二畳。百閒は、ここに約3年住みついた。
★百閒をモデルにした黒澤明監督の映画「まあだだよ」で、この三畳の小屋が映っていますが、まさしく「小屋」で、木造の交番という感じ。

★「外に行く所もないし、こうして坐って見ると落ちついた気持がする、この小屋が気に入ったから安住したい」と文章に書いた。ところが、電気が引いてない、台所もトイレもない。雨が降るとトタン屋根を叩く音がうるさくて眠れず。不便きわまりない。
★ところが、さまざまな工夫をしながら、ここに住みつく。トイレは小屋のうしろに穴を掘り、目隠しのトタン板を立てて作った。上に大きな木があるから少し位の雨ならだいじょうぶ、通風がいいから「防臭剤」もいらない、なんて書いている。

★著者は、「困窮を楽しみに変える術をもっているようだ」と百閒の二畳生活を見ている。狭い部屋に住むには、この「困窮を楽しみに変える」というのがポイントらしい。
★続いて詩人で彫刻家の高村光太郎。『智恵子抄』などで、日本でもっとも有名な詩人の一人。昭和11年に夫人の智恵子が亡くなり、昭和20年、こちらも空襲で家が焼け、岩手県花巻市の山に建てたのが約7・5坪の小屋でした。
★これは鉱山の飯場だった三間の小屋を解体して、村の人総出で運んで四日でくみ上げた。設計図は光太郎自身が書いた。三分の二が土間で、囲炉裏を切った板場に、三畳半分の畳が敷いてある。ここで寝起きしていた。光太郎はこのときすでに62歳。病魔も襲われ、山小屋生活を切り上げるまで7年をここで過ごす。

★なぜ、こんな不便な山のなかに小屋を建てて住んだのか。諸説あるそうですが、「人里離れた小さな小屋の、そのなかの小さな空間、濃密な空間に住もうと考えたのではないか」と著者は推測する。
★「自分だけの静かで充実した空間、これが必要だった」。そこで詩を作った(鴨長明「方丈記」、西行の庵と同じ心境)。ここで作った「案内」という詩に、「三畳あれば寝られますね。/ここが水屋。/ここが井戸。/山の水は山の空気のように美味。」と書いた。
★この小屋の狭い空間とそこでの生活も、光太郎の「見えない作品」だった、と著者は考える。ちなみに、この光太郎の小屋はいまも保存されて、見ることができます。

★じつは、ぼくも家族がいなければ、ちょっとこういう生活に憧れるところがある。

★戦後の困難な住宅事情の中で、建築家たちにより「小住宅」という考え方が提言されたことがある。みなバラックを建てたり間借りをして窮乏をしのいでいた時代。
★建築家・安藤勝男は、子ども一人いる三人家族に、土間つき七坪の小住宅建設を提案。戦後といまでは、住環境や電化製品の普及など、一緒に考えることはできません。
★しかし、日本人には、狭い環境を工夫して快適に住むという国民性といっていいんで  しょうか、独自の知恵があるように、この本を読んで思いました。

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