トークパレット木曜日「スタンバイ・ブックナビ」

2011年06月02日(木)
今朝は、書評家の岡崎武志さんにお薦めの本を紹介していただきました。



★西村伊作は、文化学院の創設者。本書はその評伝。「桁外れのセンスと資産を教育と芸術に注いで生きた」と帯に書かれています。

★JR御茶ノ水駅から明治通を下り、すぐ脇の道を右へ折れるとそこが「とちの木通り」。その途中にあるのが文化学院です。
★最近、建物が建て代わりましたが、長らく、壁に蔦のからま古い洋館が残されていて、アーチをくぐると中庭があって、ぼくは時々忍び込んでいました。
★その先、男坂、女坂と坂があり、もっと行くとアテネフランセがある。秋には、並木の枯葉が舗道に落ち、ぼくは勝手にここを「パリ通り」と名づけていました。

★その文化学院、卒業生に長岡輝子、犬塚弘、十朱幸代、前田美波里、秋川リサ、平野レミ、鳥居ユキ、菊池武夫、植田いつ子、志村ふくみと、錚々たる芸能、ファッションの世界の著名人がいる。
★自由な校風で、1921(大正10)年4月に女子校として誕生したのが文化学院だった。

★さて、その創設者・西村伊作。タイトルが「きれいな風貌」となっていますが、カバーに若い頃の写真がありますが、じっさいバタ臭い、美青年でした。その美貌の裏側に波乱に満ちた人生があった。

★西村は明治十七年和歌山・新宮の生まれ。父方は医者・教育者の家系で、母方は奈良の山林の大地主。両親ともにクリスチャンで、長男・伊作は聖書の中から取られた。ちなみに弟二人、次男・真子がマルコから、三男・七分(しちぶん)がスティーブンから来ている。裕福で、かなり変わった家庭に育ったことがわかる。

★しかし、悲劇が襲う。西村家が名古屋に住んでいるとき、明治二十四年十月二十八日、マグニチュード八・〇の濃尾大地震が起きる。このとき一家は教会で礼拝をしていた。逃げ出して教会を出たところで、煉瓦の煙突が落ちて来て、両親は即死。伊作はケガをしただけで助かりましたが、七歳で親を失い、莫大な遺産を相続することになる。

★その後、派手な青春時代を送る。日露戦争の徴兵のがれでシンガポールへ渡って絵を描いて暮らし、21歳で自分で図面を書いて、バンガローふうの家を建てる。そこにはベランダ、パン焼窯があり、ハンモックを吊って寝ていた。すごい若者。

★また、医者だった叔父の大石誠之助が父親がわりになって、伊作の面倒を見ますが、この叔父が「平民新聞」の発行など、社会主義運動を支援して、明治四十四年の「大逆事件」に連座して死刑になる。伊作もこのとき、取り調べを受ける。
★東京へ連行された叔父を見舞うのに、伊佐はオートバイに乗っていった。そのとき、アメリカで買ったピストルを身につけていた。ここまでで、この本の三分の一ぐらい。

★大正期になって、都市中間層のための住み良い住宅建築が求められるようになり、また武者小路実篤による「新しい村」といった共同生活による理想郷建設なども始まる。そんな空気の中、伊作は、東京駿河台に土地を買う。最初はホテルを建てて、講演会や音楽会を開くことを考えていた。
★長女アヤがちょうど中学へ上がるとき、理想的な学校がないことに気付く。それなら自分で作ろうと考え、いまの場所に文化学院が作られることになった。

★親の庇護はないかわりに、自由きままに生き、外国へも行き、自分で家を建て、芸術を愛し、社会主義弾圧の波に飲み込まれ、大正のユートピア思想にぶつかり、娘が進学の年になった時、それまで西村伊作がやってきた集大成が「教育」に集約されたのだと、この本を読んで思いました。多才な卒業生の顔ぶれを見ていると、その教育が成功したのだとわかる。

★その自由な校風は、太平洋戦争中、当局から睨まれることになり、不敬罪で拘留され、文化学院もいったん閉鎖される。どうも、西村伊作という人は、自由すぎて新しすぎて、日本の近代史のなかで浮き上がっている。幕末なら龍馬のように暗殺されたかもしれない。しかし、最後まで信念を曲げず、文化学院も昭和二十一年に再開します。
★その時、伊作は「これからはマッカーサーに叱られるようなことをするんだ」と言った。

★この本を読んだ後、文化学院のある道を歩いてみると、また違ったふうに見えてくるんじゃないでしょうか。

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