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【映画評書き起こし】宇多丸、『ラ・ラ・ランド』を語る!(2017.3.11放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

20170311_07

宇多丸:
ここから11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと、<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。その<監視結果>を報告するという映画評論コーナーでございます。今週扱う映画は先週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して決まったこの映画……『ラ・ラ・ランド』

(BGM:テーマ曲が流れる)

もういま、この曲、コンビニとかそんなところでもガンガンに流れていたりしますからね。もう耳について離れない、いろんな様々な音楽がございます。2015年の映画『セッション』で注目を集めたデイミアン・チャゼル監督の最新作、ライアン・ゴズリング&エマ・ストーン主演で、売れない女優とジャズピアニストの恋を、往年の名作ミュージカル映画を彷彿とさせる歌とダンスで描く。第89回アカデミー賞では、史上最多タイとなる14部門でノミネートされ、チャゼル監督が史上最年少で監督賞を授賞したほか、エマ・ストーンの主演女優賞など計6部門でオスカー像を獲得した、ということでございます。もちろんね、世界的に前評判も高くて、アカデミー賞の様々な騒動なんかもございましたが、それも含めて話題性抜群の作品でございます。それこそ「久々に『ラ・ラ・ランド』で映画に行った」なんていう人も結構いるんじゃないか? という感じですけどね。

ということで、もう『ラ・ラ・ランド』を見たよというこの番組のリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールなどでいただいております。メールの量は、多い! ありがとうございます。もちろん今年最多ということでございます。そうでしょうね。まあ、注目度は高いですからね。

ただし、賛否の比率は「賛(褒めている方)」が7割、「否」「普通」が3割という比率。だから、決して大絶賛一辺倒というわけではないというね。世の中的にもね、いまそれこそ菊地成孔さんの酷評……酷評っていうかでも、菊地さんも認めている部分の比率もかなり多い評だとは思ったんですけどね。まあでも、とにかくちょっと割れているというのもあったりしますけどね。リスナーのみなさんのメールでも7:3で「賛」と「否・普通」ということでございます。

褒めている方。「オープニングから最高」「ミュージカル映画としてとても楽しめた」「夢を追うこと、夢を追う人を優しく肯定してくれるような映画」「ラストシーンで涙腺決壊しました」などが褒める人の意見。反対にけなす人は、「期待したほどではなかった」「脚本が雑で盛り上がれない」「ミュージカルシーンが思ったより少ない」「主役2人にそもそも好感が持てない」などの意見が多かったということでございます。

代表的なところをご紹介しましょう。もう本当にいっぱいいただいているんでね。ごめんなさいね。全部紹介しきれなくて。ラジオネーム「頭巾」さん。いろいろ書いていただいているんですけど、ちょっと省略して。すいませんね。「たまらなく大好きな作品でした。いびつで、映画として完璧な作品ではないのは百も承知です。それでも自分の心に強く響くものがこの映画にはありました。完全にノックアウトです。最高です。たしかに中盤までのテンションだったら普通にいい音楽映画で終わっていたかもしれません。しかし、そこにふと訪れるエマ・ストーンの独壇場に一気に心を鷲掴みにされました」。ああ、あのオーディションシーンですかね。

「……そして、最後の最後にとうとう一気に現実から浮遊して、あっと驚く大回転を決めてきれいに着地する。そんなその名人芸とも力技とも言えるような幕引きに、なぜか涙と鳥肌が止まりませんでした」。まあ、力技っていうのはチャゼルは本当に多いですよね。「……夢をかなえるなんて、そんな甘くねえよ! と『セッション』のフレッチャーのごとく鞭を入れながら、全ての夢追い人、夢を見る愚か者たちを静かに肯定してくれる、僕にとってとても大切な映画になってしまったかもしれません」という頭巾さんからのメール。

その一方で、こんなダメだったという方も結構な割合でいらっしゃいました。「すなっち」さん。32才、男性。「『ラ・ラ・ランド』、見ました。賛否で言うと、否です。今作で確信しました。自分、デイミアン・チャゼルと根本的に合わない! 『セッション』で自分が嫌いだった部分をより増幅したような映画でした。あいつ、たぶん自分の都合よく世界が回ると思ってるんすよ! 32才でアカデミー監督賞なんて頂点極めちゃうし、あいつの世界にはいつも自分と相手の2人しかいないんです! そう。デイミアン・チャゼルは『2人だけの世界』を描く作家で、その中でもエモーションを最優先にする作家。それは『セッション』ラストの展開にも現れていました。しかし、あれはなんだかんだでカタルシスがあったのでまだ許容できたのですが、今作は登場人物の男女2人に一切好感が持てないんすよ! 上映中のスクリーンの前に立つバカな女……」。『理由なき反抗』がやっているところでね。まあ、そういうのもありましたけどね。まあ、あれは抽象表現ということにしておいてくださいよ。

「……嫌いな音楽だからって嫌そうにキーボード弾くな、プロだろうが。バカ男! 生活優先にするのがそんなに悪いことか? バカ女!」。そこはそんな、ミアが言ったセリフじゃないんだけどね。そこはね。「……などと、主役2人への好感度が右肩下がりになっていくにつれて、その2人が出ていないオープニングのミュージカルシーンを楽しさの頂点に、映画の楽しさも右肩下がりになっていき、納得できる脚本もないままラストの展開が来ても全く好感度を取り戻せずに、怒りだけがわく有様でした。せめて2人が成功するということに納得がいく脚本があれば違ったんでしょうけど、そこをすっ飛ばされても乗れないよという感じでした。自分はこの映画、そしてデイミアン・チャゼル、嫌い!」っていう(笑)。まあ、激烈な反応という意味でね。

メール、大量にみなさん、熱いのをいただいて本当にありがとうございます。私もこの熱量に応えるべく、まず東京での最速上映をバルト9で見て。その後にTOHOシネマズ日本橋。そして日比谷スカラ座と計3回見てまいりました。あと、サントラも買ったりなんかして、ということですね。脚本・監督デイミアン・チャゼルさん。まだ32才ということで、お若いということですね。若き天才ということでございます。前作にして大出世作『セッション』。製作年は2014年。原題『Whiplash』。このコーナーでは2015年4月25日で扱いましたが、その時の評の中でも一瞬、ちょろっとだけ触れたと僕は記憶しているのですが、そもそもデイミアン・チャゼルさんがハーバード在学中に作った初監督作『Guy and Madeline on a Park Bench』という、2009年の長編がございまして。これはアメリカ本国ではソフトも出ていますし、ネットでもまあ見ようと思えば見れるので、興味のある方はぜひね、チェックしていただきたいんですが。

 

とにかくこれが、『セッション』評の中でも言いましたけど、『Guy and Madeline on a Park Bench』、これがそもそもヌーヴェルヴァーグ風のタップミュージカル……特にやっぱりゴダールの『女は女である』とか、なんかそんな雰囲気。それに加えて、ちょっとカサヴェテスの『アメリカの影』風味が入っていますみたいな、そういうタップミュージカルだったので。なので、『セッション』に続くデイミアン・チャゼルの新作がミュージカルですよ、という情報を聞いた時点で、「ああ、じゃああの『Guy and Madeline on a Park Bench』の方向性をもっと拡大したような感じになるのかな?」というのは予想はついたわけですけども。

 

で、実際に出来上がった今回の『ラ・ラ・ランド』も……よく褒め言葉として使われている「50年代黄金期ミュージカルのアップデート版」というような要素も、後で言うように、なくはない。特にまあ、エピローグのあの展開は、『巴里のアメリカ人』的構造というのは間違いないでしょうし。あと、ミュージカルじゃないけど、明らかな『カサブランカ』オマージュ。(劇中でセリフとして口にされる)タイトルとしても出てくるし、エピローグのある展開もモロに「ああ、『カサブランカ』、そういうことか!」とか(オマージュとして納得できる)。あと、ワーッとヒロインのミアが、セブに会いに行くというところ。途中で、もともと付き合っていた男を切り上げてバーッと行くという、あの展開はやっぱり、『アパートの鍵貸します』な展開だったりとかね。ちなみに、あそこでミアさんがライアン・ゴズリング演じるセブのことを思い出すきっかけが、要は、「こういうやつらに聞き流されるBGM(としての現代における“ジャズ”)……みたいな男」っていうね(笑)。でもそのBGMみたいな男が、気になる!っていうね。その思い出し方、お前、失礼だぞ!っていう(笑)。まあ、それはいいんだけど。

 

ということで、50年代黄金期ミュージカルとか、50年代ハリウッド映画のアップデート版、という要素もなくはないんだけど……ただ、どっちかって言うと『ラ・ラ・ランド』、やっぱりヌーヴェルヴァーグ風というか、本当にたぶんデイミアン・チャゼルさんはヌーヴェルヴァーグが大好きなんだと思うんですけど。特にやっぱり、これいろんな方が指摘されている通り、まあジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』と『ロシュフォールの恋人たち』。オープニングで車に乗った人たちが降りて突然踊りだす……まあ、『ロシュフォール』は歌いませんけど。まあ、『ロシュフォールの恋人たち』。あと、服装も含めた色彩のカラフルな配置の感じも『ロシュフォールの恋人たち』っぽいですし。そして、エンディングのちょっとほろ苦い感じ。これは『シェルブール』っぽい。これはもう、誰が見ても明らかですしね。

 

あとやっぱりデイミアン・チャゼルさん。ゴダールが大好きなんでしょうね。今回も、ミュージカルではないけども、たとえば車がバーッと並んでいるあの最初のショット、車をこうやって並べて見せていくとか、あれは『ウィークエンド』風だなとか。あと、影絵のショットはあれは『万事快調』風だなとか。そういうのがあったりして。あとはトリュフォーの『アメリカの夜』っぽい、撮影シーンをちょっとコミカルに映すところがあったり。とにかくそういうヌーヴェルヴァーグっぽい、言ってみればポストモダンミュージカル、黄金期の後に作られたミュージカル、「黄金期のミュージカルに憧れた人が作ったミュージカル」というような感じ。その意味ではまあ、マーティン・スコセッシの『ニューヨーク・ニューヨーク』。これもエンディングのほろ苦い結末は似ているっていうのはあるし。

もっと言えば、コッポラの『ワン・フロム・ザ・ハート』あたりまで含んでもいいかもしれないけど、とにかくそういう、いわばポストモダンミュージカルならではの、ある種のうら寂しさというか、薄暗さというか……これは実際に、話としての暗さだけじゃなくて、画面も黄金期ミュージカルというには暗いっていう。たとえばナイトシーンが多かったりとか、影がガーッと黒めに入っていたりする画が多かったり、結構、画的にも暗いということで。そういう暗さを色濃く感じさせる作品。ということで、宣伝などでやられているような「夢のような」「ハッピーな」という多幸感みたいなのとは、ちょっと違う作品なのは間違いないと思いますね。

で、特にこれはもう完全に作家性ということなんだと思いますが、『セッション』とも共通する、デイミアン・チャゼル作品特有の「ある強烈な癖」というのが、良くも悪くもがっつり刻印された作品でもあって……ある意味『セッション』以上に。その意味で僕ね、すなっちさんの(感想メールで)「あ、言われちゃった!」って思ったんですけど。まさに私、そこに関しては同意です。強烈な「ある癖」が刻印されている、しかも『セッション』以上に。それゆえに、ハマる人はどっぷりハマる。激烈に没入してしまう一方で、冷めてしまう人はサーッと冷めてしまうという、そういう極端な指向性を持った作品でもあると思います。

じゃあ、かく言う僕はどうだったのか? というと……その部分の結論を先に言っておけば、まず、一度聞いたら忘れられない曲・歌の抵抗不能な魅力。このへんはやっぱり、作詞・作曲のジャスティン・ハーウィッツさん。そして作詞のベンジ・パセックさん。この2人が本当、本作のMVPだと思います。まあ、まず曲・歌の抵抗不能な魅力であるとか、それを実際にやる主演2人。わけてもやっぱり、エマ・ストーンの圧倒的としか言いようがないパフォーマンス。そしてやはり、鮮烈に記憶に刻まれてしまう、シーンごとの見事なアイデアと、それを体現する技術という。あるいは、その細部同士が呼応しあう構成の妙。「ああ、こことここが響き合っている、こことここが響き合って……なるほど、なるほど」っていうあたりなどもね。

要は基本的な、ベーシックなレベルの高さに関しては、もう問答無用で感心・感動しつつ、ところどころではまんまとグッと来て。まあポロリと涙を流したりとかも何ヶ所もあったりしてというね。このデイミアン・チャゼル監督の、まさに「作家的腕力」ですよね、腕力。もうガッと首根っこを掴まれて、ガッと感動させられる。そこに関しては異論の余地がないあたりではないかなと思います。批判的な人もまあ、腕力があることは間違いないっていうね。ベースのレベルは高い話なんです。ただ同時に……後ほどちゃんと言いますけど、さっきから言っているデイミアン・チャゼル作品のある「強烈な癖」もあって、正直僕は、「夢を追う人を優しく肯定する」というような部分で感動されている方もいるようですが……まあよくある話しですよね。「夢追い人」をめぐるメインストーリー。その話周りに関してはですね、「なんかモヤモヤするな。なんなら、イライラすんな!」っていうのが結構拭えないまま、それでもさっき言った監督の腕力とか力技でグイグイ見せられ、なんならやっぱりところどころで感動した気にはさせられちゃったり、という感じで、結構な部分、見ていたというか、進んじゃったというところがあるわけですね。

まあでも、それができているだけで、はっきり言って十分、「じゃあ、いいんじゃん」っていうか。「多少強引でもグイッと持っていかれちゃったんだったら、それはすごいんじゃん?」ってことだと思うんですけど。ただ、この『ラ・ラ・ランド』は、すでにあちこちで話題にもなっている通りですね、まあどの程度ネタバレしていいのか、ぶっちゃけちょっと迷っているところですけども。その夢追い人ストーリーが、本当にわりと、きっちりした三幕構成で一応終わった後、その後にエピローグがつくわけですね。で、実はこここそが最大のキモ!っていう作品でもあるというね。

で、僕はというとですね、これまたまさに、「まんまと」っていう言葉がぴったりなんだけど。そのエピローグの中の、ラスト10分ほど。言っちゃえば、さっきから言っている『巴里のアメリカ人』的な構成──『巴里のアメリカ人』っていうのは、クライマックス20分間、あっちは20分間セリフなしで、しかも場面がどんどん変わっていく、非常に抽象的な、心象風景を表したシーンが次々出てきて。それがすごく、歴史的に残っているんですけども、そういう『巴里のアメリカ人』的なシークエンスが、(『ラ・ラ・ランド』では)約10分間(最後に付いている)。まあ、そこで……っていうか、もっと言えば、そのシークエンスの終わったあと、「The End」っていうエンドタイトルが出るまでの40秒ほど。サントラでいうとまさに『The End』って(タイトルが)ついている(曲が流れる)この40秒ほどで、それまでのモヤモヤとか、なんならイライラが、一気に「ああ! ああ、そういうことなら! こういう着地なら! オールOKです! 最高でーす!」っていう感じ(笑)。最後の40秒で「オッケーイ!」っていうね。これ、「まんまと」です。本当にチャゼルの手のひら(の上)だと思います。まんまと鼻汁を垂らして、大号泣しておりました。ということでございます。

この終わり際、「オールOK!」っていう、これはまさに『セッション』もそうですけど、もうチャゼルの十八番ですね。最後に「オッケーイ!」って持っていくというね。ということで、改めて順に追って話していきますけども……まずですね、多くの人が話題にするであろうオープニング。LAで渋滞中の高速での群舞シーン、ありますね。曲は『Another Day Of Sun』という曲。ありますよね。いわゆる「つかみ」なわけですけども。で、機能としてはわかりますよ。要するにミュージカル、そんなに盛んとはいえない現代に、改めて本格ミュージカル宣言。「これはこういう、いきなり人がカメラ目線で歌って踊りだすタイプの映画ですよ」という宣言であり、同時に、その歌詞が本作のテーマとかストーリーを暗示する内容にもなっている。女優を夢見た女の子が、最終的に昔の彼氏に「スクリーンで(自分の姿を)見つけてね」っていうね、その歌詞自体が、何かを暗示しているわけですけど。

で、もちろんその、長い長いワンショットの中で、緻密に組み上げられた振り付け、カメラの動きなどなど……どうやってこれを撮ったかを考えると、もう気が遠くなるようなシーンなのは間違いない。とにかく、誰がどう見ても「すごいシーン」なのは明らか。「すごい」っていうのはつまり、手間がかかっているし、これを実現させる技術はただ事ではないという意味で、「すごい」シーンなのは明らか。これが「すごいシーン」であることを否定する人はいないと思います。ただまあ、ここで正直、ここまで作り手のドヤ顔がはっきりチラつくタイプのすごさだと(笑)、鼻白らんでしまう人も結構いると。実際にですね、シーンの終わりの方で「It’s another day of sun♪(ジャン!)」『La La Land』って出て。で、プップー!って普通のあれ(現実的風景)になって。で、ラジオのいろんな音が聞こえてくる中で、おそらく衣装デザイナー、サンディ・パウエルさんの話題として、『恋におちたシェイクスピア』――言うまでもなく、アカデミー作品賞をとった――の名前が、一瞬ラジオから聞こえてくるとか……。

「おいおい、デイミアン・チャゼルさん、あなた、意外と図々しいですね!」と(笑)。あざといって言えば、こんなあざとい仕掛けはない。要するに「アカデミー作品賞、狙っていきますんで、ヨロシク! いまのシーンだけでかなり狙っていけると思うんで、ヨロシク!!」みたいな(笑)。「お前、図々しいね、やっぱね」みたいな感じがすると思いますし。あとそもそも、LAに住んでいる人みんなが夢を追ってここに来たわけじゃないだろう?っていう。要するにみんなが一斉に歌い出すのはいいんだけど、それがみんな「夢を追ってきた」みたいな歌詞なのには、ちょっと違和感がある。

っていうのは僕、ハングリー(というイメージ)で言えば、もちろんニューヨークっていうのはあるけど……LAは、もちろんハリウッドがあるからハングリーな人も多いだろうけど。どっちかって言うと、あくせくせず、ホゲて生きられるところっていう(イメージも強い)。大前至(おおまえ・きわむ)っていうね、音楽ライターをやっている男が、「夢を追うならLAに来てはダメ」って言ってまして。「なんとか生きられてしまう」っていう(笑)。「サーフィンと大麻を吸いながら、なんとかやっていけてしまう」(笑)。あと、よく言われる通り、「なんかCMみたい」みたいなのも、本当に思ったあたりで、正直僕は、このオープニングシーンの時点では、そんなにテンションが上がっていたわけじゃないんですね。ちょっと若干鼻白んでいたところもあるぐらいということで。まあ、すごいシーンなのは認めつつ。

ただ、後ほど理由は言いますが、終わってみると、「ああ、このシーンはやっぱりないとダメかな」って思うバランスもあったりとも思います。そのへんは後で言いますけども……という流れでまあ、本編に入る。女優を目指すエマ・ストーン演じるミアと、ジャズピアニストとして成功を目指すライアン・ゴズリング演じるセバスチャン。この2人の視点が交差するまでを、時制をいったんさかのぼるっていう形式で見せていくと。まあ、「ウィンター」パートっていうことで見せていくわけですね。(全体のパート分けが)四季になっている。ウィンター、スプリング、サマー、フォール。で、またウィンターと。で、(時制をいったんさかのぼるという)この見せ方、この構造ね。単に序盤、まあ要は観客の興味を持続させるための、ちょっと気の利いた仕掛けっていう、もちろんそれもあるんだけど。それだけではなくて、さっき言った最後につくエピローグで、この「いったん時制が戻る」っていう仕掛けが頭のほうにあることが非常に効いてくる、というあたり。これもとっても上手いなという風に思いますし。

ただですね、この夢追い人としての2人ね。基本的には僕は、結構ダメダメなやつらだと思っていて。正直見ていてやっぱり、さっきから言うようにイライラしてくるところも多い。共通しているのは、2人とも、「生活のためにしている仕事」の時の、勤務態度が悪すぎます!(笑) たとえばミアさんもね、「女優だったらどんな職業に就いていたって勉強になるわ」みたいなそういう前向き感はゼロで。要は単にミーハーなんですよね。単にミーハーで、たぶんシフトのこともちゃんと顧みずに、「あ、オーディションなんで今日、抜けます」みたいな、自己中心的(な働き方をしている人)だったりして。つまりね、あのカフェ、同じような女優志望の、オーディションを掛け持ちでしているような人とか、いっぱいいるはず。ヘタすりゃあの店長だってそうかもしれない、っていう視点は、彼女には全くないし……そして残念なことに、この作品自体にも、最後までその視点はないということなんですね。

で、一方、セバスチャンさんはさらにタチが悪くて。要は本業に近いところでバイトしている分、さらにタチが悪くてですね。「クリスマスソングを弾け」と言われて、ふてくされる気持ちもわかるけど、それをわざわざコミカルな、ちょっと跳ねたタッチで弾いてみせるあたりとか、俺、本当に「お前、ダメだろ?」と(笑)。彼がクビになったのは、最後に自分の好きなように弾いちゃったからじゃなくて、さっきまでのあのおどけたクリスマスソングの弾き方で、お前はクビ!ってこれ、J・K・シモンズ(演じる店のオーナー)はたぶん思っていたと思うんですよね(笑)。要は「自分以外、みんなバカだと思ってるの?」と。ここではその機能(クリスマスのレストランでのBGMとしての塩梅)を求められているわけで、例えばその中で、自分のピアニストとしての才能を……「クリスマスソングも、俺ならこんなに素敵に弾く」とかって考えられないの?っていうさ。

非常に子供っぽい、社会的にはダメ人間という意味で、実は今回のライアン・ゴズリング演じるセブさんは、『ブルーバレンタイン』のあいつ(夫役ディーン)に全然近いっていうね(笑)。あと、なにかにびっくりする仕草とか、意外と先週の『ナイスガイズ!』の、裏声を出す、コミカル方向のライアン・ゴズリングにも全然近いっていうね。「ヒッ!」っていう(笑)、ことだと思いますね。とにかくまあ、いまの場所でベストを尽くすという発想も全くないし、そこの部分の態度とか考え方に関して、彼が後に反省して、つまり「成長をする」ようなはっきりした描写みたいなのが、この作品内にはない、ということなんですね。ということで、この2人は似たもの同士ではあるわけですね。だからこそ、「報われない魂」……なんで報われないか?っていうと、自分たちのせいでもあるんだけど、とにかく報われない魂同士が惹かれ合う。まあ、これは必然でもあるということですね。

で、たしかにその「報われない魂」っていう描写に関しては、エマ・ストーンの圧倒的演技力が、逆に痛々しさを誘うという、見事に意地悪なオーディションシーン。要するに、「非常に“上手い”演技を、熱演しているだけに、痛々しい」っていう風になる、オーディションシーン。特にあの、「電話をかけているところ」っていう、最初に出てくる方はあれ、ライアン・ゴズリングが実際にオーディションで遭った目、実話に基づくらしいですけど……話している内容がどうやら、「本当は泣きたいほど悲しいことなのに、“おめでとう”と言わなければならないようなことを知ってしまった瞬間」。つまり、さっきから言っているエピローグというのと呼応するような内容になっていて、これも、「ああ、上手いな」って思うあたりなんだけど。

あとはやっぱり、たとえばセブさん。さっきから「お前、子供っぽいぞ」って俺は言いましたけど、とは言え、「誰も聴いていない、誰も望んでいない、自分の本当にやりたいこと」っていうのを、絶対的な孤独の中で吐き出すというその姿。僕も正直、「それはわかる。わかる、その気持ちは」って思うから。しかもそれはちゃんと、たしかに「誰か」には届いた。つまり、ミアには届いたっていうのとかはですね、まあデイミアン・チャゼルさんの得意な、人の精神の追い詰め描写の上手さもあって、さっき言ったような彼らの人としてのダメさ、夢追い人としての怠惰さ、傲慢さなどを超えて……っていうか、それらをいつの間にか不問にしてしまう勢いで、まあやっぱり、強引にでも感情移入させられてしまう。これはやっぱり力技ですが。それは全然いいことなんですよね。はい。

あと、なんだかんだ、2人ともちゃんとキュートなところっていうのも描かれている。たとえば、いちいち挙げているとあれですけど、2人が初めて公園でダンスしたシーンの後で、セバスチャンにミアが「あんたの車のところまで送っていくけど?」「いや、大丈夫。そこ、近いから」っつって。で、彼女の車が去りきったのを見計らって、いままで来た方向にセバスチャンはやおら戻っていって。で、自分の車がどこにあったか?っつったら、最初に出てきたパーティー会場の前にある。「ああ、やっぱりミアと一緒に歩きたかったんだ。かわいい~!」っていう(笑)、そういうこともちゃんと描いているから。そこはちゃんと、感情移入描写としては成り立っていると思います。

ということで、まあそれはそれでちゃんと感情移入させられてすごいことなんだけど、ただ、僕がいちばんモヤッてしまうのは、そういう彼らの、さっきすなっちさんのメールにもあった通り、「2人だけの世界」で、結局お話が終始してしまう。つまり、第三者の視点とか意見で目を開かされる、それによって成長する、みたいな、そういう外部要因が一切ないまま、話が終わってしまう。これこそ、さっきから言っているデイミアン・チャゼル作品のいまのところの強烈な癖、アクの部分。これ、すなっちさんの(メールにあった)「デイミアン・チャゼルは2人だけの世界を描く作家で」っていうのは、本当にその通りだと思います。たとえば今回の『ラ・ラ・ランド』でも何度となく出てきますけど、主人公、あるいは主人公たちの周囲が暗くなり、まるで世界に主人公、もしくは主人公たちだけがいるかのように感じられるというあの見せ方。これ、デイミアン・チャゼル作品。『セッション』もそうですし、今回の『ラ・ラ・ランド』でも何度となく出てくる、非常に象徴的(な描写)ですね。「周りの世界が消失する」という描写が非常に多い。

で、最終的に『セッション』も、『ラ・ラ・ランド』も、「主人公たち2人だけの世界」に入っていく、ということですよね。なので、今回の『ラ・ラ・ランド』に関してはですね、その「閉じた」感じっていうのを緩和する意味でも、オープニングで「いや、みんなこの2人と同じように夢を抱いてLAにいますよ」っていうのを、一応機能としては(頭のほうに置いて)あった方がいい。あれがないと、より狭い狭い話に感じられてしまったのではないか、というのはあるかもしれません。で、ですね、まあその「2人だけの世界」でワーッといる主人公たちに対して、それ以外のキャラクター、登場人物の存在感、描き込み。はっきり言えば、重みとか厚みが、極端に軽い、薄い。ほとんど書き割り的と言っていいという。これもひとつの特徴だと思いますね。

要するに、ちょっと「セカイ系」的なところがあるという風にも言っていいんじゃないかと思うんですけどね。『ラ・ラ・ランド』も、2人の成功が、なにか外的要因による変化、成長っていうのが別にあったわけではなくて、もともと持っていたものを、「誰か」……その「誰か」も、ちゃんと描かれませんからね。とにかく、「誰か」に見出された、というだけのことですから。まあ本人たちは、実はそんなに変化していないのかもしれない、ぐらいの感じで。変化したとしても、その2人の中の変化っていうことですよね。というように、その「2人の世界」に、セカイ系的に純化されているわけです。だからこそ、ひとたびそこに没入すれば、陶酔は深くなる、カルト的な支持は集めやすくなる。僕は前から言っているように、たとえば大林宣彦版『時をかける少女』は、外界っていう要素を完全に上手くシャットダウンしているから、あんだけカルト的なんだって言っていますけども。

一方で、ちょっとでも冷めた目で見れば、非常に独善的な、幼い世界観、という風にも取れてしまう、という面があるということで。これこそまさに評価の分かれ目だと思うんですが。とはいえ、これはさっきも言ったように、デイミアン・チャゼルの作家性そのものと不可分なものでもあって。これ、「直し」たらじゃあ良くなるか? というと、良かった部分まで消えてしまいかねない部分だとは思うんですね。とにかくまあ、その「夢追い人」ストーリーに関しては、そういう歪さがあるのは確か。あと、そのくだりがやっぱり、ミュージカルシーンとしてもちょっと薄い、弱いあたりであるのも確かだったりして、まあ「うーん、モヤるな」っていうのが続くんだけど。先ほどのメールにもあった通り、エマ・ストーンのオーディションシーン。『Audition (The Fools Who Dream)』というこれもう、曲・詞・パフォーマンス、素晴らしすぎて。歌詞、ぜひみなさん味わってください。これ、原詞が素晴らしいです。ということで、やっぱりまあそれは、感動させられちゃう、というところがあるわけですが。

で、さらにそこから、なによりもさっきから言っているエピローグ。ここでさっきから言っている「2人だけの世界」。周りは全部書き割り、っていう、デイミアン・チャゼル作品の構造が一気に、ここからは意識的に前面化されるわけです。つまり、物語的にちゃんと意味あるものとして、「2人だけの世界。周りは全部書き割り」っていう場面が、機能し始めるわけです。だから僕は見ていて、「ああ、こういう構造なんだったら、ありだろう」っていう風に思った。で、加えてここは、先ほどから言っている『シェルブールの雨傘』とか、あるいは『ニューヨーク・ニューヨーク』とかを思わせる、ちょっと切ないというか、ほろ苦い結末、プラス『巴里のアメリカ人』的な、とある幻想的なシークエンスが始まる、わけですけど……。

これね、ちょっと自分の本で恐縮なんですが、『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』という本の中の最終章。「人生が二度あれば」っていう章の、239ページの私の回答が、これネタバレせずに私の思っていることを伝えるのに相応しいので、引用させていただきますが。

「確かに『あの時、ああしていたらこうなっていたかも』的な「後悔」というのは、つまるところ、『こうだったかもしれない可能性』という、言ってみれば過去に向けて抱く夢や希望のようなもので(つまり、決して実現しないかわり壊れもしない!)、かならずしもそれは否定されるべきものではない、どころか、限定的なものでしかない我々の人生にとって実は不可欠な、ささやかな「救い」でさえあるんじゃないか?」っていうことを僕は書いているわけですよ。

まさにそういう結論ですよね、(『ラ・ラ・ランド』の)このエピローグは。なので、僕は見ていてもう、「我が意を得たり!」だったし。しかもこれは、やっぱり誰でも思い当たる件ですよね。要するに、過去を「こうあれば、こうあれば……」って。なんだけど、僕もそれに同意なんですが、それに非常にポジティブな結論を与えている。

つまり、本編のあのダメダメな2人は、たしかにダメダメだったんですね。なんだけど、少なくとも可能性は開かれていた。「夢を、見ていた」っていうこの日本のキャッチコピーはまさに(言い得て妙で)、夢を見る者たちの映画じゃなくて、実は「夢を見ていたあの頃の私たち」を振り返る映画だったんだと。その、「可能性がすでに閉じられた状態から振り返った過去」。つまり、(2013年3月23日ムービーウォッチメンの)『横道世之介』評における「懐かしさの本質」みたいな、それと全く同じような構造がこの作品にもあると思います。すでに可能性が閉じられた地点から、開かれていた時点を振り返って、「こういう可能性もあった、こういう可能性もあった」と、それを振り返る、切なく思う。でも、同時にそれは、唯一選ばれた可能性である今ここにいる自分、いまここに至る自分の人生。つまり、自分固有の人生のかけがえのなさ、愛おしさというものを際立てもするということですね。

しかもそれは、もう2人にだけしかわからない世界でいいわけですから。なので、「これでよかった。ここから先、お互いまた次の人生をちゃんと歩いて行こう」という、開かれた……ラスト40秒に私は肯定的だというのは、まさにそこなんですね。要はラスト40秒。2人が別れ際にどういう顔をとるのかな? と思ったら、セブがうなずくんですよね。「これでいいんだ」とばかりに。「がんばれよ」という感じで。で、「OK。あんたもね」っていう感じで別れて。そしてここね。セブがその後、次の曲の演奏を始めようとしている。で、もうエンディングに向けて曲がワーッて流れようとしているんだけど、その曲とBPM的に全く関係がない……要はたぶんアップナンバーなんだけど、「1、2、3、4……」(というカウントの声)だけ一瞬聞こえて、ダーン!って「The End」になる。つまり、この映画で流れている時間と、もう違う時間を登場人物は生き始めていて、そっから先、可能性が……また別の人生の時間が、映画の中で流れ始めているわけ。そこでポーンと終わる。「この話は終わり!」っていう。この切れ味ですよね。

だから僕はもう、ここでスパンと終わるところで、ぶっちゃけさっきも言いましたけど鼻汁を垂らして泣いていたので、負けです(笑)。デイミアン・チャゼルに負けです。最後の40秒で「負けました!」っていう。この切れ味、まさにデイミアン・チャゼルだと思います。ちなみに僕、エンディング周りに関しては、ミアさんがセブがLAでお店を開いているということを全く知らないし、「ここ、セブの店かしら?」って素振りを道でも見せていないっていうのはこれね、つまりね、ミアにとっては(セブとの関係は)完全に黒歴史、もしくはビタイチ覚えていなかったとか(笑)、そのバランスで見ても成り立つんですよ、実はミアの劇中の態度は。完全にセブ側の思いの話とも取れるあたりが、これちょっと面白いなという風に思ってね。こんなことを終わった後に話し合うのもよろしいんじゃないでしょうか。

ということで、なんて言うんですかね? 手放しで全面的に「これ、最高です! 大好きです! 最高!」って言いがたいところもあるんだけど、最後の40秒で僕は「OKじゃん! さかのぼってオールOKじゃん!」ぐらいの感じで。ここで私、5億点ぐらいは全然出てしまいました。私の負けでございます。あの、いろいろ異論は出るとしてもですね、映画館で見る価値は絶対にある映画ですから。絶対に行った方がいいと思います。いま、映画館で。ということで、ぜひぜひウォッチしてみてください。『ラ・ラ・ランド』でございました。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『アシュラ』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

<以下、ガチャ回しパート 起こし>

ちなみにデイミアン・チャゼルは、「セブのジャズ観は別に僕の考えではない。あいつは全然頭が固い」っていうような、一応そういう相対化する視点で、インタビューなどでは答えられておりましたが。ということで来週、3月18日にウォッチする映画候補作品7作品を紹介します……(以下省略)。

◆過去の宇多丸映画評書き起こしはこちらから!